高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








インターネット宗教 『 正 法 』

ウエーブマスター 八起正法 氏 より、お預かりしているデーターからUP致します。







     高橋信次師の最後の講演    

  獅子吼(ししく)の講演とはこれを言う   

 




1976(昭和51年)6月4日~5日、岩手の盛岡で東北研修会が開催された。演題が4日は「新復活」、5日は「太陽系の天使達」で、お釈迦様が説法をされたときのように光の化身となって昇華されるような迫力の講演であった。数時間にも及ぶが、将来、音声データの圧縮が劇的な進歩をとげれば、インターネット上で公開される時も来よう。くしくも高橋師はコンピューター端末機器会社の経営者であった。



 
六月四日    演 題 「 新 復 活 」


 非常に美しい自然の、緑に包まれた環境の中で、東北の研修会が行われることを心からお祝い申し上げます。今日の演題は「新復活」。丁度、現在、東京地方には、創世記時代の映画が来ております。

 しかし、人類は緑に包まれた、しかも神の光に満たされた地球という環境に、今から三億六千五百有余年前、はじめて、ベーター星という星より、神より与えられた新しい緑につつまれたこの地球上に、人類は最初に印したのであります。その当時ベーター星は調和され、私達は新しい新天地を求めて、最も調和されたこの地球という環境を選んだのであります。その当時最初に反重力光子宇宙船という、いまで云うUFOです。それに乗りまして、最初地球上の人類は、神の光によって満たされた天使であるところのエルランティー、このエルランティーと云う方が中心になりまして。エルランティーは直接神の光を受けているところの真のメシアであります。そしてエルランティーの光の直系と致しまして、光は七色に分かれます。七色のプリズムということを想像いたしまして、まったく同じように神の光はここから七色の光に分かれます。この七色の光の方向を決めているのがミカエルと言う方であります。(黒板に図示しながらの説明。)ミカといいます。ミカといわれる天使です。神の直系です。神の光の直系です。

 そしてこのスリットを通し、神は光なり、その光の六人の光の線がこのスリットを通して霊子線がつながっております。この中にそれぞれのスリットを通して七人
(ななにん)の天使がおります。これがガブリエル、この方がウリエル、サリエル、パヌエル、それから全部で六人、この七大天使というのが、じつは新しい、新天地を求めて来た時の最初の光の大天使達です。この下にそれぞれ何億何十億という魂の霊子線があります。さらにまたエルランティの光の天使の分霊と致しまして、カンターレというのがいます。、さらにまたアガシャ、モーゼ、一方においてガブリエルの系統にマホメットがいます。そして第一艇団がエルランティを中心にしてミカエルに、ラファエル、ガブリエル、ウリエル、サリエル、この七大天使が中心にして、現代のエジプトナイル渓谷の東部にあるエルカンタラーと云うところに着地致します。その場所が一番最初のエデンの園です。約六千人のベーター人が全部この地球上におりてまいりました。それぞれ七大天使はラファエルをはじめ文芸や芸術、政治経済、あるいは立法、科学、あらゆる担当をして総括的にミカエルが中心になってエデンの園をつくりあげました。そしてその当時は同じベーター星の人間であっても皆さんの肉体とまったくかわっておりません。風土、気候いっさい地球上とかわっておりません。

 魂と肉体、今皆さんの持っている肉体は、あくまでも物質であり、人生航路を渡っていくための舟にしかすぎません。その船頭さんである 魂、このものとは完全に分離することができました。当時の人々は、心とすなわち魂と肉体と完全に分離することが出来ました。そのために天上の世界とコンタクトができ、人間の心は調和され物にこだわることなく全てが調和された世界でありました。そのようなエデンの園にやがて第二艇団が地上界に移ってまいりました。その時すでにエルランティーは天上の世界に帰りました。これが天上界、地球上の創世記です。地球の創世記は三億六千数百年前に最初の七大天使がこの地上界に生き約六千人の人類がエデンの園をつくり、第二艇団が地上界に着地し生活するようになって立法を犯す人々が出てまいりました。その為に、その責任者である所のミカエルは、規律を破るところの民に対して一部分、エルカンターラから移しまして〃そなた達は神の子としての己れ自身を再確認するために、もう一度自分の思念と行為、行っていることと、思っていることを修正していらっしゃい〃と、その場所から多くの人々がその位置をかえました。その人々が後、エデンの園との連絡を絶ち、やがて天上界との連絡をたち、ついに天上の世界に帰ることなく、地獄の世界をつくり出してしまいました。当時は地獄は存在していなかったのです。それがアダムとエバの後物語に変わってしまったのです。その為に創世記の映画とはちょっと違いますけれども、私はこの肉体をもって天上の世界に行って、現実にその姿を見て来たのです。

 皆さん自身は、なぜ三億数千年前のことがわかるんだろう、と疑問を持つでしょう。疑問など持つ必要はないのです。皆さんの心の中には、過去、現在、未来は一点なり。皆さんの肉体を支配しているところの、潜在されている九〇%の意識の中には、永い永い転生輪廻におけるところの一切の記録を持っております。そのために過去、現在、未来は一点なり。皆さんの心の中に今、存在しているのです。皆さんの現在は過去、現在を集約した現在そのものの姿なのです。ただ肉体を持ってしまったために、自分がわからないだけなのです。その心を正し、真の神の子としての道を己自身が生活に生かしていったならば、その実体を知ることができます。それだけに最も粗悪な光の集中固体化したところの地球上の肉体を持ってしまうと、人間は皆盲目になり、それがために、物がすべてだ、地位がすべてだ、と情欲に駆られ、神の子としての本性を失ってしまったのです。 しかし、皆さんの心の中には、偉大なるところの智慧が誰しもが存在し、持っているのです。それが、生まれて現在までの間に、思ったり行なったりする正しい基準を失ってしまったために、心をスモッグにおおわれ、神の光を自からして遮り、ただ分からなくなっているだけなのです。それゆえに、我々の物理学上におけるところの時間と空間は不確定です。しかもまた、心の面におけるところの時間は過去、現在、未来は、現代をして一点であるというのです。皆さんの心の中には、そのようにはっきりした偉大なる智慧が存在しております。それを調べあげて行く結果において、三億数千年前のエデンの園は、すでに人類がこの地上界へ出て来て第二梯団移住の時にエデンの園は、一部分の物質欲望に駆られた人々によって道を間違えてしまったのです。

 そしてエルランティをはじめとしてやがて七大天使はこの地上界をあとにします。そして、多くの遺産をこの地上界に残し、後の世の人々が、その偉大なる残した地上界の遺産をどのように活用するかを、私達は天上の世界において暖かく見守ってまいりました。

 しかし物におぼれ、肉におぼれ、情欲におぼれた一部分のエデンの園から離れた人達を救済するために、天上の世界よりルシュフェルという天使を出しました。ところが、たとえ天使なりといえども地上の不安定な肉体を持ってしまうと、手足をもがれたと同じごとく、生まれた環境や教育や思想や習慣を通す中に己の本性を忘れ、ついにルシュフェルはサタンという名前に、その環境に生まれている間に彼は自分の地位と名誉のとりことなり、ついに天上の世界と交信をたち、この地上界を去るとき、天上の世界に帰ることなく、地獄の世界へかえってしまったのです。そのサタンは現代は地獄の帝王になっております。これが最初の地獄界の実態です。

 こうして多くの天使達は天上の世界からこの地上界の動きを観察し神の子にもどす為に、多くの光の天使たちをこの地上界に送りました。エルランティ自身はアガシャーという方を、光の分霊です。この方を送ります。さらにまた、カンターレーという方を送ります。後のゴーダマブッタです。天上界ではカンターレー、と言っています。お釈迦様とは言ってません。ゴーダマブッタ。アガシャーはのちのイマニエル・イエス・キリストです。モーゼはモーゼです。さらにまたイエスがゴーダマブッタが生まれるときにはガブリエルという方は主として伝達の係をし通信関係の責任者です。ゴーダマ・ブッタがインドに生まれるときには、ガブリエルのグループの方がゴーダマの生まれることをゴーダマの両親に通信を送ります。アシタバという仙人です。あるいは又、アガシャーであるイマニエルに対しては又、ガブリエルはミカエルの命令によって受胎の告知に出ていきます。モーゼが生まれて当時の王に、その命令によって多くの人びとが殺されます。彼は葦船に流されていく途中、七大天使はサタンより守るために、彼が拾われるまで彼の成長を楽しみます。それぞれこうしてメシヤというのを送り出したのです。これはすべて神の心である法を説くために、出て生きているのです。特にモーゼの時代というのはサタンの跳梁が厳しく、世は混乱し人間は、本当に底辺の人々は自由になりません。人を殺すなんてことはヘイチャラです。その為にモーゼというメシヤを出して、社会の人心を正しい法によって導かなくてはならない。その時にエルランティはヤーヴェという名前で彼を指導します。ヤハウェーという名前でモーゼを指導します。それが十戒です。汝をイスラエルのカナンの地に導きしは我、ヤハヴェなり。汝、偶像を祭って祈ることなかれ。汝の主はヤハヴェなり。汝、近隣を愛せよ。近隣のために偽りの証をすることなかれ。これが十戒です。それは丁度、シナイ半島の岩壁にヤーベーが現証として、その当時現証として現わしたのがセラビムというのがおります。セラビムという諸天善神です。現代もおります。このセラビムや他の天使たちに命令し、あるいは、その目的を果すためにそれぞれの指令を天上の世界から命令を出します。聖書の中にはエロシムと書いてあります。このエロシムという者はエルシムというのです。これは聖書の間違いです。エルシム。このエルシムと名乗るのは、七大天使が全んど名乗るのです。それはエルランティの命令による秘書的な立場に立ってエルシムとして名乗ってそれぞれの指令を出します。

 しかし、今から三千百五十年前、ヤーベェの真実の教えは、いつのまにかサタンの喰いものになり、汝、偶像を祭って祈ることなかれといえども、余りにも霊的な奇跡的な現象が一杯現われる為に、モーゼはその偉大性をたたえて、ついにお祭りをしてしまったのです。そしてヤギの生き血、或いはまた、羊の生き血をあげるようになってしまったのです。それは、サタンの命によって、彼は動かされてしまったのです。ヤーベはそのようなことは一つも言いません。あくまでも十戒というものを中心にして、人間の生きる最低の道を説いていったのです。混乱した世相、主を名乗りながらして、サタンに利用されてしまったのです。そのために、すでにモーゼが亡くなられて二百年にして、間違った思想はどんどん出てしまいました。その為に、天上の世界よりミカエルの分身を地上界へ送ります。エリヤです。今から二千八百七十三年前、エリヤをこの地上界であるイスラエルの北部に農夫の子として肉体を持たせ、彼の心を揺さぶり、 ヤーベーはつぎつぎと指令を出して、当時のイスラエルの間違った神々、これを世の中から抹消する命令を出します。アハブという王は、最も悪辣で、皆さんが知っているアスラーというやつ、アシュラー(阿修羅)。争いばっかりやる神様。地獄霊です。この悪霊を祭らしたり、いろいろな偶像を祭らせる。仔羊を生贄
(いけにえ)にするならまだいいが、自分の子供まで生贄にさせるような間違った教えをするようになります。こういう教えに対してエリヤは疑問を持ち、ヤーベーの教えとは全く違う、十戒とは全く違う。そして、彼はついに立ち上がり、その王と対決するようになります。しかし、当時は、約四百数十人もの予言者たちが、エリヤの前に立ちはだかっております。そのためにヤーベーは、「今から三年間、もう雨は降らせん。イスラエルの地に雨は降らせん、それを王に言ってこい」という。ところが、王様にしてみれば、「お前は国賊だ、イスラエルの国賊だ」といって、エリヤは追放をくらいます。それでも彼の心を揺さぶって、ヤーベーはつぎつぎと指令を出していきます。これは実は、このあいだ、エリヤが私に原稿用紙で約百五十ページ近く、当時の模様を全部語り、現象を見せてくれました。その現象の一端として、五月の丁度七、八日頃、東京には大きな雷が落ちました。それはその時の百分の一だそうです。今後はそういうことはどんどん起こります。そして、アハブをやっつけてしまった訳です。そういうようにヤーベーは大きな現象を与えました。多くの予言者達が輩出して、間違った教えを再び元にもどそうとしたけれども、どうにもならなくなって、今から約二千年前に、再びアガシャであるところのインマニエルをこの地上界に送りました。その時は、ヤーベーとはいいません。エホバと言って名乗ったのです。エホバ。神ではありません。神の命を受けた最高責任者です。そしてイエスに人間の愛を説き、間違ったユダヤ教を修正するために、この地上界へ送り出したのです。



                     



 ヤーベは、「六日間働いて一日を聖日となし、自分の一週間の間違った過去を振り返り、心を修正し、二度と同じ間違いを犯さない」という聖日を設けたにもかかわらず、後の司祭者達は、「その七日目の一日は仕事をしてはいけん。人と会ってもいけん、動物に食糧をやってもいかん」というようになってしまいました。このように、ユダヤ教は大きく歪みを作り出してしまったのです。そのものを修正させるために出したのが、インマニエル・イエス・キリストです。しかし、彼もやがてサタンの餌食になって十字架に架かってしまいました。さらにまた、変えられてしまったために、ミカエルの分身であるところの天使、魂の兄弟をこの地上界へ送ります。この方がマーチン・ルッテルです。さらに、フランスからは、ガブリエルであるところのカルビンを出して宗教改革に出したのです。一方において、仏教の方は、ゴーダマ・ブッダが悟りを開き、道を説く課程において、このミカエルの説いたその過去世である、今から三千五百年前のあのギリシャに於いて説いたアポロの教え、アポロ、このアポロの教えは、やがて東の国、インドに伝わってゆくであろう。そのインドに伝わってゆくその神理をやがてメシアであるゴーダマ・ブッダという方が生まれて、それを悟り、道を説くであろう。このようにして東の方にはカンターレを出したのです。これが後の仏教ですね。ところが、いつの間にか仏教も化石化して、お経をあげれば救われるようになってしまったのです。「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華教」それで救われた人は一人もいないのです。「南無阿弥陀仏」というのも、ゴーダマ・ブッダが、かつてラジャグリハという町の郊外のベルベーナ(竹林精舎)におる時に、ビンビサラーと言われる王様がおります。その奥さんが幽閉されます。コッサラーと言われるイダケダという婦人です。アジャスターという倅
(せがれ)に幽閉され、子供自身が何んとか仏教を知って欲しいと思ったけれども、ゴーダマ・ブッダの従兄弟であるところの、同じ王子として出家された方がおります。デイダヴァという、その方にそそのかされて、お父さんとお母さんを幽閉し、お父さんは死んでしまいます。お母さん自身は最後の望みとして「仏陀から何か一つ話を聞きたい。私は何もいらないから仏陀から真の話を聞きたい。お母さんの一生のお願いだから」と言って、牢獄に入りながら、お母さんの願いだけをいれて仏陀の話を聞かせたのです。それが阿弥陀教と言うのです。

 この阿弥陀教と言うのは西方浄土、インドから西方といいますと、現代のイスラエルからエジプト方面。このアガシャーの過去世の中には、転生の過程を通してアミーと言われる方もおります。そのアミーという名前は、最初はアモンと言ったファラオ(王様)です。魂の系列です。そのアモンがエジプトに行ってアーメンに変わり、ソロモンに行ってアミーに変わりそれからギリシャに渡ってアミーという名前に変って、インドに行って陀仏が入ってアミダブツ(阿弥陀仏)になったのです。そして、その西方浄土にアミーと言われる偉大なる指導者がおって、そこに浄土があるんだ。あなたは今、自分の子供に幽閉されているけれども自分の子供を恨んではいけません。あなたは厳しい環境の中にあっても子供の罪を許してあげなさい。やがてあなたはこの地上界を去らなければならない。その時にあなたは阿弥陀の浄土に帰ることが出来るのです、と言う阿弥陀教を説法したのです。それが阿弥陀教。ところが日本へ来たら「南無阿弥陀仏」と拝めば救われるんだ。馬鹿げた話です。これはインドの言葉だから通用するんです。「南無阿弥陀仏」ちゅうのは、これはインドの言葉が中国に渡り日本へ来たから丁度うまくいっているんです。これを直訳したら「阿弥陀様の法に帰依する」っていうことです。「ナム・アミ・ダボ」っていうんです。阿弥陀という悟られた方に帰依する。それを仏壇やお墓やお寺に行って「ナムアミダブ・ナムアミダブ…」そりゃ語呂はいいやね、確かに。ところが日本語に直訳したら「阿弥陀様に帰依します。阿弥陀様に帰依します。…」って何百回ゆってもやらないんだね。そしたら阿弥陀様は皆さん何んて言いますか。「お前、帰依すんならやってくれよ」って言いますよ。そのように仏教も化石化したんです。最近は、又はやりでね「南無妙法蓮華経」。「妙法蓮華経」に「南無」をつけたらもっと良いんじゃないかと日蓮さん考えちゃってね。一千万人近くの人間が「南無妙法蓮華経…」をまあ、二時間も三時間もやっていますね。あれも馬鹿げた話ですよ。あれで救われた人はいないんです。「南無妙法蓮華経」というものも、本来ゴーダマ・シッタルター、釈迦牟尼仏がインドの地に於いて、ガンガーの流れを通し、無学文盲の人々に対して方便として説いたものです。「諸々の衆生よ、比丘、比丘尼たちよ、あの汚いドブ沼の中でも美しい蓮の花が咲くであろう。ときに、そなたたち、比丘、比丘尼たちよ。サロモン、サマナーたちよ、そなたたちの身体を見てみなさい。目が疲れれば、目糞が出て来るだろう。汗、大小便、あのドブ沼より汚いそなたたちの肉体である。しかれども、そなたたちの心が、宇宙の真理を知って生活をしたならば、あの蓮の花と同じように、調和された境地に、安らぎを得ることができるのだ」と説いたのが法華経なのです。

 それをわからないで、「法華経に帰依します、法華経に帰依します、…」「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、…」最近はもっと速くやればいいと、「ナミョホレンゲキョ、ナミョホレンゲキョ…」馬鹿げた話です。気違いです。いわんや汝、偶像を祭って祈ることなかれです。人間の印刷物をいくら拝んだところで、救われる道はないのです。我々は旧来の陋習を破らなければいけません。もし、神が必要ならば皆さんがこの地上界に生まれて来た時に持たしてよこしました。曼陀羅をみんなブラ下げてよこしました。男性のブラ下げて来ているのは違うじゃないですか。このように仏教ですらわからなくなってしまったのです。

 こうして太陽系霊団というのは、光の直系として、エル・ランティーを中心に、エル・ランティーは、その時代その時代によって、ある時はヤーベを名乗り、ある時はエホバを名乗り、ある時はまた梵天を名乗り、また、さらにマホメットの時にはアラーを名乗りました。 人類は皆兄弟であり、同じ太陽の下に生活しているのです。宗教は一つなのです。ガンガーの流れも、ヨルダン川の流れも、いまだかつて方向は変えていないのです。時代の新旧によって道は変わらないのです。



                  



今、私たちは、マホメットやモーゼやイエスや、ゴーダマの説いたものを一つにするために、私達は肉体を持っているのです。皆様は、その選ばれた民なのです。そして、自らの心を開いた時に、あらゆる国々の転生を体験し、その心の中に、その神理が皆記録されているのです。それを甦らせた時に、今、私のゆっていることがわかるようになるのです。神は己の心の中にあり。己の嘘のつけない善我なる心こそ「神」なのです。神は形づくった中にあるのではないのです。皆さんの心の中にあるのです。次元の違った世界なのです。そこから皆さんは今、肉体を持って、今、生きているのです。 その肉体を持ってしまうと、私達は目や耳や口や、心の中に思ういろいろな想念、こういうようなものによって、本当のものが見られなくなってしまったのです。皆さんは、真の自分の姿を見ることは出来ないのです。ただ、肉の姿しか皆さんは鏡で見ることは出来ないのです。しかし、皆さんは誰しもが本当の自分があるのです。本当の自分を見るように私は教えているのです。それは心です。魂です。皆さんの今、思っている思う根源です。それは不変なものなのです。皆さんの肉体は、今、自分のものだと思っておっても、それはただの錯覚なのです。何時の日か朽ち果て、我々はこの地球上の塵に変わってしまうのです。肉体を支配している皆さんの魂は、永遠なのです。ただそれを形づくられて、私達は生きていくに最低必要なものとして、五官が与えられているだけなのです。しかし、真の五官は、皆さんの心の中にあるのです。心の眼です。心の耳です。そしてまた、心のすべての機能は、皆さんはすべて所有しているのです。それを自分が開発した時に、真に永遠の自分自身を知ることができるのです。私達は、今、この地上界がすべてだと思っておってはいけません。皆さんの、この、人生の五十年や百年は、幻の如く、線香花火のような、ほんの一瞬にしかすぎないのです。そして、我々の眼前に現われてるところの物質や諸現象は幻です。永遠のものではないのです。朽ち果ててゆくのです。形を変えていくのです。しかし、皆さんの心の中に体験された偉大なる智慧は不変です。この地上界を去る時に、何一つ皆様は持って帰ることはできないのです。また、生まれて来た時に何一つ持って来た人は誰もいないのです。我々は、こうして五官に惑わされ、物質的光景の中で、物に溺れ、苦悩を自らしてつくり出しているのです。その盲目の中から、人間というものの価値観を知っていくのです。手探りの中から、そして、自らして心の安らぎを得、正しい普遍的な神理を、己の心と行ないの物差しとして生活をしていった時に、真の己を知ることができるのです。これが悟りです。悟りというのは、己自身の心を知ることです。己の心を知った時に初めて、人生の目的と使命を知ることができるのです。それは他力ではありません。自力です。神はすべての物を皆さんのために用意し、与えてあるのです。太陽をはじめとして、生活できる一切の動物、植物、鉱物すべて、神は皆様に与えてあるのです。それを取らないだけなのです。取り方がわからないだけなのです。何を欲するというのでしょうか。物質や経済は無常なものです。しかし、現代のように高度化した社会生活の中において、真の人生の幸せを得ようとするならば、まず、最も大事なことは、健全なる精神、心です。その次に肉体です。その次に生きる為の経済です。経済は衣・食・住です。この五つの大調和があって初めてユートピアが出来るのです。それが真の道です。ところが、いつか人間は、その道を外し、エゴに変わり、すべて皆兄弟だという道を外して、エゴの方に走り、自己保存に走ってしまったのです。

 皆さんは、同じ太陽の下で、すべてが皆平等なのです。今皆様から、自分の地位と名誉と財産を差っ引いたものを想像して下さい。何が残りますか? それが今の皆さん自分自身なのです。地位や名誉や財産は永遠のものではありません。真の皆さんは、それを差っ引っいたものです。この世を去るときの真の姿なのです。こうして私達は過日、天上の世界に於きまして会議をやりました。私の隣りにはインマネール・イエス・キリストがおりまして司会をやり、その隣りにはゴーダマ・ブッタ、カンターレがおります。その隣りにはガブリエル、サリエル、ウリエル、こちらがわにはモーゼ、さらに又光の天使約十人ばかり、そして地球上の状況を次々と報告して来ます。心を失い権力の座について、人間の自由を剥奪しているところのソビエトは、
モスクワを中心として食糧危機は彼等が自覚するまで続きます。北朝鮮も又、同じです。中華人民共和国の北部も同じです。アフリカの西部海岸も同じです。一方に於いて中南米のパラグアイも同じです。サタンの跳梁を許しているのです。そのような心の人達のくもりは、神の光をさえぎり、自からして、天変地異を造り出しているのです。更にイタリーの北部からベイルート(レバノン)にかけても同じです。宗教の同じヤーベーの教えであるその神理を曲解して、それぞれの道を歩んで、又同じ現象が起って参ります。日本の食糧危機は、心ある人が出て来ているためにありません。こうして天変地変は次々と起ってまいります。それは、気候異変は、天上の世界の神の光の届かない所に起るのだということを知って欲しいのです。

やがて北朝鮮は破産をします。日本は戦後わずか三十年で世界のトップに成ったというのも、それだけの偉大なる魂達だからなのです。一つ間違えたら又、逆の方向へ進んでいきます。それは危険なことです。皆さん自身の進むべき道は真の道、普遍的な己自身の心に嘘のつけない善我なる心を芯として生活を知ったとき道は開かれていくのです。それが神理です。今後大きな現象が起ってまいります。間違った宗教家達は、私(わたくし)によってつぶされていきます。どのような宗教家であろうとも、間違った宗教家達は私達(わたくし)の霊的な力によって現象化されていきます。信じようと、信じざるにかかわらずそれは事実です。あと五年です。皆さん、見ておって下さい。地震も雷も自由自在です。それだけに、今、私達はその受け入れ体制をしておかなければなりません。日本ばかりではありません。やがて私は中近東へ行きます。そして真の道を彼等は知るでしょう。それは地球の最終ユートピアの為に、私達は今、肉体を持っているのです。その為に自分の生活の場は自分の生活として今度の光の天使は全部事業をやりながら出てきております。宗教でなど飯は喰いません。それが本当です。神は一銭の、人間から金などいらないのです。太陽はただです。神の心です。これが神理です。私は実業家として、あと四年五年のちにおいては、その面に於ても、世界でも、知らぬ人がいなくなるでしょう。当然なことです。それが道です。イエスの時代や或いはまたゴーダマの時代ならばそれで良かったのです。現代の時代はそれではだめなのです。教祖や、その取り巻きが優雅な生活をする為に宗教があるのではないのです。真の宗教とは宇宙の人間として生きる道を教えているのです。そして、人間に生きる喜びを与える道なのです。これが神理なのです。神は人間の造ったものを欲しません。大事なのは美しい一人の人間の心が欲しいのです。道はやがて開かれていきます。我々の前途は光明に満たされます。そして、その人達は救われていきます。やがて、地上界の人々の一人一人の心が調和されてきた時に、我々の肉体先祖はその姿を見て、「俺達の時代とは違う。なぜ俺達は、この厳しい環境にいるのだ。」難しいお経ではなく、皆さん自身の日常生活一つ一つの想念と行為の光が、やがて地獄の世界を救っていくのです。最終ユートピアは地獄のなくなる時です。サタンは私(わたくし)が今一生懸命に、〃新復活〃という本を書いております。モーゼの十戒をはじめとして、間違った宗教を修正しているために、やっきになって私の為に攻撃をしてきます。しかし、例えルシフェル・サタンなりといえども私のかつての弟子です。彼はやがて私の軍門にくだるでしょう。知らないから地獄に落ちているのです。彼等も救われるでしょう。私は命がけです。

それは皆さん一人一人が自覚された時に、皆さんの周辺の肉体を持っているところの先祖達も救われていくのです。坊主の難しいお経によって救われるのではないのです。お経の意味がわかって生活しているような人なら天上界へ行きます。ゴーダマ・ブッタは決して死んだ人間を成仏させるために坊さんをつくったのではないのです。生きている人間をどのように導き、人間の心を指導するためにこの地上界へ出てきたのです。地獄に落ちるというのは、人のせいではなく、自分の思念と行為の間違いそのものが、自分の行動によって地獄に落ちたのです。天上の世界がピラミッドのように高くあれば、逆に又、地獄の世界は逆ピラミッドとして存在しているのです。この地球はその中間的環境にあるのです。そのために皆さん自身が、善を思い善の行為をすれば天上の世界に、悪の行為をすれば地獄の世界に、彼等はいつでも待っております。それだけに正しい心、正しい法この道を己自身のものとして生活をしなかったならば、人間は救われないのです。しかし、皆さんの心の中には誰しもが神の子としての真の愛の心を持っているのです。なぜならばすべて皆さんは天上の世界から約束されて、この地上界へ出て来たのです。還るときに、あれもしよう、これもしよう、でなく、今の一秒一秒、一日一生の己自身の完成が皆さんをより大きい、広い豊かなものにしていくのです。今、きびしい経済的環境にあろうとも、悲観することはないのです。今、そのきびしい環境の中で、今、皆さんは、自らの魂を学習するために、今その体験をしているのです。たとえ経済的にめぐまれていようとも、その環境に安住するものではないのです。恵まれているならばそれを大事にし、気の毒な人達に真の愛の行為を無所得のままにしてやることなのです。これが道なのです。皆様は皆兄弟なのです。生まれの環境が違おうとも、神の子としてすべて太陽のもとに兄弟なのです。他人ではないのです。袖すり合うも他生の縁といいます。まことにその通りです。皆さんが目覚め自からを自覚した時に、皆様は神の子としての道を、己自身がして実行していくのです。いま、私がしゃべっているこの言葉は、皆さんの心の中にすべて記録されていきます。そして、この地上界を去ったときに、真実であるかないかを、皆さんは自らしてわかるのです。その時に救われるのです。生きているうちに自らをつくることです。道は永遠に続きます。今、この世限りではありません。やがて我々はあの世に還ります。そして、またいつの日か地上界か、或いは、また他の天体に出てくるのです。皆さんは自らに目覚めなさい! 自らの心を開きなさい! 小さな自分を捨てなさい! 偉大なる神の光に目覚めなさい! それは愛です! それ以外にないということです。この研修会を通し自分の心を裸にして、神の己自身の本性に目覚めて下さい。永い時間どうも有難度う御座居ました。



                    






2016.11.27 (日曜日)UP