高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







高橋信次先生講演


「神と人間の関係について」


71.11.20 GLA関西本部 特別招待第3回公演会にて

 私たちは長い歴史の体験の中で信仰というものは、神仏を拝むことであり、そしてそのことによって人間は幸福を得られるものだと思ってきています。しかし本当の神仏とは、どのようなものでしょうか。私たちのまわりの、あらゆるところにお祭りしてある神というものは本当に神様なのでしょうか。今まで私たちは先祖代々伝わってきたところの信仰対象というものに対して、何ら疑問をもったこともなく、日々の生活の中に信仰というものが溶けこんでしまっています。

 私たちは本当の神というものが一体どのようなものであるのかということを考えてみましょう。

 まず、私たちの住んでいるところの地球という場は、動物・植物・鉱物が我々の肉体保存のための協力しています。地球以外にもまだ他の天体があるということを知らなくてはなりません。すなわち私たちの住んでいるこの地球も、太陽を中心とした、水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星など九つの惑星の一つとして構成されており、しかもまた三万数千個からなる小惑星群とともに太陽系を構成しているのです。

 更に太陽系そのものも銀河系宇宙の中の小さな一つの恒星系にしかすぎないということが判っています。そういたしますと、まずこの地球という場について考えたならば、太陽の熱・光のエネルギーというものは数字で申しますと一秒間に9.3 × 10
22キロカロリー、すなわち石炭二百万トンを一秒間に燃焼しただけの熱量で、これを地球は全くタダで受けとっていることになります。この熱という縁によりまして、河・湖・沼の水などが蒸発して水蒸気となり、やがて熱の縁によって再び冷却され雲となります。そしてまた雨となって大気をうるほし、植物繁殖のための大きな力をあたえているのです。しかもまた太陽の光によって植物は光合成という作用を起こし、植物自身が吸収したところのCO2(二酸化炭素)を分解して炭水化物や脂肪や蛋白質を作るのです。私たちがこの地球という場に肉体を保存することのできる環境、それを与えたものは神であります。すなわち太陽の熱・光のエネルギーを始めとして万生万物に対する慈悲と愛こそ本当の神の姿なのであります。しかもこの熱・光のエネルギーの環境については決して請求書等は私たちには回ってこないのです。もしこれが大阪ガスや関西電力だったらどうでしょう。一ヵ月支払いをしなかったならもちろん電気もガスもきられてしまいます。

 皆さま自身の肉体というものは約六十兆からなる細胞集団によって構成されているのであります。しかもこの五体は大自然と全く一体であるということで、仏教では「宇宙即我」と教えています。

 これを少し実際について考えて見ましょう。

 皆さま自身の体温は、ふつう大地にふれている時には、36.5℃ということになっていますが、体内温度は約37℃で、この温度は太陽が1㎡当りに与えている熱量と全く等しいということが判っています。なぜでしょうか。また女性の周期がなぜ二十八日といわれるのでしょうか。これは私たちが大自然というものと非常に密着して生かされているからなのです。

 例えば地球と太陽と月という三つの総合運動の中で、月の引力によって引潮・満潮が起こり、また月の公転は約二十八日であり、地球の干満潮に深い関係があることが判っています。また空気・水という存在も大きな関係があります。私たちは水分がなかったらどのようになるでしょうか。また私たちの地球の磁力というものが少し変わってしまったらどのようになるでしょうか。地球も生きているという証拠があるのです。

 すなわち二千五百余年前のインド、アンデス、さらにまたエジプト地方の文明は非常に発達していました。その当時は春夏秋冬というものがあって非常に住みよい世界でありました。現在私たちの住んでいる、東京・大阪・北京・さらにロンドン・ニューヨーク・ワシントンなど、その地域を考えてご覧なさい。東京・北京さらにロンドン・ニューヨーク・ワシントンなどの地域を皆さまの地球儀でよく調べて見て下さい。春夏秋冬のはっきりしている国ほど文明が栄えているという事実であります。中道という言葉通り暑くても寒くても国は栄えません。イスラエルの時代に於てイエス・キリストが多くの人々に愛の道を説き、悩める人々を救ったのも当時の地域というものが多くの人々を救う環境にあったからです。

 この地球上という場は善と悪がミックスされた世界であります。私たちが住む大自然界というものを支配しているエネルギーをコントロールする中心、これを神と申します。

 皆さま自身の肉体を支配しているところの意識、あるいは魂、このものの次元というものを私たちは区分して考えなければならないはずであります。なぜなら私たちが物質一つを見ても、物質そのものは仕事をなしうるところの能力であるエネルギーというものを含んでいます。石炭を燃焼すると石炭は熱エネルギーに変わります。しかし、石炭そのものを見て熱エネルギーを皆さまは果たして想像することができるでしようか。しかし仕事をなしうる能力をもっているという事実は否定できないでしょう。

 さらにまた、私たちの肉体は約三十二種類の原子からなる六十兆の細胞集団で構成されています、そういたしますとこの肉体をコントロールしているところの何物かがあるはずです。

 一体その何物とは何でしょうか。

 もし魂を否定し意識を否定する人があるとしたならば、皆さまがなぜ悩んだ時そのために疲労するのでしょうか。仕事をして肉体的な疲労をするならば話は解りますが、精神的に家庭の不調和、経済的な不調和、このような原因によって悩んでなぜ疲れるのでしょうか。これが一つの疑問。

 もう一つは、私たちの脳は約二百億からの細胞で構成されていますが、この脳細胞の集団が、記憶装置であり、しかもすべてを考えるところの能力があるとしたならば、なぜ眠っている時に、私たちは立派に鼻の穴も、耳の穴もあいているのに臭もまた音も何も解らないのでしょうか。

 このことは肉体以外の全く次元の異った世界の意識あるいは魂の存在があるからです。

 肉体というものはこの地球上に神がつくったものなのです。本能とは、肉体維持、子孫を絶やさないための神から与えられた一機能です。しかし私たちは長い歴史の過程の中でその神理というものを悟らずして、転生をつづけ、同時にこの現象界は修行場であるがために人間はあらゆる間違った行為をしがちなのです。もっとも善なる行為もありますが、この判断の基準が判らなくなった姿が末法の姿というのです。私たちがこの肉体という舟にのってこの世にたとえ貧乏人に生まれようとも、金持ちに生まれようとも、また地位名誉があろうとも、次元の異った世界での規準はそのようなものではありません。

 自分自身である永遠に変わらないところの肉体舟の船頭さんである魂は、ある時は王様になって権力を振い多くの人々にかしづかれて生活をしたこともありましょうし、ある時は奈落の底できびしい苦しみの中から人間修行をした魂もあるでしょう。だが、もし皆さまが地位・名誉・経済がすべての絶対のものであるとした場合は、この世から去る時にそれを持って帰れるとしたならば、それは絶対に肯定されても良いでしょう。しかしあの世はそうしたものは通用しないのです。むしろ地位・名誉・金にしばられて一生を終えた人たちがあったら、大きなお荷物をもったままであり、その想念の重さで地獄界に堕ちて行くのです。

 なぜならば皆さま自身の肉体というものは、人生の乗り舟であるとともに、時が経てばこの世に置いていかねばならない。地位や名誉や金というものは、生活の手段であり、魂修行の媒体にすぎないのです。

 私たちの肉体そのものも約六十兆からなる細胞集団からなっており、五臓六腑の一つ一つは生命をもち意識をもっている。そしてその支配者が皆さま自分自身であります。夜眠った時には肉体から意識がはなれて次元の異った世界へ帰り、あるいはまたこの地上界のあらゆるところを漫歩することもありますが、心が調和されて次元の異った世界に皆さんの意識が行った時には、我々の生命の偉大さを悟ります。そうなると魂と肉体は別物であり、物を動かしているものは心であり、心が物に動かされる愚を悟ることができるでしょう。

 この現象界における万生万物にはすべて中心があり、中心を軸にして動いているのです。まず私たちの住んでいる地球も太陽系の中の一つの惑星にしかすぎない。地球を構成している極微の世界も原子核を中心にして陰外電子が物凄いスピードで飛んでいます。このようにすべてに中心がある。それは皆さま自身の肉体舟の船頭さんである魂の中心・意識の中心が本当の皆さま自身の心なのです。私たちは一人一人の心に形があるということを発見したのです。これは私一人が皆さまの心の形態を発見したのではなく、私の神理を聞いた多くの人々の中からこのような能力をもった人たちが次々と生まれて来ているのであります。皆さまもこの神理を通じて人間として生まれてきた目的と使命を実践された時には、皆さんの心の窓は開かれて行くのです。

 なぜなら人間はみな神の子なのです。

 たとえ、貧乏に生まれて今経済的に苦しくとも、心まで貧乏人になってはならないということを己自身の心に銘記せねばなりません。経済は人間の生活の智恵にしかすぎません。このようなことを考えた時に、私たちは全てが心であり、その中心である正道というものを実践し、己自身が執着を断った生活をした時に、この世の中はもっと平和になって行くのです。またこのようになれば自然と経済的にも、また肉体も、健全になって行くのです。もし肉体的に欠陥があったところで心まで欠陥車になってはいけないということです。それはこの地上界に皆さまが次元の異ったところから出て来る時に、自分はこんどは貧乏人に生まれたその中で自分を磨いてこよう、あるいは、肉体的に欠陥があろうとも、この中で己自身が一心に自分の魂を磨いてこよう、というような約束をして出てきている人達だからなのです。この時に、皆さま自身が肉体的欠陥を心の欠陥にまで及ぼしてしまうと、いわゆるヒネクレた人間になってしまうのです。

 それだけにこの地上界というのは非常にきびしい修行場であるということになります。このような神の子としての偉大性を、とかく私たちは忘れてしまうのは、この地球上に出てしまうと皆さまの魂のわずか一○パーセントしか表面に出ておらず九○パーセントはすべて潜在してしまうからです。ところがあの世では逆に九○パーセントが表面に出て一○パーセントが潜在されています。

 こうした転生輪廻の中でその九○パーセントの偉大なる仏智を顕現する道が、正法であり、八正道の生活なのであります。そうしてやがて、皆さまの心の窓は開かれて九○パーセントの潜在意識が表面に出てくるのです。この時に、私たちは長い人生に転生輪廻してきた過去を思い出し、よりよい生活が期待されてくるのであります。だから私たちはこの
八正道の心と行ないの中からより自分を、過去より高い境地に己の魂を進化させて行くことが、皆さま自身の使命なのです。

 ところが、私たちは余りにも文明が発達してしまって、経済という問題が私たちの生活の中にとけこんでいるために、こういう目に見えるところの諸現象、又耳で聞くところの諸現象に惑わされて、その結果己自身を失なってしまうのです。

 あの世に帰る時には、「冥土(めいど)の沙汰(さた)も金次第」といっていますがそんなものはないのです。

 皆さまの心が開いて、恨み・妬み・誹り・怒り、自分だけ良ければ良いという心を捨てて、お互いに人間同志、金持ちも貧乏人も調和し、足りないものを分かちあう愛と慈悲の心を、皆さまが実践して行った時には、皆さま自身の心というものは、より以上に神の愛と慈悲とに育くまれて行くことができるのです。

 なぜなら、今ここにあるゴーダマ・シッタルダーの像を見ても後に、後光というものが出ているでしょう。後光は心に曇りがないから光り輝くものなのです。大いなる安らぎの象徴が後光といえるのです。ところが心の中の曇りが、想念の曇りが、恨み・妬み・誹り・自己保存・自我我慾の想念をもってしまうと、あたかも我々のこの地球上におけるスモッグの曇りと同様に、太陽の光・神の光をさえぎってしまうのです。

 
皆さま自身の心が調和され、愛と慈悲に燃え人々に対して己自身を謙虚にした生活を行なった時には、皆さまの心の想念の曇りは晴れてくるのです。神の光は、太陽の熱・光と同じ様に、金持・貧乏人・地位名誉に全く関係なく平等にすべてのものにあたえられているのです。人間はそのような偉大な愛と慈悲をうけとるような器を、皆さま自身、自分の心と行ないによって作っていかなければいけないということです。そういたしますと、私たちはこの地上界において生まれてきた目的と使命というものが何か、自(おのずか)ら解ると思います。

 まず我々はこの地上界においてはすべて縁によって組立てられていることを考えなくてはなりません。皆さまが現在、肉体をもっているのも両親という縁によって、すなわちその縁もあの世の次元の異った四次元以降の世界において、皆さまはお互いに約束をして、今度はお父さんになって下さい。今度はお母さんになって下さい、と約束して、しかもあの世に登録されて出て来ているのです。ところがお父さんも、またお母さんもそんな約束は忘れてしまっているのです。しかし皆さまの心の窓が開かれたならばそんなことはありません。
俗にいう偶然ということはこの地上界には何一つありません。すべてが縁、縁の糸によって結ばれているということです。

 このようにお父さん・お母さんの愛情によって皆さまは育まれ、自分自身正しく生きようとしてきているのでありますが、いろいろな諸条件によって自分自身を狂わせてしまうのです。それはわずか一○パーセントの表面意識をもって修行しているために正しい判断ができず、解らなくなってしまうからです。そこに私たちは反省という神からあたえられている慈悲があるのです。
人間なるが故に一寸先は闇だ、苦しみや悲しみや喜びをミックスされたこの世界に修行をしているのですから、私たちはこのことをよく知って間違いを犯したならば、その原因をよく追及してその原因を根っ子から取り捨てて、二度と再び間違いを犯さないような生活をすることが大切なのです。
世のことわざ諺にも
「誤ちを改むるにはばかることなかれ」といわれています。

 禅定というのもまた同じです。
 禅定というのは自分自身の心の中の曇りを一掃することなのです。ところでその曇りを一掃する基準は、八正道という神理に適った中道を根底にすることです。その結果、皆さまが自分自身の生きる道をよく心の中に反省され、犯した罪 ―― 例えば隣の人を恨んだ、嫁と姑が仲良くなかった、このようなことに対する自分自身の行為を反省することです。相手に対して話す言葉もひとつ違えば感情的に悪くなってしまうのです。

 正しく語る・正しく思う・正しく念ずる・・・この神理を中道にてらして皆さま自身が毎日の生活をしていった時には自然と家の中は明るくなってくるのです。そうすると、どこかの神様がご利益があるとか、また先祖が浮ばれないから不幸になるのだとか、そのようなものによって皆さん自身が盲信と狂信をくり返して行くようなことがなくなるのです。

 若し本当に我々の先祖が現在生きている子孫に不幸を与えるとしたならば、これはもう既に地獄界に堕ちているものの仕業ということになります。太陽の熱・光のエネルギーが万生万物に平等に愛と慈悲をあたえているように、
神は絶対に人間に対して罰などはあたえません。罰というのは自分自身が神理を外した心と行ないをした時に自分自身が作るのだということを知らなくてはなりません。

 そのためにはまずここで考えなければならないのです。それは肉体という舟を保存するための肉体先祖と転生輪廻してくるところの肉体舟の船頭さんである皆さまの永遠の己自身、すなわちこの魂の先祖というものがあることを考えなくてはならないのです。

 かってゴーダマ・シッタルダーが今から二千五百余年前、四十二才の時にカピラヴァーストに帰ります。この時にゴーダマは「お父さん魂の先祖こそ偉大なものなのです。これを信じなくてはいけません」といったところが、父親は「その通りだ。シャキャ族は十五代続いている。シャキャとは、そもそも偉大という意味でもあるのだ。太陽の子だとも太陽族ともいわれていた。それだけに先祖代々が立派であればこそ、今は王としてこの生活ができるのだ。先祖を一心に敬うことは良いことだ」という。ところがゴーダマ・シッ夕ルダーは「私のいわんとすることは、魂の先祖のことです。私たちは今ここに生まれてこのような生活をしているが、過去においても同じような転生輪廻をくり返し、今自分自身が望んで地上界に出て、今あなたが私の父親になっているのです。肉体というものはいつの日にか滅しなければならない。どんなに執着をもっていてもこの地上界にある万生万物はすべて無常のものである。自分自身も永久に保存することはできないのです。お父さん。このように私たちの体もいつの日にか滅してゆくのです。しかし肉体の船頭さんである魂こそ永遠のものなのです。私のいう魂の先祖とは私自身の過去世のことなのです。そしてまた未来に生まれてくる己自身のことなのです」とこのように説かれました。

 このように私たちの生命というものは皆さま自身が、本当に肉体から離れて行く姿を見た時に、自分のもう一つの肉体があるのが判ります。

 私は過日皆さまと講演に四国へ行きました。そしてほとんど寝ないで多くの人々にその道を教えておりまして、夜一時頃食事をして床に入ったところ、消化不良といいますか胃腸がいうことをきかなくなりました。四国へくる時にビルの中の病院で薬をもらってもし胃腸が悪くなったらこれを飲んで下さいといわれていますから「体もちょうど疲れている、二服飲んだらさらに効くだろう」と二服飲みました。朝の四時頃です。三時間たちますと酵素が分解して反応が起こる頃なのですが、胃の中が醗酵し始めて気持が悪くなり、約二十五メートルぐらい歩いたところでバターンと倒れてしまいました。約一時間というものは心臓も脈もすべて停止してしまいました。私はちょうど三十四年ぶりにこの体験をしたのです。この時私の死体の側にいる人たちはビックリしてしまいました。

 この時に過日ここにこられた女性の方は霊視がききます。心の中であの世、実在界の人たちは無慈悲だ。なぜこのように一生懸命に人々にその道を説いている人をこのような修行をさせねばいけないのですかと心の中で思いました。私は私の肉体の近くに立っていますから、部屋の中の皆さんの心が解ってしまいます。彼女がそう思った瞬間に、私の体はまだ呼吸も何もしていませんがイエス様がさっーと入られましてそばの人達を安心させるために「大丈夫、大丈夫・・・・・・」と喋っています。

 私たちは肉体の心臓が止まってももう一人の自分ははっきりと解るものです。
 この時に私はまず考えました。
 「これはえらいことになった。私は事業もいくつかやっている、そのため夜も遅く、三年六ヵ月という間一日も休んだことがない、このために肉体的にはたしかに過労になっている、とんでもないことになってしまった。このまま死んでしまったらどうなるだろう。しかし神理は多くの人々が日本全国に、また外国にもいるし、また多くの著書が出ているからこれは必ず誰かが引継いでくれるだろう。しかし事業の方は私がほとんど釆配をふるってきたため内容が他の人には判りません。それだけが私の執着でした。このため私自身復活して現象を見せる以外ないだろう。神理の方も復活して、また多くの人々にそれだけの現象を見せなければならない。という自覚をしています。そのような現象がおこってしばらくたってから心臓が動き始めました。心臓が動いたといってもなかなか自分の肉体に意識が入れません。側で見ているだけです。そしてまた空洞の中でガーンという物凄い振動がある中に自分の意識の底の方から「私はこれで良いのだろうか。もし私のやっていることが間違いであるならどうぞ私を引取って下さい。私に使命があるなら私はやります」。このように約一時間完全にダウンをくいました。それから二時間か三時間くらい休み、午后二時の飛行機で自分の家へ帰り一晩寝たら元の通りに直ってしまいました。

 この時に胃腸に意識があることをはっきりと確認できたのです。胃腸が曰く「あなたは何時でも勝手な時間に休めるだろうけれども私は休む暇がない。そんなに気ままにどんどん送ってもらっては困るのだ。しかもあんな脂っこいものばかり送ってくる。どうしてくれるのだ」とこういう訳です。心臓は心臓で「あなたの血液はまるっきりとんでもない血液だ。もう少し粘調度のうすくなるような食物を食べて下さい」そうしたらその原因はどこにあるのだときいたら腸だということです。そこで腸にきくと「お前は腸の中を掃除したことがあるか。四十年も使い放し。少しきれいにしてくれ」と腸は逆に反撥してきました。そして腸のいう通りやりましたところ現在体もすっかり立ち直り、もちろん寝たことはありません。ふつうの人だったら恐らく生き返ることは不可能だったと思う。私はそのための休養もとりませんでしたが、今は完全に復調して逆にこんどは痩せてしまいました。運動不足のせいでした。そこで運動を一生懸命にやっているうちに完全に体というもののコンディションを整えることができました。

 このように皆さま自身もどんなに
心の面が絶対であっても限界というものがあります。
 
物質にとって限界をすぎれば、ゴムにしてもスプリングにしても元に戻らなくなります。これを弾性の限界といいます。

 皆さま自身もどんなに心がきれいであろうとも、肉体舟と魂が一体になっていなかったならば非常に危険だということを知って頂きたいと思います。

 インドの当時におけるシッタルダーも三回近く同じような体験をしています。茸を食べすぎて中毒し、ああしまったといったことがあったようです。このように私たちも
肉体舟がなければ修行することも出来ないということを知らなくてはいけません。このように肉体と魂というものは不二一体、ここに仏教でいう色心不二ということがあるのです。こういうように、私たちが魂と肉体が本当に不二一体だ。物質とエネルギーと不二一体だということを考えた時、大自然というものは非常に巧妙にできているといえます。

 そこで私たちはあの世にもまた厳しい段階があることを知らなくてはなりません。心の調和された美しい人たち、転生輪廻をくり返してきて己の境地というものをより高い方へと己自身の魂を浄化している人たちは、神の光によって後光が燦々と皆さまの体から出ています。この後光はあの世に帰る時の皆さまの肉体なのです。それを嫁姑が争ってばかりいて恨み・妬みの固まりになってこの世を去ってしまった時には真暗です。なぜならば己の心の想念の曇りが神の光を遮るために、自分のやった行為と心の姿が完全に曇りを作ってしまうために、神の光が届かないからです。そして結果としてその人の心に比例した世界に堕ちていくのです。

 地獄にも
無間地獄というのがあります。
 最近ではヒットラーとかスターリンが無間地獄に堕ちています。なぜ無間地獄に堕ちるかと申しますと、恨みと妬み、そして人を殺したその恨み・第三者の恨みが晴れるまで彼らの意識を束縛してしまうのです。そのような人間は無間地獄に堕ちるのです。

 あるいはまた金・金・金といって金のことしか考えない人たちはがきかい
餓鬼界におちてゆきます。餓鬼界という世界は最もきびしいところです。食物もありません。全く骨と皮だらけの世界です。私はいって見て本当に気の毒だと思って参りました。

 それから、
皆さまの心が怒る心、そして恨みの心――これは心の中で思っただけでも駄目です。その心は阿修羅界に通じていることを知らねばなりません。そして私たちはその恨みの心が阿修羅界に通じていることをはっきりと現証にて確認することができます。それですから皆さまは夜夢でとんでもないところへ行ってビックリすることがあるでしょう。そんな夢を見た時には必ずその前の日、皆さま自身の心の中に不調和な現象があったからです。

 そのように心というのは、いかに重大なものであり、私たちは心こそ永遠に変わらない己自身だということを知るならば、現在のただ今の心と、行ないがいかに大事かということを知らなくてはならぬはずです。

 また
煉獄地獄というところがあります。この世界は人間の業想念(ごうそうねん)が作り出している世界であります。ろくに何もしないのに、死にたくない死にたくないと言って生に対する執着心が人一倍大きいにもかかわらず、彼らには過酷な労働と死が常に待ち構えているのです。

 世間ではよく家を建てる時とかにお祓(はら)いということをやります。これは皆さまも良く知っているでしょう。ところがお祓いなどしたらとんでもないことになります。

 こんな体験がありました。

 過日私が家を建てるために、古い家を壊しかけました。
その家は今の天皇陛下がたまたまこられてそこでお神楽をご覧なった場所で、伊藤博文の書だとか額だとかいろいろ掛かっています。非常に古くから代々続いている古い家だものですから、土蔵を壊し始めたところがいっぱい霊がいました。彼らは言うんです。「あなたは一体誰だ、私は何代前のこういう者だ。俺の家を勝手に壊しては困る」、そこで私は「子孫が繁栄するのを望んでいるのならあなたたちはなぜそんなことに執着をもつのです。あなたたちはこの地球上に住むべきではないのだ。執着をはなれて天上界の光の国へ帰りなさい」と話してやりましたら「そんな国なんかありゃしないさ」と彼らはそう答えました。死ぬ前にそんな執着をもっているから自分が反省する機会を失っているのです。

 そのうち一人の工員が怪我をしましたのでこれはおかしいと思ったところが、後の方に、有象無象たくさんいます。そこで私が「先祖代々の諸霊よ、あなたたちは良く聞きなさい。あなたたちはこの地球上に執着をもってはいけません。なぜあなたたちが地球上に執着をもっているのかそれを良く教えてやろう」ところが彼らは地獄へ堕ちても九○パーセントの表面意識ですから、すぐ私たちの光は解ってしまいます。そこでコンコンと話をしたところ「ああ俺たちはやはり死んでいるのだ。この家に未練をもって子孫と話をしようとしても、あなた以外には話はできなかった。申し訳なかった」と言いました。それも五代、十代、二十代と古くなるほど本当に解りません。こういう連中が地獄に堕ちているのです。彼らはお墓やお寺が自分の世界だと思っているのでそれも地獄なのです。こういう世界に執着がある彼らは本当に全てを捨て切ってあの世の天上界に帰らなければいけません。

 その地獄に堕ちるには堕ちるだけの理由があります。そしてそう裁くのも自分自身なのです。閻魔大王が側にいてお前はこんな悪いことをしたから地獄だとは、とんでもない話です。皆さま自身の心は絶対に自分にはうそをつけないはずです。この嘘をつけぬ善なる己自身の魂が自身を裁くのです。絶対に他人が裁くのではないのです。

 これから皆さまの中からも心の窓が開かれる人たちが出て参ります。お稲荷さんというからさぞ稲荷大明神かと思っているととんでもないことです。その時にははっきりとその物の姿を皆さまはこの目で見ることができます。そう成った時に「触(さわ)らぬ神に祟(たた)りなし」ということをよく知って頂きたい。ですから多くの信者の中には、私はこんなに一生懸命に毎朝、南無妙法蓮華経を勤行しているのになぜ不幸なんだろう。隣りの八さんや熊さんは何も信仰していないのになぜあんなに調子が良いのだろうと、思っている人たちがこの中にだいぶ居ります。そこに皆さまは疑問をもたなくてはいけません。自分が真に法華経の神理を知って毎日の生活をしているのかという、己自身を反省することが第一なのです。これを忘れて神様のせいにしてしまって神はすこしも協力してくれないと思ったりして、さらにそのうち熱中して来ると、病人が出た、それ経済的に不調和だ。そういうことに直面しますと先祖様にすがる、一生懸命に南無妙法蓮華経を唱える。これでもなかなか結果は出てきません。そこで大事なことは南無妙法蓮華経を縁にしてなぜ自分自身がこの様になったのか、これを考えることが忘れられているのです。この疑問を疑問のままに流し去っているところに間違いがあったのです。

 そこで皆さん自身が南無妙法蓮華経の神理を悟った生活行為をすることが必要だということです。南無妙法蓮華経そのものも、インドの当時にゴーダマ・シッタルダーがよく蓮の花を方便として説きました。「あの泥沼をご覧なさい。あの泥沼は汚ないではないか、しかしあの汚ない中にも美しいハスの花が咲いている。お前たちの体もそうだ、目を見れば目糞、また鼻糞・耳糞、体から出るものは何一つとしてきれいなものはない、ちょうど泥沼のような体だ。しかし肉体舟の船頭さんであるところの魂、心が神理を知ったならばあの蓮の花の様にお前たちは仏の心と調和されて安らぎを得ることが出来るのだ」と、これを五世紀から六世紀にかけて天台智顗が法蓮華僧伽呪(ほうれんげさんがんじゅ)として説いたのであります。

 続いて八世紀に日本から留学した最澄が比叡山延暦寺で妙法蓮華経として日本流に改めました。つづいて日蓮はご丁寧にも南無妙法蓮華経と南無の字をつけました。人間は新しいものを発明するのが好きで人のやったものは中々信じられません。南無とつければもっと良いと南無とつけたそうです。ところがインドの当時に南無という言葉はナモということです。中国から日本へ来てナム。南の方には何も無い。こんなのは当て字です。南無というのは帰依する、調和するということです。

 法華経は自分自身の心こそ偉大だと教えているのです。
そして心と行ないを常に法華経の真理を通して、毎日の生活行為の中で私たちはより以上に、神仏の子としての偉大性を発見することができるのだ、ということを説いているのです。

 ところであの世の問題ですが、皆さま自身がこの世を去る時には心の暗い光のない人達は先ず地獄に行くことを覚悟して下さい。死ぬ時に執着をもっている人も地獄です。その反対に執着もなく自分自身が一生懸命に毎日毎日を生きてきた、心の中は反省しても悪いことはないという人は安らぎの心ですから神の光が入って参ります。

 私の体験ですが、過日死んだ時に・・・そんないい方をしたらおかしいのですが・・・一時間ばかりあの世にいってその時につくづく感じたことは、今日一日一日が一生である。明日に思い残すことを持ち越してはいけない。そして明日また生きられるならば、明後日また生きられるならば、このようにしよう、あのようにしよう、という計画は必要だが、今日死んでも良いというような心の状態にしておくことが一番重大だと私は悟りました。それだけに我々は死というのは決して恐しいものではありません。

 皆さまが死にますとまず心のきれいな人たちは向こうから迎えが参ります。肉体の先祖か悟った人がくることがあります。あの世の鼻の高い人が来たり、外国人のスッキリした人が来たりするとビックリすると思います。このために肉体先祖が来ていろいろその中で生活の修養所のようなところへ連れて行かれます。さしあたり、ある宗教団体で他宗はすべて邪教だと決めつけた人たちの中にはあの世へ帰った時に、ただし心がきれいならば修養所で彼らのいった法華経の間違いを、そこで訂正させられます。彼らはその道場で間違いを自分で発見するのです。

 日蓮は他宗はすべて邪宗で日蓮宗だけが絶対だとはいっていません。ところが日蓮宗は南無妙法蓮華経を拝んでいてもあっちは邪宗だ、こっちは本物だとか馬鹿みたいなことをいっているのです。こういうことをまず修養道場で徹底的に反省させられるのです。

 ある人はここで十年、いや二十年・三十年やっても卒業できない人がいます。この段階がまず第一段階。さらにその上に幽界というところがあります。一般に皆さまがいう天上界というところです。天上界へは後光という光がなければこの国の扉は開かないのです。ちょうど電気の光で開く扉と同じようなものです。皆さまの心が調和されて光子体という肉体の光が強ければ強いほど世界がどんどん開けて参ります。これはちょうどエレベーターに乗っていると思って下さい。そしてこのエレベーターは無限に続くエレベーターなのです。私たちはよくあの世に行く時に、途中で死んだ人たちがついてきます。白い雲にのって途中でみな消えて知らぬ国へ行ってしまいますが、それでも結構、天上界に行っているのだから良いなあと思います。

 その天上界の一番上の方の世界が仏教でいう如来界、または金剛界ともいいます。その世界は全く下の方から見れば太陽だとも、神様だともいわれます。この世界にはスモッグなどはなく晴天です。地獄界へ行くとちょうど谷間のような暗いところと思って下さい。そんなところへ行くのもこの地上界を去る時にみなさま自身が自分で決めてしまうのです。すなわち神も信ぜず、人を恨み・妬み・そしりした連中、自分勝手な気ままなことをした連中は奈落の底へ堕ちます。土管の中の様に真暗な世界です。その時に必ず誰かが救いに来ます。
「お前、そんなところにいたら死んでしまうぞ」。

 死んだと思っていても大低の人はこの地球上に執着がありますから、自分の死体の側にしばらく居ります。そこで自分で眺めていて、生きている親や兄弟と話が出来ないものですからそこで疑問をもち始めます。その内にお坊さんが来て「ああ自分は死んだのかなあ」ということになります。ところが仲々お経をきいても難しくて解らない。そのうち「ああ、あいつ自動車にのってきたから自分が生きていると教えてやろう」ということになって、乗っている人に憑依して自動車事故を起こしたりするのです。葬式の後によくこういうことがありますね。

 お経はいくらお坊さんが一生懸命あげてくれても難しくて解りません。ですからもっと解り易く「貴方は今死んだのです。生きている時に、八正道ということを知らずに貴方はこういうことをした。だからこういう面を修正しなさい。反省しなさい」、とよく教えてあげることなのです。そうしますと口の利けない死人の顔がスーと赤くなります。同時に硬直しているのが柔かくなります。こういうことは機会ある時に試してみて下さい。

 それと同時に皆さん自身は自分自身をより修行していかなければなりません。下手に自分が解らずに一生懸命にお経をあげている中に変なものにつかれて腰が痛い痛いということになってしまう、こういう人がたくさんいます。それには原因は何であるか。こんなに一生懸命に信仰しているのに私はなんで安らぎがないのだらうか。その安らぎは本当は自分自身の心のあり方によってできるのですが、自分の心が解らないために、またどのようにすれば良いかという規準が解らないから、迷ってしまうのです。すなわち、まず八正道の規準をもって思うこと、行うことが神理に適っているか、又はいないかを反省することが大切です。私は八正道をやっているから「あの野郎口惜しいのだが我慢しょう」、とみな心の中におさ抑えてしまってはだめで、こういうことに自分が執着をもたない。そして自分が正しく相手に対して、それでもなお相手が突かかってくるなら「ああ、あの人は救われない哀れな人だ。神よどうぞあの哀れな人を幸福にして下さい」と念じて下さい。この慈悲心が大事です。

 こういう例は特に嫁・姑の関係に多いのです。姑さんがいるからと遠慮して心の中ではあの婆さん本当は死んでくれたら好いのに、あの婆さんのために私はこんなに苦しいのだ、と考えたらいけません。多くの人は私さえ我慢したら好いんだとみな心の中に詰めこんでしまいます。ところがこれを親や兄弟のところならいざ知らずよそへ行ってぐち愚痴話になります。実はこれが一番危険です。実は過去世において親子であったかも知れないのです。そういう縁がなければ嫁・姑の関係もできません。そういうことが解らずにただ気の毒なお婆さんだというと、すぐお婆さんからとんでもない嫁だと反撥が返ります。そういう時でもやはり自分の心を惑わされないように、正しく語って相手に感情を高ぶらせぬような言葉で話をして解らなかったならああ気の毒な人だ、「神よどうぞあの方に平和をお与え下さい」という心が大事なのです。

 
これを忘れてお互いに犬猿の仲のようになってしまうとついにお嫁さんの方が倒れてしまうことがあるのです。
これは心の船頭さんが迷ってしまうから肉体までおかしくなるためです。この中にも私もそういうことがあると思っている人が居ります。皆さんはよく考え直すことが大切です。特にお互いに心で笑い合えるように、馬鹿をいっても怒らないように、心を大きくもって包んでやるような心をもつことが大切です。
特に年をとった人たちは自分などはあーだった、こうだった、こんどの嫁はちょっと違うとかいろいろ思うものです。こういう中にあっても皆さん自身は心を惑わされぬように、まず明るく平和にすること、こういう生活をしていると家の中に光が入ります。後光がさしているから今度は悪魔も入れません。これがまず第一です。

 私はこういう質問をうけました。
 うちのおじいちゃんはお墓がないのです、大きな石塔をお金があるから作ってやりたい。ああそうか、おじいちゃんの名前はなんという、年は、とききました。ところが名前というのはインドの時代も目蓮(もくれん)という名前が沢山ありました。また迦葉(かしょう)というのもそうですが、そのため大・中・小といろいろ区別した名前にしたのですが、日本の場合も小林太郎というたら何百人もいます。先祖代々でなくとも、肉体関係がなくともあの世から呼び出されれば、ここへ来なければならぬのです。だから皆さんが自分の先祖を先祖代々と呼ぶと本当にくるのですよ。ただし心がないと地獄霊とか、おかしなものが来ます。ところがこのおじいちゃんは天上界に出ている人でしたから「お墓をつくるのはいかん。金が掛かるから。もっとかわいそうな人たちにその金を貸してやれ」といわれるのです。その方は墓をつくるかわりに喜捨をされました。

 もう一つ実例があります。
 ある化粧品の大きなメーカーの社長でその方は非常に立派な方で幼少から天理教に帰依していました。ところが忙しくてそのうち天理教はやめましたがその神理の中から立派にこの道を弁(わきま)えています。七十で亡くなられました。約五百人いる従業員が、どうしても社長の銅像を建てたいといって私のところへ尋ねてきました。その亡くなられた社長があの世から出て来ていろいろ話をきいて見ましたところ「お前たちがいつか経済的な不況のために会社が困ることもあるかも判らない。銅像を建てる金があったらその時の資金にとっておきなさい。銅像など建てる必要はない」とその社長がいわれたそうです。実はこのことを亡くなられる三日前にも同じことをいわれたそうです。そこでたまたまある人を介してそこの会社の役員達が従業員の希望と前社長の遺志とをどう考えたら良いか判断に迷って私のところへ相談にこられたのです。ところがこの社長は大したものです。「私たちは地球上で生活している時よりももっと良い環境で生活している。地球上に思い残すことは何もない。だから多額のお金で銅像をつくるなどその必要は全くない。会社の多くの店舗がもし一つでもうまくいかなくなった時その救済のための資金として残しておくように」といわれました。死んでも欲しがるのは地獄霊ですが、毎晩ご飯を供えてくれなけりや先祖はひもじいのだなどいってくるのは地獄霊です。余談ですがあの世にもこの地球の食糧とは違いますが食事はあるのですよ。

 ですから、まず皆さん自身が、家の先祖の皆さんに、私は皆さんの姿を見ることはできない・・・しかしそのうち調和されて心がきれいになれば皆さんの姿も見えて参りましよう。こうして先祖の生きて居られた時のことを思い出して、もし間違いがあったら、ああです、こうですといって説明してあげてご覧なさい。それにはまず一番大事なことは、家の中を平和にすること、そして心にわだかまりがなく夫婦相和し調和のとれた平和な家庭をつくること・・・それが本当の先祖への供養なのです。皆さんが自分の子供が不幸になることを望みますか・・・望まないと思います。これと同じように、お爺さん、お婆さん、また、もっと以前の先祖も残された子孫が不幸になることは絶対に望まないはずです。

 ちょうど関西歌舞伎で東京から来ている俳優が昨日私のところに参りまして「先生私は今仏壇の御供養のために大変なのです。私たちの食事よりも多くの迷っている霊のために食事を供養することが大変です。実は足が不自由になっているのでなんとか先祖を供養してと思っているのですが・・・」、というので私は霊視で「あなたは憑依されている。あなたは先祖を拝めば救われると思っているが実は自分の関節までだめにしかかっているではないか。食事が欲しいなどいう先祖はないはず。先祖供養を考え違いしてはなりません。悪い関節はすぐ直してあげましょう」とよく話しをし、光を与えました。現在元気で大阪公演中です。

 この様に私たちは先祖にはまず感謝し、家の中を明るくすること・・・これが一番の先祖供養です。それを忘れて家の中などかまわずに、ただ先祖様にだけ好物をいくら御供えしてもこれは本当の信仰とはいえません。

 私たちは肉体を頂いたことを感謝する心と行為を現わすには体を丈夫にすることです。そうして同時に心をきれいにすることです。こうなると自然と家の中は明るくなり、経済的にも安定して参ります。これは八正道の中の正業、すなわち正しく一生懸命に仕事するから当然の結果です。こうして自分の家が平和になったらこんどは隣、近所の人々に愛と慈悲を分かち合う・・・そして調和を作っていくこれが本当の神理です。

 あの世というところは、心の悟っている人たちはどんどん進化して行きます。神界というところは多くの発明・発見をする、例えばアインシュタインのような学者が多くいます。それからさらに心が浄化され多くの人々に自分の肉体を供養した、このような人たちは神界よりさらに上、すなわち菩薩界上段階光の大指導霊、さらにつづいて上々段階光の大指導霊・いわゆる如来界という段階に進みます。

 人間は心こそ偉大なるものであることを皆さん自身が発見されて行った時に、私たちはこの神理を己の心として毎日毎日の生活をしていかねばならぬのです。人間は永遠に変わらない己自身の心を神の心として、偽りのない己に嘘のつけぬ心の調和を日々計って前進した時に本当に人間が神の子であるということを悟っていくのです。現在この地上界における人類は、みなあの世に帰った時には私たちはみな兄弟だということを発見するのです。それだけに皆さんは隣近所の人々とは赤の他人だとはいってもふりかえればみな神の子であり、お互いに自分の考えの足りないものは人から学び、知っていることは人々に教え、心の中に神の子としての偉大性を発見して行くのです。

 皆さまはこの現象界において神理を知って修行し一つでも実践して行ったならば、皆さま自身の心のテープ・レコーダーの中には今私が説いている神理がすべて記録されているのです。それでこの世を去る時、自分の善なる心で思ったこと、行ったこと総てが記録されている心のテープ・レコーダーを自ら眺め、その時に救われるのです。

 このように私たちは心こそ永遠に変わらない己自身だということを知り、正しく神理に適った生活行為をすることが肝要なのです。

 大自然の慈悲と愛に対する感謝にしても、親に対する感謝にしても、ただ「有難うございます」というのは感謝ではありません。親孝行を自分が実践してこそ感謝が輪廻するのです。大自然が私たちの肉体を保存できる環境を与えてくれている神の愛と慈悲に対しては、私たちは凡ての人々に対して自分自身が出来る奉仕を行ない、慈悲を与えてあげる、そしてそれに対して決して代償を求めない・・・こういう心の浄化と実践を計ることが本当の大自然への感謝ということになるのです。
 太陽の熱・光が万生万物に全く変わりなく与えられているその姿と心をもう一度良く思い起こして下さい。



 - 完 -





2017.02.11(土曜日) UP

園頭先生が制定に尽力された【建国記念日】に