高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします






ひかり、No.1~6は、京都在住の法友、谷口氏から贈呈頂きました。

ひかり誌掲載の中から、主要項目をアップ致します。


以下、谷口氏 あとがきより
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『ひかり』修復版作成を終えての あとがき  2014.12.10

 小生が入手した『ひかり』は、非常にコピー状態が悪く、まともに読めない。そこで不良個所をワープロで書き直し、切り取って、貼り付けをして修復し、読めるようにした。
 この修復版は数年前に作製し、袋とじにして、そのままにしてあったが、今回、製本した。その理由は、正法を学び、信次先生のことを、もっと知りたい人たちにとっては、かけがえのない貴重な資料だからです。正法は、今後も永く後世の人々に伝えていかなければならないものです。
 小生、もう79歳後半、残された人生の時間は少ない。あと10年は健康で生き正法を伝えたいと思っているが、こればかりは思うようにいかないものだ。     ( 完 )


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G L A 誌 前 身 誌

ひ か り

No.1 ~ 6( 最終号 )

  昭和45年8月号~昭和46年1月号
  (1970年)

 以後GLA誌に改題


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ひかり 第1号より  昭和45年8月号 (1970年)

〝 神光会 〟と「その意義」  高橋信次


 地上の文明は栄えています。生活は便利化され、お金さえ出せば何でも自由に物が買え、好きなものが食べられます。物質は豊富で、経済発展は天井知らずです。百年前、二百年前の世相に比べますと、世の中は、確かに進歩しました。文句のいいようのない時代です。しかし、それにもかかわらず、私達の心は休まるひまがありません。むしろ、百年前、二百年前よりも人々の心は荒れております。人情は地に堕ち、自己本位のエゴが横行しています。がむしゃらな競争、戦い、不信、悪徳偽善といったようなものが、はばをきかし、文明の進歩とは裏腹に社会は、不安と混迷の渦に巻き込まれつつあります。かろうじて、人に迷惑を掛けねばよい、とする個人主義的倫理観が、社会秩序を維持しているというのが現状です。一体、この原因はどこから来ているのでしょうか。文明は、人間の智恵の所産です。ところがこの文明に人間の欲望が覆いかぶさり、知と欲望の二人三脚を続けているからにほかなりません。欲望という機関車は、走り出すと停まらないという性格と、自己本位がつきものです。従って、文明が進むとますますその機関車は、弾みをつけて突っ走ります。その結果はどうでしょうか。歴史が証明するように、やがては戦争、災害、天変地異となって現れてきます。個人の場合は、難病、事故、変死という、忌まわしい原因をつくってゆきます。
 人間の精神構造は、智情意三体から出来ています。所が、現実社会は、智情意の情が抜けて知と意で走り続けていますから、困るのです。情不在、心不在です。心が不在なために、文明が進むにしたがって、不安と混迷を増すという結果になっています。
 人間は神の子です。
 神のことは、智情意の三体が、内にあるということです。その神の子が、知と意だけで事を運ぶために、不信や争いという苦の原因をつくってしまいます。情・・・心を取り戻さなければなりません。知と意の間に、情があるのは宇宙も人間も、心が中心であるということをいっているからにほかありません。釈迦もイエスも、慈悲と愛という形で、人間の心を説いてきたのも、このためです。
 人間が心を知った時には、大宇宙の仕組みが分かり、無限の智恵も湧いてきます。そればかりか、小我(意)の自分が大我(意)となって、宇宙即我の仏身を体現することが出来るのです。
 神光会の目的は、心という灯火を失った地上に、光明を与えるべく、生まれた団体です。永遠不滅の釈迦の正法、イエスの神理を人々に知ってもらい、人々をして神の子としての自覚と、この地上に大調和を実現するためであります。
 神光会という組織は、本来、必要ありません。各人が正法を体得し、神の子の己を知った生活を送るならば・・・。しかしながら、混迷の現実社会に、光明と正法をよみがえらせるためには、どうしても光の母体がなくてはなりません。このために、神の命によってその組織を、つくることになったのです。もう一つの目的は、正法神理の灯火を消さぬためです。
 仏教やキリスト教が知と意によって解釈されてきたように、この過ちを二度と繰り返さないために後継者にバトンタッチするためです。次の世代を背負う者は、現在二十代のラフラ、マンチュリアなどの光の天使達であります。そうして三代、四代というように実在界では、光の天使達を地上に送るべく、用意しています。このように、神光会は、かつて見ない計画と証明に満ちていることを、知って頂きたいと思います。
(完)


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人間の幸せは 〝 形にとらわれないこと 〟   高橋信次

 現代は、資本主義、社会主義の名の下に世界が二つに割れ、それぞれの世界をつくり上げています。このために、地上の生活は常に不安と混乱の中に揺れ動いています。人間の幸、不幸のわかれ道は、こうした主義主張や形にとらわれるか、それとも神の心に調和するかにかかっています。
 今こそ人間は、神の子の自覚を持つ時であります。以下は高橋信次先生の最近の講演から抜粋要約したものです。
 現代社会は資本主義、マルクス主義に二分されています。そうして、その根底に流れているものは何かといいますと、物質経済であり、イデオロギーであります。イデオロギーに心があるでしょうか。心があるとすれば党利党略や争いというものはありません。
 資本主義は表面は自由です。しかし、欲望というカルマ(業)を根底にして動いております。このために、経済社会が進めば進むほど本来の人間性は失われ征服欲、物欲、情欲、名誉欲などの氾濫となって現れてきます。
 マルクス主義はどうかといいますと、一部の権力者の号令の下に人間は国家というメカニズムの中に押し込められ、奴隷と化してゆきます。古代の奴隷はまだいい。主義主張の場合は、かつてのナチ、現代の中国に見られるように親子、兄弟、夫婦でもいつ密告されるか判らないといった人間不信感が横行します。
 我が国の場合を考えてみますとそこには物価上昇、労使間の闘争、ゲバ学生の弁証法的な行動等、経済の発展にも関わらず混乱と争いが後から後から出て参ります。一体何が争いの種をつくっているのでしょうか。それはみんな自己本位、自我我欲、それぞれの立場で、ものの考え方がガラリ変わってしまう所に原因があります。
 利害が反すれば、昨日の友は今日は敵ではありませんか。これでは、いつになっても調和ある社会はできません。己自身の調和、社会の調和は、先ず自分自身が人間としての仏性に目覚めることです。仏性とはどういうことかといえば、神の心を心とした心です。
 現象界は魂の向上のためにある
 あいつが悪い、こいつが面白くないという心ではなく、人間はみんな兄弟である、友達である。互いに助け合って生きてゆかなければならないということであります。あいつが悪い、こいつが面白くない、という前に、まず自分自身を反省することです。
 この世にとって、自分以外のものは、自分の魂の向上を図るための材料にすぎないのです。生まれてくるのも一人ならば、死んでゆくのも一人です。親子でも、夫婦でも、どんなに仲が良くても生まれる時が別々なら、死ぬ時も別々です。身代わりはできないのです。人間はそうした中で生活し、魂を磨いてゆくものです。したがって、自分の環境、境遇というものは、全て自分にとって神が与えた環境であり、自分が求めた境遇でもあるのです。
 あいつが悪い、こいつが面白くないという前に、どうしてこうした環境、境遇というものが生じてきたかを静かに考え、反省することです。すると、そうした想念の出発点は、みんな自己本位、自己保存という、自分をかばう心、自分をいたわる心、自分を小さくする心であるということがわかって参ります。わかってきますと、人が自分に対して不利益な言動を吐いたとしても、余り感じなくなります。他山の石として、向上への反省の材料になってきます。・・・やがて、自分自身に安らぎをおぼえ、環境や健康に恵まれてきます。これは、どうしてこうなるかといいますと、人間の心、意識というものは神と直結しており、神仏は万物を育む熱光でありますから、神と直結すれば自分の環境や健康も整えてくれるからであります。
 人間がその心を知る為の方法として。インド時代の釈迦は、中道ということを教えました。イエスは愛を説きました。
 中道とは円でいうと、円の中心ということです。平面的には上下に偏らず、真ん中の道です。その真ん中の道を知り、真ん中の道を歩むためには、苦(迷い)の原因(六根)を滅(なくす)することです。それには道を行じなければならない。即ち、八正道を行じよ、といっているのです。イエスの愛の神理も同じです。人は懺悔(反省)した時、神はその罪を許してくれるのです。罪とは、己をかばう自己保存の念です。
 この世の現象世界は、各人の魂の向上のためにあるのです。
 物質経済中心の心ない何々主義何々主張からは、決して人間は真の喜びを得ることはできません。何故出来ないかといえば、人間それ自身がそのようにつくられてはいないからです。
 アメリカのニクソン大統領は、世界の調和ということをいっております。大変いいことです。けれども、己の党利党略のための調和では、調和の意味が失われます。
 調和とは本当に、神の神理を悟った心からの調和でなければ意味がありません。自己本位の調和は自我我欲から出たものですから、そこには必ずや、破壊と闘争を生むことになります。
 調和の第一歩は、ウソのつけない己の心に問う、聞く、の生活です。八正道を日々行事ることしかありません。真の調和は神の子、神の心を知った時に、実践行為となって初めて実現するものであります
                                         (文責記者)


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神理問答  (周)

【 問 】 魂とはどのような性質を持っています。心と魂の違い。この両者は同じものですか。

【 答 】 魂とは、個性を持った意識です。エネルギーの支配者です。
 人間の意識は10%の表面意識と90%の潜在意識からできています。で、魂といわれる部分は本当は、表面意識と潜在意識の全体をいいます。ところが、表面と潜在の意識がわかれているために、全体を表わす魂を持った人は少なくなりました。
 普通、魂といわれる部分は、表面意識と潜在意識の間に横たわる想念帯という所の想念意識を指していってしまいます。想念意識は今世の経験、教養、徳性などを含むと同時にあの世の経験、前世の経験も含まれています。このため同じものを見る、聞くにしても人それぞれによって、受け取り方がみんな違っています。これは想念意識の影響があるからです。
 従って、人それぞれの魂の大小、在り方が出て来ます。魂に個性があるというのも、このためです。
 地獄に落ちた魂を指して、迷える魂といいます。これは今世においてその生活態度が表面意識に強く左右され、潜在意識につながる想念意識の善なる波動(自分の心にウソはつけないという事実)を無視した為に起こるのです。偽善、怒り、そねみ、嫉妬など。
 次に心とは、各人の意識の中心であります。意識の中心とは円全体を意識しますと、円の真ん中、そうして各人の心は、神仏に同通していますから、心は何でも知っています。普通あの人の心はキレイだ。あの人の心は汚いとよくいいます。これは想念意識の影響による所であって、厳格にいうと、あの人の想念はキレイだ、あの人の想念は汚い、といった方が適切なのです。しかし、これでは一般的に通用しませんので、心といっています。
 心そのものは、神仏の心に同通しているのですから、太陽のように、慈悲と愛だけなのです。汚いとか、キレイということはないのですが丁度太陽を中心に地球を始めとして九惑星が自転公転しているように、この時の太陽は神であり地球は私達の心なのです。
 さて、魂と心の関係ですが、心そのものは神仏そのものですが魂は、心を中心とした円全体の意識(表面、想念帯、潜在)ですから各人の魂にはそれぞれの転生輪廻の歴史があります。従いました、それぞれの個性を持ち、神の波動を受けながら向上進歩してゆくものです。このように魂と心は個々独立したものではないのですが、普通は表面意識と想念帯の悪い部分に左右されてしまうために、心に通じた魂を表してゆく人は、非常に少ないわけです。

【 問 】 悟りの意味・・・。

【 答 】 悟りという文字はりっしんべん(心)に吾(われ)と書きます。この意味は、吾れ心を知るということであり、その境地が最も高まりますと、吾れ宇宙の心を知る、ということになり、宇宙即我となります。悟りの状態は、無私、自由、公平、明朗、慈悲、博愛などです。


( 注・神理問答の題名の後に(周)と記載されています。
    高橋信次先生の解答ではなく、講師又は事務局員の解答だと思われます。)



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会員心得

1.大宇宙を支配するエネルギーの源は神真理。
2.この地球上は宇宙体の細胞の一つであり、大神殿なり。
3.地球を支配している者は神の命による実在界(エネルギーの世界。あの世)の諸如来、
諸菩薩(光の天使)なり。
4.肉体は人生航路の乗り舟にして肉体の支配者は意識なり、意識の中心は心にして、常に
己の心を信じ、己の心に問う反省の生活を実行すべし。
5.人間は、宇宙細胞体の一つであるこの地球上に人類の心の調和によって仏国土を建設す
る目的を持って生まれたものである。
6.八正道(正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく仕事をなし、正しく道に精進し、
正しく生き、正しく念じ、正しく定にいる)を実生活に実行すべし。


( 会員心得は、ひかり 第1号 1970年8月号 ~ 1971年5月号までの10冊に記載があります。
  それ以降の記載はありません。)




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ひかり 第2号より  昭和45年9月号 (1970年)

〝 正法 〟と「三つの眞意」  高橋信次


正法とは、どういうものか。正法とは読んで字の如く、正しき法、宇宙の法、人間の法、永遠不滅の法をいいます。
 法とは、その中心は心であり、神の理であり、かえることのできない絶対不変の法則その普遍性をいうのであります。

 正法を現実に照らしてみると、次のような、いくつかの事例をあげることができます。
 一、太陽は東から昇り、西に没す。
 一、善なる思いは善に還り、悪の思い把握を呼ぶ。
 一、形あるもの、必ず滅する。
 一、一念の心、岩をも通す。
 一、水は、高きより低きに流れる。
 一、楽あれば苦あり。苦をいとわねば楽あり。
 一、愛は、人の心を育む。
 一、心は万物に通ず。

 正法というものは、何時いかなる時代でも変わらぬ神の理、即ち、神理そのものでありそれはまた宇宙の法則、人間の法則であります。
 正法を、今度は側面からとらえると、正法とは、循環の法であります。
 東から西に没する太陽。善意には善、悪には悪。楽すれば苦、苦あれば楽、というように、円運動を描く性質を持っています。仏教で、はこれを因縁因果といい、良い結果を求めようとするならば、良い原因をつくるよう、毎日の生活に、ウソのない正しき行為に励みなさい、という訳です。
 地球が太陽の周りを廻っているように、地上の生活、人間の生活も、果てしない循環の法、魂の向上をもたらす転生輪廻を続けています。転生輪廻とは、生まれては死に、死してあの世にかえり、再び、地上に生まれて生活することをいいます。動物、植物、鉱物、宇宙の全てが、循環の法則に従って生かされています。しかし、大部分の人は、死とは無にかえると思い、生命の永遠性から眼をそらしてしまいます。悲しいことです。童心に帰って、大自然に心を向けてごらんなさい。そこには水の生命の永遠性、美しく嬌(きょう)を競う花の命の転生輪廻を見ることができます。人間だけが、例外ということはありません。
 今生は勿論のこと、来生をよりよく生きようとするならば、努力の二字を忘れずに、正法に沿った生き方こそ大事であります。世間を呪う前に、不遇をかこつ前に、まず、己自身を振り返り、自然の生命の帰るように努めるべきであります。
 正法を、もう一つの面から眺めますと、正法を行じる者には、必ず、喜びや安らぎが与えられるということです。
 正法とは、自然との調和であり、神との調和ですから、そこには、健康、明朗、安心、円満といったような、精神的、肉体的喜びが得られます。
 現象的には、奇跡、あるいは自己発見という形となって現れます。正法から見れば、その奇跡は奇跡でもなんでもなく、当たり前のことが、当たり前になったということです。ところが、現実的常識的には奇跡として映ります。それほど、現実の生活は、正法から離れているわけです。
 以上でおわかりのように、正法とは、正しき法、心(文証)であり、そうして、その法は循環という円運動(理証)を持って動き、それに乗った生活をする者には現実的喜び(現証)が与えられるということであります。
 また正法というものは、文証、理証、現証の三つが、無理なく揃ってこそ、初めて正法といえるのです。どこかの団体が、やたらと正法を口にするようですが、正法とは、このような裏付けなくしては正法とはいえないのであります。
(完)


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夏季研修会から拾う    堀田和成

 神光会会員有志による夏季研修会が去る八月十五日から十八日まで静岡県藤枝市一ノ瀬において開かれました。参加者は七十数名。研修の目的は、潜在意識の開発につながる共同生活を通じての正法の実践です。三日間を通じ霊道を開きかけた人、多数。松本氏のお嬢さん、松本ひろみさん十四才が、先生講演中に霊道が開き、中国とインド時代を思い出し、当時の言葉を喋り出しました。三日間の研修を通じ、主だった出来事を拾ってみますと・・・・・・。

 ・第一日目の八月十五日は、台風九号の歓迎を受け、断続的に降る強い雨は、私達を宿舎に釘ずけにしました。窓を開ければ雨が吹き込んで来るので、チョットしたムシ風呂の室内。どの顔も油ぎっています。そうした中で、先生の講演会が午后六時から。市ノ瀬町会々場二階で行われました。普通なら旅の疲れも手伝って、先生の声量、さぞ落ちてしまうだろうと思われましたが、スーパーマンの先生は、少しも変わりません。例の調子で法話を始められます。キキ手の方も、先生がシャンとしておられるので、肩を落とすわけにはゆきません。第一、今度の研修の目的は、共同生活を通じて各人の潜在意識の開発にあり、しかもそれは先生ご自身でなく、我々一人ひとりにあるということであれば、エリを正さぬわけにわゆきません。遊山気分は、先生の力強い講演で一変に吹き飛んだ形になりました。

 ・この夜、講演中に、物質化現象が現われました。ものは、純金の金片です。遠目で見ると、金粉が先生の口からはき出される度に電燈の光に当たり、キラキラと舞いおりるといった情景です。先生の顔や頭髪は、無数の金粉が輝きます。三日目の十七日夜の講演の際も、同じような現象が現れ、地元の人達は、みな一様に驚く。金片にまじって、直径2.5センチほどの金の塊りが飛び出しましたが、行方不明となりました。物質化現象はモーゼ様のおはこです。固体を気体にかえ、気体を固体に復元する。これを時空を超えて、瞬間的に行います。先生の背後でモーゼ様が演じます。物質化現象には高熱が伴います。そと目にはさほど苦労のないように思われますが、大変なエネルギーの消耗です。胃と口中は火のように熱せられ、普通の者ならヤケドしてしまいます。先生のご苦労と慈悲を感じないわけにはゆきません。神仏の存在を、いろいろな形を通して示されるからです。ここで霊媒の物質化現象と異なる点をあげますと、霊媒の場合は、客観的には霊媒者と観客の意思の統一と暗闇と時間を必要とします。先生はこの三つの条件を完全に無視されます。したがって、このこと自体驚異です。次に霊媒の背後霊が問題です。霊媒者のほとんどは、前世において、肉体行を重ねた者です。このため、その背後霊は、魔王や動物霊、あるいは仙人界の同行者が憑依してやる場合が多いのです。霊媒や行者の最後は、大抵悲惨な死をとげるか、不幸に終わるのもこうした理由からです。正法を知らず、己自身を知らずして、背後霊の跳躍に身をゆだねてしまうからであります。

 ・二日目の十六日。一ノ瀬幼稚園の園庭で地元青年団の盆踊りとノド自慢大会が開かれました。夜の禅定は、時ならぬ騒ぎでストップ。郷に入れば郷に従えです。くつろぐのも調和とあってみれば、踊りも、歌も、また楽しからずやであります。ノド自慢に時が移り、何人目かに、ヘブライ語によるメロディが流れてきました。ハテ、おかしいことがと耳を澄ます。どう見ても地元の人とは思えぬ。よくよく確かめてみると、何とそれは、類稀なる絶世の美女、聖サン(星先生)でありました。分身の方が出て、一ト声うなったということであります。霊道が開くと、こんなにも自在なものかと、浮かれ気分も正気に戻る。続いて、神光会会長との声。演題は、正法ならぬ馬小唄とくる。馬小唄と正法・・・。これをどう結びつけたらいいかと首をひねっている内に、太く声量のある旋律が心をとらえる。静かな眠りに入った四方の森も、朗々たる光の美声に目を覚まし、さざ波のような山彦となってハネ返ってきます。どこでどうおぼえられたか、地元司会者も、さすが一芸に秀でた人は、歌もうまいといって拍手を惜しまぬほどでした。

 ・松本喜八郎氏のお嬢さん、松本ひろみさん十四才が、先生講演中に霊道を開いてしまいました。中国とインド時代の言葉をペラペラ喋り、大人をアッといわせました。その発音の確かな事、驚くほどです。中国もインドも、ともに親子として生まれ、今また日本で親子の情で結ばれるという、その因縁の不思議さに瞠目させられました。貧乏で親孝行をしたくてもできなかったと、日本語になって語るときに、誰一人、涙をもよおさぬ者とていませんでした。親が子を思う愛情はふつうですが、子が親を慕う献身的な愛は理屈抜きで感動を呼びます。ともかく、松本ひろみさんの霊道は、数多くの示唆を与えてくれました。

 ・三泊四日の夏季研修会は、一ト意でいえば、疲れたの一語につきるようです。若い人はともかく、大半は中年以上の人。宿舎は一ノ瀬幼稚園の園舎。丁度、昔の陸軍の兵舎に似ています。畳はなく、板張りで、その上に布団を敷き、ザコ寝です。高らかに、いびきをかく豪の人もおりましたが、大半の方々は循環と生活様式の激変で仮眠状態であったようです。しかし、こうした中で、昔の竹林精舎を思い出し、精神的な安息を求め得た人は、幸いです。肉体的につかれたとはいえ、三泊四日の共同生活は、戦時、戦後の混乱期を除くと得難い経験となったと思われるからです。正法とは行です。経験でもあります。凡々のなかの行もありましょうが、ジャングルでの生活も、己の心を試す大きな試金石となるでありましょう。

 ・今回の目的は、共同生活という場を通して、正法に向かって起居を共にすることにありました。環境に振り回される生活の中で、三泊四日の共同生活が、正法を踏み外さぬブレーキの役になれば、その目的の半ば以上は達せられたことになります。



当研修会講演を、   にアップしてます。



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神理問答  (周)

【 問 】 祈りについて・・・。その必要性はありますか。どのような効果があるのでしょうか。

【 答 】 あの世、実在界(天上界)では、祈りという想念はありません。何故ないかといえば、行為が祈りとなっているからです。いうなれば、現実の生活と理想とが一つに溶け合っているからです。調和されています。
 ところが、人間が肉体を持ち、地上の生活をする段になりますと、現実と理想の食い違いが、毎日の生活の場において出て参ります。このために、肉体を持った人間は、どうしても、祈らずには、いられぬように出来ております。一つは、地上の人間は10%の意識で生活し、天上界は90%の意識で、毎日の生活を送るための違いと言っても良い訳です。一寸先がヤミですから、祈る心も湧くのも当然であります。
 サテ、そこで、ではその必要性あるのかどうかです。
これは大いにあります。祈る自分は10%の意識です。祈られる相手は、自分を守り続けている守護霊であり、指導霊でもあります。想えば想われるで、守護・指導霊に対して、絶えず心を向けていれば、守護・指導霊は、守りやすく、指導しやすくなります。守りやすく、指導しやすくなれば、その人の毎日の生活は、安心と喜びに満ちてきます。当然の帰結です。従いまして、10%の意識で生活する地上の人間にとって、祈りは、欠くことの出来ない生活の重要な行事の一つとなります。
次の祈りの効果です。これは重要です。
祈りの本質は、10%の表面意識が、守護・指導霊の住む己の90%の潜在意識に投げかける光のかけ橋です。守護・指導霊は、常に10%の意識で修行する現象界の人間に対して、道を外さぬように見守り、指導していますので、10%の意識が想いを向ければ、祈れば、何時でも手をかし(光のかけ橋)てくれるからです。
ただ問題は、その祈りが、自己保存のためか、調和の為であるかによって、大きな差が出て参ります。普通は誰しも病気や家庭不和、事業不振が出てこないと祈る気持ちは湧いてこないようです。ですから、最初はそれも仕方がありません。しかし、本当の祈りというものは、現実的な幸、不幸ではなく、現在生かされているそれ自体に感謝することであり、その感謝の思いで、日々の生活を行じることが大切です。
人間は、生かされ、生きてゆくものです。だが、調和の心で生きてゆく、という自覚が出た時は、感謝と行為が一枚になった時です。いうなれば、10の意識と90の意識が完全に同通したことを意味します。この時こそ、人は真の安らぎを得、観自在という境地を会得したことになります。環境も、健康も整い、天命のままに生きることになります。
天命に生きるということは、自分が地上に生まれてきた目的、使命がわかり、それに向かって生き続けることをいうのであります。私達の祈りも、ここまで高めたいものです。



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ひかり 第3号より  昭和45年10月号 (1970年)

〝 真実の信心 〟と「信仰生活」  高橋信次


 信心とは己の心を信ずること。信仰とは、その心を生活の上に行ずることです。
 人間は、みな神の子、仏の子です。善なる魂を深奥に内在させた全能なる生命であります。自ら選択し、自ら切り開いてゆく。正義、博愛、慈悲、献身・・・。善なる神の心を、現実に行じ、現わしてゆくのが、神の子の姿なのであり、天命を持つ者の魂なのであります。
 神の子の神性は、それでは、何処に求められるかといえば、魂の深奥に内在する己の心、普通、良心といわれるその心であります。人にはウソは言えても、己の心にウソがいえない、人間の真実性であります。悪に燃え、悪に酔った人間でも、一滴の愛の前に、抗らうことの出来ない事実を見ても、おわかりの通りでありまあす。
 信心の姿は、こうしたウソのいえない己の心を信ずることです。人にはウソは言えても、己の心にウソのいえない己の神性にあります。
 では、信仰とはどういうことをいうかといえば、ウソのいえない己の心に忠実たれ、ということです。毎日の生活を、ウソのない己の心に従って、行じることにあります。
 己の心の中には、守護、指導霊が、必ず存在します。己自身が迷い、つまずく時に、愛の手をさしのべ、行く手に光をかかげてくれるものが、守護、指導霊でありまあす。信仰の生活は、こうした守護、指導霊の声を聞き、中道を歩む生活であります。
 中道の生活。それは反省にあります。どこまでがウソで、どこまでが真実なのか、釈然としないのが、現実の人間の姿でありましょう。そこで、自らをかえり見、ウソのいえない己の心に、忠実であったかどうかを、日々の生活を通じて、確かめることです。守護、指導霊の声は、こうした反省の中から、得られるものであります。
 信仰の在り方は、このように、自らをかえり見る生活の中に生かされてくるものであります。
 釈迦の信心、イエスの信仰は、天なる神に通ずるその心を信じ、行じることにあるのであります。
 神と人間を切り離した他力信仰は、こうした人間の神性を隠蔽、曲解し、人間の心の外側にひそむ動物的本能、感情、欲望などの悪を誇大に見る所に原因があります
 旧約聖書に見られるアダムとイブの人間の原罪は、人類の地上生活におけるカルマを象徴的に書いたものであります。誕生まもない幼児の寝顔をごらんなさい。犯しがたい安らぎと、調和があるではありませんか。ふっくらとした顔。桜らんぼのような小さな手。無心に眠る汚れない赤子の姿は、神仏そのものであります。その幼児がやがて成長し、地上の生活になれてきますと、幼児の神性は次第に内側にかくれ、まず、感情が芽生え、ついで欲望が頭をもたげ、本能に刺激されるようになってきます。すなわち、アダムとイブの誕生であります。人間の一生は、そのまま、人類の歴史、生き写しではありませんか。すなわち、地上最初の人類の心は、幼児そのままの姿だったのです。長い地上生活の自己保存のカルマが、人間の原罪をつくり出していったのです。
 しかし、人間の心は、神です。調和と安らぎのある、幼児の姿です。その心を、どうして、人間は信ずることができなくなったのでしょうか。他力信仰の危険性はこうした真実から目をそらし、偶像崇拝とカルマ是認に、己自身を埋没させるところにあるのであります。
 信仰とは、手を合わせることではありません。己の心を信じ、行うことにあるのであります。
(完)


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反省の仕方・探し方  高橋一栄

 反省という言葉は簡単で誰にもすぐのみこめるが、サテどう反省するかとなるとなかなか難しいものです。これは去る九月五日土曜会で高橋一栄先生が、分かりやすく語られた講演の一節です。

 反省の仕方、その材料について、具体的に、話してみたいと思います。
 反省の仕方は、色々あろうかと思います。私達が一日を過ごして、夜、反省する時に、自分は今日は、どのように生活してきたか。良いこと、悪かったこと、第三者の立場になって、一日の情景を思い出す。すると、比較的、鮮明に、物事の是非が映って参ります。自分は素直な気持ちであったのに、あいつがカッカとしてきやがったから、つい一緒になってカッカしちゃった。俺より、あいつが悪い、というように、人のせいにしていたことが、浮かんで参ります。
 人間は、どうしても自分がよいと思って行動していますが、その中には、相手を刺激したり、カッカさせる言葉、動作、投げやりな言葉、無責任な返事、そのようなことが、原因をつくっている場合があるものです。小さな子供に、難しい事を言ってもわかりません。年輩の方に近代的な言葉を使っても、かえってからかっているような感じに受け取られます。
 こうしたことを、静かに振り返って見ると、私達の周りには、意外に、反省の材料が沢山転がっているものです。
 反省して、今日は、誰とも争いはなく、平和ではあったが、それでは、良い行いを一つでもしただろうか。一つでも良いこと、明るい事、楽しいことを怠っていなかったろうか。調和の名の下に、いい加減に妥協して来なかったろうか。朝起きて、「お早よう」とさわやかな声で、皆に言い合えるような環境に、努力したろうか。そそくさと食事をし、忙しい中を、送り出す人も、挨拶もなく、タ、タ、タ、と階段みたいに出て行ってしまったのでは、交通」事故も免れないと思います。少しの早さでも、ゆっくりした気持ちで、送り出す人も、送られる人も、「行ってらっしゃい」「行ってまいります」と気分の良い言葉と、気分の良い心とで、外に出てゆけば、自分自身の心も、自ら、誰に向かっても、「お早うございます」---と返事が返って来ようとも、こまいとも、それは、自分の心を明るくすると、思いませんか。
 またそのようなことを、怠っていなかっただろうか。俺は今日は、何もしなかったから反省はない、という方は、この様な事も考え合せてみて下さい。
 また謙虚とは、一体どんな気持ちをいうのだろうか。へい、へい、へい、と人の言うことを聞いてる気持ちが、謙虚というのでしょうか。それは謙虚というものではなく、ただ自分を卑下している態度です。謙虚というものには、充実感というものがあるのです。女の方はお子さんを連れて電車に乗ります。その時に、子供さんが、泥の靴で、腰掛にかけます。その時お母さんがそれっぱなしでいたら、その方は、謙虚ということを何処かに忘れてしまっています。小さなお子さんは交通費を払わないのは当たり前、という気持ちがあるから、そのような心にもなるのです。乗せて頂いてるという心があれば、周りに迷惑を掛けまいとする、謙虚な気持ちが出て参ります。そのように、人間というものは、人に対してやってもらう事が、当たり前という気持ちがあるうちは、自分の気持ちの中に、謙虚、愛情、慈悲そのような心を忘れてしまっています。
 自分自身が、この世の中に生きてゆくには、一人では生きられません。みんなが助け合い、奉仕の心がなければなりません。人にしてあげる気持ちの出来る方は、ありがとうという心がすぐ出てくるものです。何故なら、その方は、してあげることに喜びを感じ、してもらう事に喜びを感ずるからです。
 このように、反省の材料はいくらでもあり、どう反省するか、分からないという人は、何度も繰り返し読んで頂き、充分自分の身に当てて考えて下さい。
                                   (文責記者)


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神理問答  (周)

【 問 】 慈悲について・・・。

【 答 】 心を失った人、迷いのフチに立たされた人、病に倒れた人々に対しても、無限に供給してやまない、いつくしむ心、情けの心、これを、慈悲といいます。
もし、この宇宙に、慈悲の心が失われたとします。地上は、とうの昔に滅びていたでありましょう。幸いにして、神の慈悲、仏の心があればこそ、我々人類は、過去、何回となく繰り返されてきた天変地異の災害をも、乗り越えてこられたのです。
 人と人との関係においても、慈悲を持って接するようになれば、現代のような独りよがりのエゴイズムは、たちまちにして、霧散してしまうでしょう。
 慈悲の本質は、あの太陽のように、無限に供給して止まない熱光のエネルギーそのものであり、水の生命に見られるような、惜しみない善なる心をいうのであります。相手が善人であろうと、悪人であろうと、生命あるものに対しては、それを生かし続けようとする無私なる心、いつくしむ心、情けの心であります。
 ここで、間違えては困ることは、慈悲とはそのように高く、広いものとして、慈悲の安売り、慈悲の要求は、してはならないということです。
 慈悲の安売りとは、自己の能力の限界を超えて、慈悲の言葉に酔ってしまうことです。安売りの結果、振り返って見たら、苦しくなったでは、これは慈悲でもなんでもありません。慈悲の名を借りた、自己満足の結果です。次に、慈悲の要求とは、甘えであります。これは宗教団体内でも見られる一つの悪弊で、自分は、これこれのことをしているから、自分は会員の中でも古いから、自分は・・・といったものが内にあって、やたらと人に無心したり、会員相互の秩序を乱す人。幸い、神光会には、こういう人は見られませんが、会が大きくなるにつれて、こうしたことのないように、お互いに、戒め、注意してゆかねばなりません。
 人間は、神の子です。神のことは、広く、高い心を持った神性をいうのであります。慈悲なる心は、その神性の現れでありますが、その神性には、男女、老若の別、働きの相違というものも、また存在するという事を知って頂きたい。それぞれの立場、それぞれの分に応じた行為、慈悲こそ、釈迦の言う慈悲であり、高橋信次先生の説く、正法の神髄でもあります。



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ひかり 第4号より  昭和45年11月号 (1970年)

「あの世」に通じる〝 人間 〟  高橋信次

 今から約二千年前のイエス様の時代は、魔王が人々の心をとらえていました。魔王が人間の心を支配しますと、今まで物静かで穏やかだった人が急に荒々しくなり、威張りだします。そうしてその振る舞いは常軌を逸し、ひどくなりますと、物を投げつけ、人の心を傷つけるのを何とも思いません。イエス様の時代はこういう人達が数多くおりまして、夜の一人歩きは非常に危険なものでありました。腕力に自信のない者は、日が暮れると家に閉じこもり、外には出ません。偽政者はいましたが、偽政者が法の時代でしたから、庶民はそれに逆らうことも出来なかったのです。
 現代はどうかというと、動物霊が跳梁する世界です。動物は、本能と物欲が身上です。魔王は、血を見て喜ぶ悪いクセを持っていますが、動物は物欲が主で自我も強く、他人のことはあまり考えません。人が見ていなければ平気で悪心を起こし、物欲を満足させるためなら手段を選びません。ある有名な明治の実業家は、商売で何が面白いかといえば、それは密輸だと広言してはばからなかったほどです。物質文明は、こうした人間の物欲にその芽を見ることができます。文明の発展は科学者の発明発見に負うところが大きい。しかしその発明発見も、その時代に見合った人々の欲望を満足させるものでなければ消費されません。より多くの消費生活を生むためには、科学者はその欲する物に焦点を合わせて知恵をしぼり、競い合います。休む間もなく新製品は市場に送り出され、生活の便利化は人々の欲心を一層つのらせていきます。物欲と発明発見、これが現代社会を支えている所の文明であり、経済を中心とした物質至上の世をつくりあげているモトといってもいいようです。
 人間は肉体を持って生活しているため、目に見え、肌にふれるものこそ全てと考えがちですが、実は、目に見えぬ何者かに動かされている場合が多いのであります。人間の本体は魂といわれる意識にあって、その意識は、色々な世界に通じているということを知らねばなりません。人間の意識は、この世と死後の世界のあの世に通じており、悪心を起こせばあの世の地獄に、善心を起こせば天国といわれる天上界に交流しています。その人の意識が義を重んじ愛に生きているとすれば天国に通じ、物欲に明け暮れていれば本能のままに生きる動物界の心を売っていることになります。
 イエス様の時代は、魔王という血を見て喜ぶ最下底の意識層、つまり最低地獄に人々の意識が通じていましたから、人の生命も短く、争いに明け暮れていました。現代は物欲の時代で、動物本能丸出しであり、他をかえり見るいとまもない酷薄に世情となっております。
 どちらの時代も心に平衡を失った不安定さが特色です。心に調和と安らぎがないのが共通した悩みです。
 人間は神の子です。神仏の意識から離れた想念行為を持てば、心の平衡を失うように出来ています。心の平衡を失えば、地獄に通じ病気や災難がふりかかり、調和を保てば、自由を得ることができます。どちらを求めるかは各人の自由ですが、自分の無責任、無自覚を棚に上げてその不幸を他に転換する弱い心があるとすれば、神の子のもどるべく努めるべきです。しかし、強い心があってそれでもいいという人があれば、地獄に落ちてその苦しみを経験したらいいでしょう。
 ともかく、人間社会はあの世と通じており、死後の世界もあるということを知って頂きたいと思います。


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短 歌    蜂須賀年子

・ あまかける天のみ光心にうけて  神としをがむあかつきの空

・ み光をおのが心のかがみにうつし 代々を生くつくとはのいのちの

・ ふりそそぐ神ともをがむみ光は  とはのいのちにかよふまごころ

・ み光を神としあふぐわがこころ  とはのいのちのつづくかぎりは

・ 生は死に死は生にかよふ天の光  やがては神のこころにかなふ

・ 生もなく死もなきいのちみ光に  ささえ清まる永久のいとなみ


(女史は、心に感ずるままに四十七首の歌を詠まれていますが、今月はその中の六首を
のせました。心あたたまる女史の信仰を語ったものです。)


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神理問答  (周)

【 問 】 愛について・・・。

【 答 】 ふつう一般に、愛とは男女の愛、夫婦の愛とみてしまいますが、愛の本質は愛憎の愛とは違います。もちろん、夫婦の愛、男女の愛も、愛の表れといえないことはありません。顛倒夢想の世界にあって男女の愛は、人間生活に希望と生き甲斐を与える役割を果たしているからです。
 しかし、本当の愛は、神の愛をいうのです。神の愛とは、無私なる心、いつくしむ心、情けの心、思いやりの心であります。
 聖書マタイ伝第五章でイエス様はこの様に言っています。「幸福なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と称へられん・・・」
 これはどういうことかというと、心の貧しいとは、おごる心のない者、柔和とは心のおだやかなこと。平和ならしむ者とは、争いを好まぬことをいっており、こうした心を持った者は神の愛をうけ、天国の住者であるというのです。こうした心は、自我が強くては生まれてきません。無私なる心、情けの心がなくては出て来ないのであります。
 前月号で慈悲についてふれました。慈悲の心も、無私、情け、思いやりでありますが愛もやはり同じなのです。慈悲も愛も、共に神の光ですから、同じでなければなりません。
 ただ、愛は、その根本は慈悲と同じですが、働きとしては、「許し」なのです。
 もし、この地上に「許し」という免罪符がないとするなら、人間は、原罪というカルマから逃れられることができません。原罪とは煩悩という神の子の神性を汚す想念行為をいうのであります。しっと、怒り、欲・・・。こうした想念は、神性であるべき己の心を毒します。
しかし、人間が肉体を持ち、相対界で生活していますと、どうしてもそうした想念にとらわれてしまいます。そこで、地上の人間を救うために、神は、愛の光を投げ与えてくれたのです。
 すなわち、「許し」という光です。
 人間がその原罪を認め、ザンゲし、素直な心で新生しようとする時、神はその人に愛の手をさしのべ、その罪を許してくれるのです。
 ザンゲとは、仏教でいう「反省」です。神仏の光は、ザンゲ、反省を通じて、初めてその人の頭上にふり注がれるのであり、愛とは、こうした内容を持ったものであります。



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ひかり 第5号より  昭和45年12月号 (1970年)

「文明」と〝 ノアの箱舟現象 〟  高橋信次

 現在、公害問題が大きな社会問題として、急にクローズアップされてきています。交通混雑、排気ガス、工場排水、煤煙、騒音など。ところが、こうした問題は独り我が国だけでなく、アメリカ、西ドイツ、イタリー、フランス等、鉱工業生産力の高い国ほど深刻ですから問題です。これはなぜでしょうか。一口にいって、心を忘れて自我意識、自我我欲が強いからおこるのであります。
 文明文化は、人間の努力の所産です。努力なくして、私共の生活環境の改善、精神文明の進歩はないのであります。現状に甘んじ、安きにつけば、進歩も、調和も、止まってしまいます。従って、鉱工業生産力が高いということは、そこに住む人達の勤勉、向上心が原動力となり、文明文化を生み出していることになります。その意味では、大変いいことですが、問題は、利潤追求のあまり、他をかえり見ない所に、公害の発生が生産の反作用として生じてくるのであります。今日の我が国の経済発展を称して、俗にエコノミック・アニマルといわれる所以も、その原因をたぐれば、動物本能丸出しの自我我欲に、その根を見ることができます。
 経済の発展、精神文化の基礎は、人間の向上心とたゆまざる努力にあります。その限りでは、人間の本性がそのまま形の上に現われていることになります。ところが、その本性の裏側には、自我意識、自我我欲というものも、絶えずくっついて離れないということも知って頂きた。
 つまり、人間の心、想念意識には、光と暗黒の断層があるということです。自分を生かし、他を助けようとする時は、愛に生きていることになります。反対に、自分だけのことしか考えぬ場合は、動物あるいはそれ以下の自分でしかありません。人間は現象世界に住んでおります。個々バラバラに生活し自分と他人は別々に生きていると思いがちです。ところが、食べ物一つ見ても、他人のやっかいにならないものは一つもありません。魚、肉、野菜、コメ、味噌、醤油、どれ一つとっても、自分一個では何一つつくれないし、とることも出来ません。すべて、他の人達の協力の賜です。ところが、自分と他人は別である。金さえあれば何でも自由になる。他を考えたらアゴがひあがるということで、心の暗黒面、すなわち、独占欲、支配欲、増長慢、自己満足、感情想念といった、自己保存の本能が経済発展の向上心とは裏腹に動めくために、文明文化が進むほど、その反作用が浮き出て来る事になるのであります。
 ノアの箱舟現象は、地上に人類が住むようになってから何回となく、繰り返されてきました。しかもそれは、文明がある極点に達すると、突如として起きているのであります。これはどうしてかというと、文明は悪の華を咲かせやすいように出来ているからです。人々をして、孤立化させ、相対観念を増々つのらせるからであります。人情と相互扶助の厚かったニューギニアの原住民に、金と仕事を与えたら、盗みと暴力が、はびこったということです。
 「田舎に他人はいない」という言葉の中にも、都会という文明の反作用を痛いほど感じます。悪には悪、善には善という作用は、大自然の法則です。人間は小宇宙という創造者、神の子。悪の想念は悪を生み出すことを知って頂きたい。
 経済発展とノアの箱舟現象(公害---天変地変)。この両者を結びつけることは普通では想像出来ないでしょう。しかし、人類が独占欲、支配欲に心を傾斜させてゆきますと、その反作用として、それこそ、突如として、天変地異が襲って来ることを予言しておきましょう。


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体 験 【 夏栗徳子 --- 縁と言うもの 】

 私が霊道を開かれてから早や一年と四か月を過ごしました。最近になってから少し落ち着きを持って自分を見つめる事が出来る様になった気が致します。霊道が開かれた当初は喜びと嬉しさが交錯しまるで天国にでも登る様な心地で毎日を過ごした事も今は思い出と成りました。そして人と人との縁と言う神秘を身を持って味わって居ります。それは私の義姉も三カ月程前に霊道を開き自分の過去世を思い出しお互いにお話が出来る様に成り私との縁が解明されました。
 かつて私達二人は現在の北ベトナムで男性として肉体を持った時は親子でございました。義姉は其の当時私の父でございました。家は代々大地主でその地方の米の集荷所でもあり大勢の苦力を使ってかなりの生活をして居りました。私は息子で父の跡を継ぐべきでしたが父の豪勢な生活と苦力の貧しい生活とのあまりの差を見せられ矛盾を感じ出家を希望致しましたが、それも叶わず二十一歳の折に一切を捨てて苦力の群れに身を投じ水上生活者となり一生懸命に働き財をなして両親の元に四十三歳の時に戻りました。言わば私は親泣かせの不肖の息子だったのです。想えば二十年ほど前に兄が私と姉に結婚したい女性が居るからお前達二人で会い話し合って欲しいと言われ日曜日に日比谷公園で待ち合わせて一緒に映画を見たり食事をしたりしながらお話をしました。ちょっと色は黒い女性でしたが大変に美人でピンク色の着物に黒字の帯を〆て長い髪をアップに結い上げちょっと小意気な方でした。初対面なのに私はこんな素敵な方がお義姉になって下さるならと家に帰ってから兄に双手を挙げて結婚に賛成したものでした。義姉が私の兄の所に縁付いて来てからも私にとって親代わりの様によく面倒を見てくれました。
 長唄や小唄のおさらい会やお茶会の時等は私の髪を結ってくれたり、又小さい子供の様に着物を着付けてくれたりしてとても親切にしてくれました。ですから私が兄に言えないようなことでも義姉には打ち明けて何でも相談したものです。まるで子供の時から一緒に暮らした様な親近感をいつも持って居ました。私が結婚後も何かと力になってくれて居り、義姉にはいつも感謝して居ります。そして今も又、義姉の導きに依って高橋先生との縁にふれ正法を知り心の喜びを頂きました。俗に人の心は相縁奇縁とか、又、悪縁因縁とか、仏縁とか日常生活で何気なく使っているこの縁と言う字の奥深さを生命流転の中から教えられました。
 家族と言うものは前世からの縁によって構成されているものです。姑だ嫁だと又、親子でも義理の仲だからとお互いにいがみ合ったり、そしり合ったりして居りますが、心を開いてみればかつての友人であり親子、兄弟関係でございます。今後も己の過去世を知る素晴らしさ、喜びを人々に伝え、八正道を心の糧に現世の毎日の生活を正し、よりよき来世に向かって心の修業に励みたいと思っている今日此の頃でございます。最後の一と言つけ加えます。かつてのお父さん現世では私のお義姉さんになってくれまして本当にありがとうございます。来世も又私と一緒に修行しましょうね。 (主婦)


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【 信心と信仰 】  羅刹と捨て身の王  高橋信次

人は生命を投げ出したとき、光をみる、永遠の我にかえる――。
素直な心こそ、信心信仰への道であり、今も昔もかわらぬ宇宙の神理は、いまなお人びとの心のなかに、いつでも、どこにいても、辛棒づよく、あなたを待ちつづけています。
高橋信次先生が過日、八起ビルで講演された羅刹(らさつ)と王の物語りは、信仰の真髄にふれ、きく者の胸をうちます。以下は、その要旨です。


「神理のための献身」
 印度の頃、あるタージャンという王と、その家族が神理正法を知ろうとして日夜神に祈っておりました。天上界の天使達はそのことをずっと前から知っていました。そこで、それほど当人たちが正法を知りたいなら教えようということになり、まず、王様の心をその前にためすことになりました。ある時、天使は羅刹(人を食う鬼)となってタージャンの前に姿を現わし 「私はお前達に法を説くことができる、お前達はいつも神理をききたいといっていた。希望があるなら話してきかせる・・・・・・」 「しかし、話をきかせる前に、お前達の肉体の生血を吸わなければ神理を説くことはできぬ。どうだ、わしのいうことをきくか・・・・・・」
というと、スンダイという王子が、どうぞ私の肉体を食べて下さいといい、わきにいた王子の母親も 「それによって貴方が本当に、心の教えを教えて下さるのなら私の肉体はいりません」と身を投げ出しました。王子と王様の妻は羅刹にアッという間に食べられてしまいました。王様のタージャンは、「私は肉体をもって神理を知りたいのです。今貴方に肉体を供養するのはやすい。しかし供養してしまえば私は永久にその神理を知ることが出来ない。あの世に帰って神理を知っても時間がかかります。せめて肉体のあるうちに、その神理をきかせて下さい」と真剣にたのみました。羅刹はその鋭い目でタージャンの双眸をじいっとみていました。牙を向けて、今にも王様に襲いかかろうとしている羅刹の形相は、それはそれはこの世のものとも思えぬ恐ろしいものでした。ところが、どうしたわけかその羅刹がいつの間にか美しい天女にかわり、今食べたスンダイとその母を、王の前に、もとの姿で生きかえらせると慈愛に満ちたそのまなざしで、静かにいうのでした。「お前達の命を捨てて、神理を聞こうとする心根は分かった。お前達に神理をきかせるからきくがよい。」と。
「人間は皆、神の子。肉体というものは何時の日か地上界に置いてゆかなくてはならぬ、お前達の肉体を支配しているものは、お前達の心であり、その心こそ偉大なる神、仏に通じており、心のない人間というものはあり得ないのだ。心を知ることは、神を知ることであり、己自身を知ることである。お前達は神の子であり、この地上に、安らぎと調和を与えるべく努力しなさい。金があるなしによって人をわけへだてしてはいけない。お前達は一国の主だ。公平な政治と心の尊厳を人びとに教えなさい」
天女は、このような意味のことを伝えると、サッと姿を消してしまいました。


「己に謙虚、人には寛容」
 信仰とはこうしたものです。神理を知るためには、己自身がどのように罵られ、迫害をうけ、刀で腕を切られようとも、魂の尊厳と心を知れば少しも苦になりません。魂は永遠に不滅であり、それは、心に死というものがないからであります。正法神理を己のものとするには、またこれだけの覚悟と献身がなければ、本当は得ることができません。神だ仏だと口ではいい、いかにも信仰があるようにみせても、それが私利私欲につながっているようでは問題にならないのです。信心というものは、己自身の心の中にあるのです。ウソのつけぬ心の中に・・・・・・。
 勤行といって、朝夕場所を決めて拝んだり祈ったりする習慣があるようですが、私達の住んでいるところは神の体であり、大神殿であり、何時どこにいても、自分がその気になりさえすれば、その心は天に通ずるものです。
肉体という舟に乗りますと、人間はどうしても五官や六根に動かされます。間違いを犯します。
しかし、間違いは間違いで改めるにはばかることなかれです。
人間だから反省をする。悩みのない人生、苦しみのない神理への到達は絶対にあり得ません。
悩み、苦しみ、己自身が探求という反省の機会があるからこそ、前進があるのです。
 信心というものは、そうしたなかにあって神だ、仏だ、と口でいうような、そんな生やさしいものでは決してありません。己自身に謙虚に、人にたいしては寛容に、そうして、そうした中に、本当の人間としての価値を見出すことを知っていただきたいと思います。

(文責記者)


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講演会に随行して    堀田和成

 十一月十四日 野田市興風会館で高橋信次先生講演会が村上宥快氏のご案内で開かれました。集まった人、僧侶、野田醤油重役の皆さん約四十名。二時間の講演時間は、瞬く間に過ぎ、質問を打ち切り、定刻四時で終わるには、何となく物足りず、後ろ髪が引かれる思いだった。この日は丁度、八起で土曜会が待っており、遅くも四時半には現地を発たぬと間に合わない。しかし、聞き手の皆さんは何れも熱心な方ばかりで、こちらから閉会を申し出ない限り、容易に席を立とうとはしなかった。高橋信次先生は、前の晩「縁生の舟」神理篇(今度出版される著書)の校正をやられ、睡眠二時間という強行軍。しかし、講演はいつもと少しも変わらず、むしろ、それ以上の熱のこもった説法が、皆さんの胸に響いたに違いなかった。参考までに、当日の主な質問事項をあげてみると次の通り。

 ① 転生輪廻は、すべての生物に当てはまるか。
 ② では何故恐竜は地上から姿を消したか。
 ③ 精神病の原因とその理由
 ④ 眠っている時の意識というものと、心不在という意味とに関連性はあるのか。
 ⑤ あの世に戻った子供の生活状況。
 ⑥ 魂があの世からこの世に乗り移る過程、すなわち、精子と卵子の結合と出産の意義
 ⑦ 人口が増えている、その理由。
 ⑧八正道の行じ方。
 ⑨ 過去世の言葉が出る理由と原因。
 ⑩ 平安朝時代には菊の花は日本にはなかったと思う。もともと菊は中国から輸入された花

と考えるが、当時の人の名が「白菊」とはどんな理由からか。また当時の言葉は、現代にも通用しない方言というか、なまりが多かったと思うが、当時の言葉を聞かせてほしい。
 (注、白菊とは、星洋子先生の過去世の生命、分身の方)

 これに対して、先生は適切に答えられていた。印度時代の人、中国の折に関係のあった方。機が熟せば、正法に帰依される方が何人か見えておられたことは心強かった。

 十一月十八日 東京銀座交詢社において、経営者、実業家の集まりである春秋会が持たれた。会の世話役である川合幸之助氏から先生と正法について説明された後、「宗教と科学」について、先生からその体験が述べられ、多大の感銘を与えた。三宝製薬社長の渡辺久吉氏が、空の観念は、「物事に最善をつくす。その最善に対して感謝されなくともよい・・・・・・」と答え、先生の講演後、共感を得たと喜んでおられた。この夜、歌舞伎の岩井半四郎、フェイス社々長 佐藤正忠、野球の別所毅、各氏らの顔が見え、にぎやかに会を閉じた。


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短 歌    蜂須賀年子

・ おほらかにこゝろひらきてまろやかに  むつひかはさむ地球の人々

・ 大空をあほぐこゝろに光ある  その光に生かさるゝ我

・ み光にはぐくまれて永久に生く  またまたのいのちこゝろのまこと

・ やみよすらてらす光のますかがゞみ  ことあけもせでがゞやくこゝろ

・ うつし世のこだわりすてる小我の境  やがては光に帰一しまつる

・ はるかなる昔の人をわかみぞと  夢もてつぐる秋のあかつき

(蜂須賀女史は、去る十一月二十九日、故人になられました。夫人の生家は、もと侯爵)


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神理問答  (周)

【 問 】 心を知るには、どうすればよいか。

【 答 】 正直いって、大変むずかしい。己の心を知れば半分以上悟ったと同じでもあるからです。何故なら、心を知った時は、自分自身が神の子であることを認識したことを意味します。後は、神の子の自分が、日常生活の中で、それに恥じない行為を続けていけばいいのですから、本当のところ、心を知る、ということは、口でいうほど、やさしくはありません。
 高橋信次先生は、疑問を持て、といいます。疑問の連続は、やがて、神理を見出し、心を知るに至るという訳です。ところが、その疑問自体も、各人の職業、経験、教養、徳性、性格などの影響を受けて、思うようにゆかないというのが実情ではないでしょうか。
 普通、心といいますと、つかみどころのない、空漠としたものにとられますが、日常、浮かんでは消えてゆく、想念と見れば、意外とハッキリします。想念の動きが、自分自体の日常の行動を決定しているのですから、その想念が、善に通じているか、恥じた行為につながっているかによって、自分の心が、どのような状態であるかが分かります。
 しかし、ここでいう「心を知る」ということの意味は、もっとその奥の、神仏そのもの、神の子の自分を確かめたいとする衝動であろうと思います。神がある、仏が存在するということを、己自身が知る事が出来れば、これに過ぎた喜びはないからです。ところが、前にも述べたように、それには、色々な要素が絡み合い、その難しさは、どなたも体験されていると思います。お釈迦様でも六年の苦行が大悟への大きな踏み台になっていることを思うと、ある程度うなずけると思います。
 としますと、信心とは、神の子の己の心を信ずることであります。信ずることしかありません。しかも、その心は高橋信次先生を通じて、信じることであります。神仏の実在と、人間の心について、その説かれる正法神理は先生を抜きにして、考えられるでしょうか。考えることは出来ません。文証、理証、現象は、先生があって、初めて実証し得るものです。神、心、ともに同じ意味です。先生は、神の実在を証明するためにこの世に在ります。このことを、よくよく、考えて頂きたいと思います。



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ひかり 第6号より  昭和46年1月号 (1971年)

心の詠(うた)   高橋信次


・ 諸人の心の舟は老(お)ゆれども 神理の道は波しずかなり

・ 縁生の心と舟の迷いから 苦しき道も今は光に

・ 初日の出色(しき)と心にはえうつり 無量の慈悲にこたえまつらん

・ くるしさも楽しくもあり人生の 永久(とは)にかわらぬ転生の葦


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年 頭 所 感
【 人々の心に神仏の光を 】   高橋信次先生

 新春は再来し、心又新たなり。万人が不退転の神理を悟り、己の心の中に神理実践の大殿堂を築こう。
 その時にこそ、何者も崩すことの出来ない、神理に適った人々の心の調和のとれた、集団が築かれて行くのである。
 総ての生活に最大限の努力をして、己自身に足ることを悟り、自発的なしかも積極的な行為が、調和のとれた安らぎの環境を形成して行くものである。
 釈迦・イエスの当時の教えに帰ろうと、実践活動に入ってから、自然発生した神光会も二年目を迎え、今年より「神理の会」として通称「GLA」と呼び、海外にも神理の種を蒔くまでに成長した。
 人類はみな兄弟であり、私達の縁生の舟即ち肉体の色や種族は土地風土に適応したように、神仏の慈悲によって創られたものであり、人種差別は神意に反していることを悟らなくてはならない。肉体の船頭さんである意識はみな、神の子として万物の霊長なのである。神仏の子として肉体を持っている全人類は同志であり、多くの人々は道が解からないために、迷える子になってしまったのである。慈悲と愛にみちた、神理の光を人々の心にふりそそごう。

 国境も人類的差別も人の智であり、本来は一つ神体の一部である。又神仏の子供なのである。
 世界の人類が一つ心になって手を結(つな)ぐ道は只一つ神意に適う実生活以外にはないのである。
 私達は神理の会を中心にして、この使命を遂行しよう。それには忍耐と最大限の努力が必要である。
 時間をかけてあせらずに、一歩一歩の基礎をかためて行かなくては出来ない。
 果物にも実があり、太陽系も九惑星の中心に太陽という核を中心として運動をしている。
 原子もまた原子核を中心に運動を続けている。神理の核もまたG・L・Aを中心として各地に核分裂を起こさなくてはならない。
 しかも霊道がひらき、調和と安らぎの霊的神理の種は、イエス様の時代から、未だない現象となって我々の核とともに各地に分裂が行われている。

 この種を絶やしてはならない。
 私達は神理の種蒔を約束した使徒であることを忘れてはならない。
 類は類を呼ぶ。法則に従って、光の天使の意志によって私達は集って来たのである。更にその使命を持った人々もあらゆる処から参加して来るであろう。
 そのためには、縦横からなる完全な人々の心の調和によるつながりを作らなくてはならない。
 縦・横の交差点こそ神理の会、核分裂の中心でなくてはならない。この要になる使徒達は、神理の不退転を悟り、実生活の中に溶け込んだ実践家でなくてはならないのである。
 なぜならば、実践生活に応用されていないものは最早架空の空論にしか過ぎないことを悟らなくてはならない。
 絵に書いた、おいしそうな林檎では、口に入れることも出来ないのと同じである。
 神理は実生活に生かしてこそ平和と安らぎの心の糧となることを悟らなくてはならない。即ち心と行いの調和こそ、人類に課せられた神意であることを悟ったなら、実践第一と己の心に銘記しなくてはならないのである。

 現代社会に足らぬ物は、心の不在であり、心の不在が、両極端の思想を生み出したのである。
人類の長い歴史が、仏教やキリスト教の神理に厚いほこりを積もらせてしまったのである。
 智と意による、心を失った人々によってそれは、作り出された厚い「ほこり」なのである。
 このほこりを、払いのける仕事も仲々大変なことであり、忍耐と努力によって神理の光を己の心として世の人々の心に問わなくてはならない。犠牲をおそれず、勇気をふるって、多くの荒れ果てている心の耕地に神理の種を蒔きつづけよう。なぜならば、肉体を持って生活している人々は、神の子として、八正道の実践、中道の神理は、己を悟る当然の修行なのである。
 そして人々の心の苦しみを取り除いてやることだ。

 会員は正法流布の先陣をきって、使徒たる自覚の中により己の魂をより浄化し、菩薩心を具現することが重要なのである。
 菩薩心は返礼を求めない。
 しかし慈悲と愛に対する報恩の心を実践しない人々は、口先の感謝で終わってしまえば結果が出ても、必ず不調和の訪れて来ることを悟らなくてはならない。
 与えられた慈悲と愛によって出た良い結果に対して、報恩の布施は、より己の調和につながって行くものなのである。
 生命の循環も、水の循環、報恩と感謝の循環も神理なのである。今年は一人でも多くの人々に、神理の道を教えて、不退転の基礎を築きあげよう。あらゆる困難を打破して、迷える人々の心に明るい神仏の光を、慈悲深く与えよう。
小さな種も、いつの日か地球上を覆うことが出来よう。

そして前進の中にも一歩さがって反省し己に厳しく、他人に寛容の心を持って神理の殿堂を築いて行こう。


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神理問答  (周)

【 問 】 高橋信次先生は、私を信じなくてもよい、己の心を信じよといっている。前回の神理問答では、先生を信じよ、という。両者の間に矛盾を感ずるが、この点は如何に・・・。

【 答 】 これまでの他力信仰と、そこに教祖が存在する場合は、教祖の一挙手一投足が信者に対する教につながっています。それは良いにつけ、悪いにつけて、その影響は、絶対の権威を持っています。不信や疑問の余地を与えるいとまがありません。盲信、狂信は、こうした権威、状況の中から生まれます。
 ところが、正法については、こうゆうことはあり得ないのです。なぜかといいますと、正法とは、自分という存在を抜きにしては存在しないからです。あの人がいる、この人もいるという感覚は、自分という存在があるから、認知できるのです。宇宙という存在も、地球という概念も、自分が呼吸し、生きているから分かるのです。眠ってしまえば、宇宙の存在、家庭のこと、職場のこと、すべて、分かりません。眼がさめて、はじめて、あらゆる諸現象を知ることができます。
 正法の出発点は、それ故に、自分を発見するところから、はじまり、それにつきるのであります。自分のない正法、自分を無視した正法、自分から離れた正法というものは、ないのであります。
 サテ、そこで、己自身を知る、正法を知るには、どうすればよいか。それは、己の心を信じ、八正道を行い、反省という光の触媒を通じて、得られるものです。
 ところが、人間の心、宇宙、神、正法というものは、くめどもつきぬ深遠さに包まれています。これでよし、とする極点は、そうやすやすとは、手に入れることはできません。その過程は、六波羅蜜の忍辱の修業にも通じて参りましょう。
 このため、ややもすれば、人は、その困難さにうち克ことができず、環境に負けます。負けない自分を支えてくれるものはなにか。これこそ、高橋信次先生にほかなりません。先生を信ずることによってのみ、己自身の心をみつめ、己の心を信ずることができるのです。
 高橋先生は、神の使者です。イエス様がそうであったように、釈迦の正法も、神仏の実在を証明し、人々は、これに参画帰依することによって、はじめて、己自身とその心を知ることができるのです。
 他力信仰とは、本質的に、その内容を異にし、自力、他力を越えた調和、すなわち、高橋先生を信じた、調和の絶対自力の信心こそ正法であります。


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【会員制度】
・会員は会の維持協力協賛する者をいいます.
普通会員五百円、賛助会員千円、月二回の正法研修会に参加できます.

【本部だより】
・二年目の春を迎えた私共の会は、内陣の固めとともに、今年は外に向かって、正法の存在を宣布する年でもあります。このため、世間の眼も、ようやく注目するようになり、会の動きに敏感になってくると思います。一人一人の責任、重且大であります。

・正法流布の活動は、昨年よりも今年こそ、本番といってもいいでしょう。そのためには、会員各位の、それぞれの職場、隣人、知己を通しての、積極的な活動に期待されるところが大きいといわねばなりません。同時に、正法流布は、私共会員の責任でもあります。よろしくお願いいたします。

・現在、会員制度のうち、賛助会員制度があります。月一口、千円。ご事情が許すならば、幾口でも結構です。今月は三口、来月は一口の場合でも差し支えありません。その時々の、ご事情の許す範囲内で菩薩行をお願いしたいのであります。

・事務局に、青年部、婦人部が結成されました。

・現在、地区座談会会場は、数カ所を数えるのみ。座談会の目的は、会員相互の啓蒙と正法をより深く探求する場として、これから、ますます必要になってきます。正法を知ることは、つまり、己を知ることであり、それが分かれば、職場も、家庭も、健康も、調和されてまいります。正法とは、畢竟(ひつきょう:つまり、けっきょく)、己自身のためであり、己なくして正法はないのであります。座談会は正法を己のものとするための場として、欠かせません。何人かが集まり、月一回、地区座談会を持たれるよう希望します。事務局に連絡在り次第、講師の派遣もいたします。費用は一切無用です。一度事務局にご相談下さい。

【編集後記】
・明けましておめでとうございます。本誌第一号が発行されてから、今月で丁度六号を数えるに至りました。ひとえに、皆様のご協力ご支援の賜物と感謝しています。今月は、正月の月でもありますので、従来の八頁を四頁ふやし十二頁としました。会が生まれて早や二年。今年は世間の眼もようやく私共に注目してくると思います。ともども己を自覚し、たがいに手をたずさえ進んでいきたいと思います。
(H生)


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【行事】
・講演会
  場所:八起ビル3階
  毎週土曜日:午後6時半より午後10時

・個人相談
  毎週月曜日以外は年中無休。ただし8月、1月については臨休する場合があります。

・賛助会員教育
  正法流布に積極的に参加される方々のために設けられた高橋信次先生直接指導による
正法研修会.毎月1回。八起ビル内本部で開かれます。

 - 完 -




2016.04.28(金曜日-昭和の日 祝日) UP
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