高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








般若心経 解説   高橋信次

                     
GLA誌1972年8月号 ~ 1973年10月号 掲載

序文

 一般に伝えられ、難解といわれている「般若心経」について解説してみたいと思う。般若心経は文字にして全文二百七十六文字からなる。文字こそ少ないが、そのいっている神理は人間の悟りを説いている。
「悟り」とはどういうもので「悟る」と人間はどうなるかを、二百七十六文字で語っている。悟りの状態を言葉で表わそうとすると、どうしても無理がでる。受け取る人によって違ってくる。それだけに般若心経の解説は、これまでも結構行われてきたようだが、その真意を伝えているものは少ないようだ。
 般若心経を書いた人は中国唐時代の僧、玄奘(げんしょう)である。六世紀の頃、インドに渡り、霊場、仏典を求めて各地を行脚した。かくして、今から二千三百年ほど前に、梵語によって書き遺された仏陀の教え大般若経を漢訳し、要約したのが「般若心経」である。それだけに、神理を伝えている。ただ漢文は表現がオーバーで、ややもすると事実を誇張する傾向があるようだ。いずれにせよ、この経文は、人間の悟りを説いたものであり、数ある経文の中でも、ひときわ際立っているといえよう。





摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)

観自在菩薩(かんじざいぼさつ) 行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみたじ) 照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう) 度一切苦厄(どいっさいくやく) 舎利子(しゃりし)

色不異空(しきふいくう) 空不異色(くうふいしき) 色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき) 受想行識(じゅそぎょうしき) 亦復如是(やくぶにょぜ) 舎利子(しゃりし)

是諸法空相(ぜしょほうくうそう) 不生不滅(ふしょうふめつ) 不垢不浄(ふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん) 是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき) 無受想行識(むじゅそうぎょうしき) 無眼耳鼻舌身意(むげんににびぜつしんい)

無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう) 無眼界(むげんかい) 乃至無意識界(ないしむいしきかい) 無無明(むむみょう) 亦無無明尽(やくむむみょうじん) 乃至無老死(ないしむむろうし) 亦無老死尽(やくむろうしじん)

無苦集滅道(むくしゅうめつどう) 無智亦無得(むちやくむとく) 以無所得故(いむしょとくこ) 菩提薩埵(ぼだいさつた) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみたこ) 心無罣礙(しんむけいげ) 無罣礙故(むけいげこ)

無有恐怖(むうくふ) 遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟涅槃(くきょうねはん) 三世諸仏(さんぜしょぶつ) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃみたみたこ)

得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい) 故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみた) 是大神呪(ぜだいしんしゅ) 是大明呪(ぜだいみょうしゅ) 是無上呪(ぜむじょうしゅ) 是無等等呪(ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦(のうじょいっさいく) 真実不虚(しんじつふこ) 故説般若波羅蜜多呪(こせつはんにゃはらみたしゅ) 即説呪日(そくせつしゅわつ) 

羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 波羅僧羯諦(はさそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか)

般若心経(はんにゃしんぎょう)




摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)


 摩訶(まか)とは、古代インド語のマーハーの音訳である。マーハーとは、偉大なとか、大いなるの尊称の意味に使われている。仏弟子である目連(もくれん)のことをモンガラアナーといったが、天眼(てんがん)が優れていることと、同一の姓が多かったため、大目連、つまりマーハー・モンガラアナーと尊称していわれた。またゴーダマ・シタルダーの義母を弟子たちはマーハー・パジャパティーと呼んでいた。

 般若(はんにゃ)とは、仏智のことである。魂の転生輪廻の過程において体験し、学んで得たいわば智慧の極点であって、その極点が意識の中に記録されているのである。

 人の一生は五十年、百年ではない。何億、何十億もの人生経験を経て、現在ある。その経験から学び取った智慧が意識のかなに収まっている。それ故に、無為徒食
(むいとしょく・何もしないで、ただ無駄に毎日を過ごすこと)した者に、そうした意識が収まるわけがない。最善をつくし、その一生を努力と奉仕のなかにあった者の善知識が記録されているのである。

 医学を学ばないで医術を施すことはできないのと同じように、意識の記録は、現象界で学んだこと、経験して得た人生の正道が収められているのである。もちろん、それだけではない。私たちの人生は、この世だけではなく、実はあの世もある。あの世でも修行があるのである。あの世の修行は長い。千年、二千年である。ただこの現象界の利点は、玉石混淆
(ぎょくせきこんこう・すぐれたものと劣ったものが区別なく入り混じっていることのたとえ)の世界だけに、数多くのことを、同時的に学び得ることができる。したがってあの世の十年は、この世の一年で足りよう。何れにせよ、そうした人生経験から得た知識、善知識が意識のなかに記録されている。人生の記録だから正道に反した想念と行為についても記録される。それだけに、それが業(かるま)となって同じところを行きつ戻りつする魂も出てくるわけだ。

 人間の意識には表面意識と潜在意識がある。過去世の記録は潜在意識のなかにかくされている。偉大な発明発見が、最善の努力を重ねているうちに、思わぬ結果となって生まれてくる。新しいアイデア、あるいは人生の危機を回避できた発想というものは、ほとんどが、潜在意識の作用によるものである。般若の智慧は、こうしたものも含めて、いわば最高最智の智慧であり、その仏智は、正道を悟ることによって、潜在意識と表面意識が調和されたときに生じてくるものである。般若の智慧については後で詳述する。

 次に、波羅蜜多(はらみった)であるが、これはバラモン教典のパラミターがその原語である。パラ(波羅)とは到着するという意味であり、ミター(蜜多)とは、この場合智慧ともいい、通常は彼岸という風に解釈している。

 二千五百有余年前のインド、それも中インドでは蜂蜜は貴重品であった。蜂蜜は栄養価も高く、容易に口にすることができなかった。そのため仏陀は説法の際に、蜂蜜を例にとって、波羅蜜多の説明をしたのである。すなわち、智慧とは蜜の一杯つまった最も栄養価の高い至上のものであり、これを得るには正道にそった生活行為しかないということを説いたのである。

 このように彼岸は智慧の宝庫を指しているわけです。「彼岸」がある以上「此岸」がある。此岸とは業生の世界であり、彼岸とは業生を解脱した悟りの境涯をいう。

 ところで、バラモンの経典はイグヴェダー、ウパニシャドを中心として成り立っている。バラモン教は長い歴史を持っており、その発生は約四千余年の昔にさかのぼる。バラモンの教えはエジプトから伝わり、インドで教典化された。一万二千年前のアトランテス時代のアガシャーより伝えられて、のちエジプトで神理が説かれたのは今から約四千二百年ほど前にさかのぼる。クレオ・パローターやアモンという人々が説いたものである。モーゼより以前である。バラモン教典の中身はそれだけに神理が書かれており、観自在菩薩についても触れている。本来、バラモン教は、クレオ・パローターが説いたその神理を教典としているのだから、教典そのものには過ちが少ないが、月日が経つにしたがって形骸化され、階級制度がバラモン教を支配するようになってしまった。仏教が二千五百有余年後の今日、哲学となり、学問になった。僧侶の世界はいつしか階級制度が取られ、檀家や寺院を維持するための職業と化している。

 しかし、仏典の中身は、この般若心経にしても仏陀の説法が説かれているのであり、間違いは少ないのである。ただ、古代インド語が漢文になり、その漢文も音訳が多いために、漢字の意味と事実との間がかなりの隔たりがあって、ますますその真意が解らなくなってしまったことは否定できない。ともかく、こういうように、バラモンの教典そのものは、神理を説いているが、今日の仏教と同様な経過を辿
(たど)っていったのである。

 心経
(しんぎょう)とは、文字通り、心の経である。経とは梵語のストラーを翻訳したもの。その意味は心の核、つまり核心ということになろうが、心という言葉ほど掴(つか)み難く、それでいて今日、これほど簡単に使われているものも少ないようである。吾人はよく心の調和を口にするが、それだけに現世の人間関係は不調和であり、それを願う気持ちが大きいといえる。しかしながら、心の実体、実相というものを知らずして、それを願うことは不可能ではないだろうか。

 では、いったい心とは何だろうか。心とはどういう機能を持って私たちを動かしているのだろう。心経で教える心とは何を意味するのだろう。

 一口にいって、それは永遠に変わることのない魂の中心が心なのである。

 結論を急げば、心とは、人間と宇宙を貫く同一の意識である。同一の意識とは、万生万物を生かし続けているところの大自然の偉大な叡智、慈悲、愛の意識である。言葉をかえれば、それは私たちの心の中に内在されている仏智であり、心経は、心の極点であるその仏智を教えているものである。こういうと、いかにもむずかしく、ますますその意味を解しかねる向きもあると思うが、要は赤子のような素直な感情と、それでいて、何もかも見通せる能力と、泉の如く湧き出でる無限の大智識を内に包んだ状態であるといえる。

 魂の存在を否定する人が多くなっている。理由は死後の生活が解らないということと、科学の発達が未知な分野を解明してきているからだ。しかし、死後の生活が解らないから否定する、科学がナゾ解きをしてくれるから、魂がないと、どうしていえるだろう。死者がよみがえって、生きている人と談笑した例は、枚挙にいとまがない。私などは、霊的には、年がら年中、死者と話している。だから、死者の霊というものは存在し、あの世で生活していると、声を大にしていえるのである。しかし人は、なかなか信じてはくれない。そこで、いろいろ例を挙げて説明するが、それでも信じない人がいる。こういう人は不幸な人である。あの世を信じられない人は、どうしても、この世の常識での枠内でしか、ものを見る目を養われないからである。

 霊媒者は世界各地に散在している。霊媒とは、あの世の霊が霊媒者の意識と肉体を借りて、ものを語ったり、物品を移動したり、念写をしたりする人のことである。
 物理的には到底考えられないことが、霊媒を通すと、それができるのである。その状況は奇術か手品に似ている。ところが奇術や手品は、チャンとした仕掛けがある。その仕掛けを覚えれば誰にでもできる。が、霊媒現象はそうはいかないのだ。万事、あちらまかせだからである。

 しかし、そうした非物理的(この世から見た場合に)なことが可能であるという事実は、三次元以外の次元のちがった世界が存在し、その世界からの働きがあるからできるということがいえるのである。霊媒者の背後には、必ず、一人ないしは数人の霊人が立っている。次元の低い霊媒者には、動物霊が姿を見せている。そうして、こうした背後の霊が、灰皿を空中に浮かしたり、本人が語れないようなことを語ったり、念写を実現させている。現実にまったく無いものを生み出す物質化現象については、霊媒者の意識が高くないとできないものだ。

 物質化現象は、ある意味では物品移動に相違いないが、他の天体の物質を、地球の物質に変え、現わすことだってできるのであり、こうしたことは低次元の霊にはできないことだ。物品移動は、家のなかである物を、A点からB点に移動させる、家の中から百メートル離れたある地点に移動させることである。こういうことは動物霊でもよくやるのである。何れにしても、こうしたことは、三次元的物の見方では考えられないことであろう。

 しかし、こうした実験は、アメリカ、イギリス、フランス、インド、日本でも、霊媒と称する人を通して行われている。問題は、こうしたことができても、その客観的説明になると、現在の科学ではまだそれは不可能に近く、霊媒者という特殊(本来そうではないが)な人でないとできないところにあるようだ。しかし、だからといって、あの世に霊が存在しないといい切れるものではないのである。

 アインシュタインの相対性原理以前の宇宙像は、宇宙は二つの異なった要素、つまり物質とエネルギーをいれる容器であるというものであった。ところがアインシュタインは、質量とエネルギーは同等であり、物質はエネルギーの集中したものであるとみたのである。
物質が質量を持たずに光速で走っていれば、それを幅射とか、エネルギーと呼ぶことができようし、反対にエネルギーが凝結して別の形をとれば、これを物質と呼べるようになったのである。この理論によって、光、熱、音、運動などについても同様にエネルギーと呼ばれるようになった。物質とエネルギーはこのように同一の要素からできているが、同時に、エネルギーそのものは永遠にして不滅なのである。

 よく引き合いに出すが、水の性質がこれを最もよく物語っている。氷も、水も、ともに物質であり、前者は固体として、後者は液体として人間の視覚にはっきりとらえられる。ところが熱粒子にあたためられると、氷や水はやがて、気体となって蒸発してしまう。目に見えなくなってしまう。しかし蒸発した水が無くなったかというとそうではなく、天空高く舞い上がった目に見えない水滴は、天空で冷やされ、雨や雪となって落ちてくる。つまり、地球上の水の質量は、こうした循環を繰り返しながらも、決して、減ることも、増えることもないのである。一切の物質は、このように時にはエネルギーとして空中に存在し、そうして、さまざまな条件の組み合わせによって、動、植、鉱の物質として生まれ変わっている。こうみてくると、物質とエネルギーは形を変えた不滅の連続体としてとらえることができるであろう。連続体とはつながっていることを意味している。アインシュタインは、天空に広がる大宇宙を、時間と空間とからなる四次元の世界として、これをながめている。

 物質の実像は、四次元にあって、はじめて、実在性を伴うとしている。たしかに、大宇宙を三次元の主観的な空間としてとらえるだけでは、明滅する星の距離も判らず、客観的な実在性も伴っては来ない。ただ、空間に、物が、在る、ということにすぎない。そこで、これに一つの次元の時間を加えることによって銀河系は、はじめて、その全貌を現わすことができよう。すなわち、秒速五万六千キロの早さで、無限の彼方に遠ざかる巨大な星雲、五億光年も離れた島宇宙のきらめきをキャッチする望遠鏡にしても、時間という測定単位が加わることによって、宇宙の生命、星雲の実体というものが認識されてこよう。物が運動するとは、時の経過を意味している。時間のない運動はあり得ない訳である。その意味では、時間は、物体が点から点に移る連続体として、これをとらえることもできよう。

 私たちの肉体と意識についても、さきほどの物質とエネルギーとしてみることができるし、人間がこの地上に存在するということは、そのこと自体、そのまま、四次元の世界を形成しているということがいえる。過去、未来という時の流れのない人間がもしあるとすれば、それは死した化石にすぎないといえるだろう。

 何れにせよ、私たちが、現在、肉体を持って、地上に存在するということは、存在する以前に自分があったであろうし、肉体は死しても、エネルギーは不滅の法則通り、自分自身は、なおも存在し続けるものである。

 人間以外の他の物質が、エネルギーにとってかわって時間の流れにそって、永遠に生き続けるというのに、人間だけが、「死して灰(なんにもなくなる)になる」ということはあり得ないではないか。人の存在はそのまま四次元を形成し得ることは、実は、重大な意味を持っている。

 四次元がある以上は、五次、六次元もあるわけであり、そうした連続体の中に、人は呼吸し続けている。この点については、後でまた詳述したい。

 ここで述べたいことは、肉体と意識、肉体と魂が次元を異にしながらも、同時に存続し、肉体が大気に還元される(死ぬ)時には、人の魂はその肉体から抜け出し、なおも生き続けているということである。

 現代の科学が、人間の死後の生活や魂の存在を認めようとしているのに、その一方では科学がこれを否定してくれると思われているところに、問題がある。科学者は科学する心を広めれば広めるほど、生命の驚異に畏敬の念をいだく。これを逆にいえば科学を学ばない人ほど、生命を軽んじるようである。魂の存在は、以上の簡単な説明でも容易に理解されると思う。

 魂は、肉体舟を操るところの、己の意識である。個性を持った意識である。したがって、その魂は千差万別であり、成仏する魂もあれば、迷える魂も出てくるわけである。そうして、その魂を魂として機能化させているものが心なのである。

 心は、魂の中心にあって、魂を永遠に生かし続けているものである。心経とは、その心の教えなのである。





観自在菩薩(かんじざいぼさつ) 行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみつたじ)
照見五蘊皆空
(しょうけんごうんかいくう) 度一切苦厄(どいっさいくやく)
舎利子
(しゃりし


 この意味は、一般の立場からみると、その行(生活行為)が深まっていくと、五蘊(色、受、想、行、識)は皆空なり、と観ぜられ、一切の苦厄から離れることができる。即ち、波羅蜜多(彼岸)の般若(無限の智慧)、観自在菩薩の境涯に至ることができる、ということになる。

 観自在という言葉は、ヴェダーやウパニシャドの経典に「アポロキティ・シュバラー」として載っており、その意味は、過去、現在、未来の三世を自在に見ることのできる超能力のことである。ところで、ここでいっている観自在菩薩は、仏陀を脳裏に描きながら、仏陀を指していっているのである。

 このため、その解釈は、大分違ってくるのである。仏陀が、般若の智慧をもって行じる(法話)時は、五蘊(五官六根)に迷う衆生は、その迷いからさめ光明世界(皆空)に、第一歩(度一切苦厄)を印することができた、ということになるのである。

 さて、行深般若波羅蜜多について考えてみよう。いったい般若の智慧は、どうすれば得られるか、深く行ずるといって、何をどう行ずればよいのか、と誰しも疑問をもたれるであろう。ふつう「行」というと、厳しい肉体行を考えてしまう。

 二千五百余年前のインドでも、肉体をいじめることによって、悟れると考えられた。バラモンも、ヨガも、拝火教にしても、必ず、厳しい肉体行がついて回った。釈迦の弟子のなかにも、色情の心を絶つために、肉体の一部を切り落とした者もいたほどであった。しかし、肉体の一部を切り落としても、その想念が色情に包まれていれば、意味がない。肉体は、悟りの大事な因子であり、これが損なわれれば精神も不健康になってくる。

 肉体と精神というものは、現象界にある間は、不可分の関係にあって、どちらも大事にしなければならない。もちろん、正道を知って、自分の意思なり肉体を試す意味での肉体行は、決して悪いことではない。しかし、正道を知らずして、肉体遠離の考えだけで、悟れると思ったら、大間違いである。行者の末路が尋常でないのも、正道を知らずして空観のみを求めるために、魔に侵されるからである。

「行」とは、生活である。調和をめざした生活行為を「行」というのである。
 大自然は調和されている。そうして永遠の調和をめざして、春夏秋冬の「行」を行じている。
 正道は、こうした大自然の「行」を教典として成り立っており、生活行為を離れては「行」は存在しないのである。


 
弦の音は、強くしめれば糸は切れ 弦の音は、弱くては音色が悪い
 弦の音は、中ほどに締めて音色がよい 弦の音に合わせて踊れ 踊れや踊れ


 この唄を耳にしたとき、ゴーダマ・シッタルダー(仏陀)は、過去六年の肉体行に決別した。中道こそ、人の道であり、自然に即した生き方である、と悟ったのである。

 この唄をきいてから、ゴーダマは生臭い牛乳も口にした。これをみた五人のクシャトリヤは、ゴーダマは「行」を捨てたといって離れてゆく。しかしゴーダマは、その信ずるところにしたがって、その後は、栄養になるものは、何でも口にした。そうして、骨と皮とになった肉体の回復をはかっていった。

 中道とは、調和であり、右にも、左にも偏しない想念と行為である。

 すなわち、正しい想念行為(八正道)が、弦の音色をよくすることを知ったのである。

 このように中道の精神は、肉体と精神、あの世とこの世についてもいえるのであり、五官六根に執着した肉体保存のみの考え方では、人間は悟れないのである。勿論、あの世については、普通は分からない。しかし、肉体と精神というものが個々バラバラには存在していないし、両者のバランスのとれた状態が、もっとも気分を爽快にし、能率を高めるとは、誰しも経験するところであり、そうしたバランスのとれた状態を続けることによって、やがて、その奥にかくされた、あの世とこの世の関係というものが、明らかにされてくるのである。

 観自在の心は、こうした正道に適った生活、反省による日常生活のバランスと執着を絶つことが大きな前提としていることを、ここではいっているのである。

 ここで執着について考えてみると、大抵の人は、執着を絶てば、人間は生きていけない、と思っているようだ。ところが、生きる、ということと、執着とは、次元の異なった想念なのである。執着とは、とらわれであり、生きるとは、調和なのである。

 とらわれとは、これは俺のものだ、俺はこれこれのことをした、あの子は私のものだ、金が全てだ、地位が高ければ肩身が広い、といった想念である。こうした想念が自分を支配してしまうと、その自由な心を自分がしばってしまい、苦しみが始まる。腹を痛めた子が側にいないと悲しいし、地位が低いと肩身が狭く感じてくる。
 自分の心を大きくし、安らぎのあるものにするには、こうした執着を絶たねば、いつになっても心の重荷はとれないし、悟ることはできないのである。

 では、生きるためにはどうすればいいか。

 この地上の目的は調和にある。万生万物を調和させるために、人間は、この世に生を得ている。大自然は、その生命を維持するために、我々人間に、必要なものを与えている。これは俺のものだ、ここからここまでは俺の地所だと肩意地を張るから、争いが生じてくる。足ることを知らないからなのである。生きるに必要なものは、神は平等に与えているのだから、その心にしたがった生活を送れば、何の不足も、不満も生じてはこないはずである。執着を持たなくとも、人間は立派に生きて行けるのである。建設もできるのである。建設と執着は別物である。この点を混同すると、執着がないと生きてゆけない、という想念に支配されてしまう。

 このように心を軽くするには、まず、その一つひとつの執着の根を外してゆくことである。とらわれをなくして行くことが大事である。そうすると、中道の心が次第に明瞭になって来、観自在心に到達することができるのである。

 照見五蘊皆空 度一切苦厄の五蘊とは、色、受、想、行、識の五つをいっているのであり、その根源は、五官六根であるところの、眼、耳、鼻、舌、身、意である。

 まず色とは、現象世界のこの世であり、受とは、それを受け入れる感覚、想とは、その感覚にもとづいた想念、行とは、それの想念行為、識とは、そうした想念行為から生まれた業想念、考え方を指す。

 こうした想念と行為というものは、とりもなおさず五官六根から生まれるのである。五官六根がなければ、五蘊の発生する余地がない。したがって五官六根こそ問題であり、生老病死の苦悩も、ここから出てくるわけである。

 肉体は人生行路の大事な舟であり、五官がなければ現象界での生活はできない。問題は、これに意(想念)が加わり、その意は、色、受、想、行、識というものを形作るために、煩悩にふりまわされてしまう。
 五官六根の浄化は、これまでいろいろな面から繰り返し述べているように、中道を根本とした生活、つまり想念と行為の中道化、それは八正道にもとづく実践と反省によって進められてくるわけである。

 ここで「舎利子」という言葉が出てくる。舎利子とは釈迦の弟子シャリー・プトラーのことである。観自在心について釈迦が、その弟子の舎利仏に、五蘊を含めて、その意味を説明しているが、舎利仏が舎利子に変化したのは、舎利仏は仏弟子の代表格であり、さらにここでは「諸々の衆生よ」という意味も込めているため、舎利子となったのである。




色不異空(しきふいくう)  空不異色(くうふいしき)
色即是空
(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜしき)


 色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空なり、空は即ち是れ色なり、と読む。

 この詩句はあまりにも有名であり、色即是空に至っては、仏教の中心テーマのように受けとられている。

 さて、色とか空とはいったい何をいっているのだろう。今日ではすでに、さまざまな解釈がなされているが、空については十人十色であり、その実相を衝いているものは,甚だ少ないようである。

 空の実相を知るには、正法を実践するしかない。実践とは正道に適った自らの生活行為である。そうしてそうした中から、空の実相が認識されてくる。先の行深般若波羅蜜多時である。深く行ずることである。したがって仏教は自力である。神の子として、目覚めた自力である。自力というと、自我を通した生活行為を連想しがちだが、そうではない。業生の自分から、神仏の子として脱皮してゆく実践行為を指すのである。

 今日、仏教は、他力本願になっている。だが仏教は、他力については一言も触れていない。もし他力について書いてある仏典があるとすれば、途中で書き替えられたものである。それは正道でない、ということを改めて断言したい。

 空とは何か。空とは、物質にあってはエネルギーの世界であり、魂にあっては実在界を指すのである。
まず、物質についてみると、水の三態(気体、液体、固体)で述べたように、物質は熱粒子の縁によって、集中、分散を繰り返し、たえず循環している。そこで、空とは、俗にいう可視範囲外の状態であるといっていいのである。

 この点について、もう少し考えてみよう。水は熱粒子に温められると蒸発し、眼に見えなくなってしまうが、無にはならない。エネルギーとして空中に在る。熱が冷え、水滴となる条件が満たされてくると、雲となり、雨となる。要するに、物質についての空とは物質化(液体、固体)される前の状態であるといえる。もっとも厳格には気体も物質であるといえるだろう。ただここで見逃してならない重大な問題がある。それは、気体となった水粒子は、必ずしも雨や雪となって落ちてくるとは限らない。気体となった水粒子は、水以外の鉱物、植物、動物の組成の一員として、物質界に再びよみがえってくるものもあるのである。ちなみに、あらゆる物質には、何がしかの水分を含んでいるのである。水分を含まない物質は、皆無といってもいい。このように、気体となった水粒子は、他の物質粒子と組み合わさって、いわば形を変えて現象化されている。

 こうみてくると物質の空の状態とは、万生万物を生み出す素因を内在せしめているのであり、それはまた言い方を変えると、空の世界は、万生万物の投映の場になっている、ともいえるのである。空の世界は、あらゆる物質のエネルギー粒子が集まっており、そうしてそれらは熱、電気、磁力、重力などの相互作用、つまり縁によって、さまざまな物質を創り出して行くのであるからエネルギーの世界は、そのまま、万物投映の元の世界であるといえる訳である。

 次に魂について考えてみよう。

 魂の空の世界とは、あの世を指すのである。この世のことを現象界、ないしは物質界というが、あの世は実在界、意識界ともいう。なぜ空の世界を実在界というかといえば、「物」が実際に存在する世界だからである。この世、現象界は一切の「物」は、時が経つと変化してしまう。どんな立派な建物でも、発明品でも、時がくれば土になり、風化してしまう。ところが、実在界の「物」は、時が経っても消えていかない。必要と認められた「物」は、何千年、何億年も、そのまま減ることも増えることもなく存在し続けるのである。この世では、どんなに価値のある「物」でも、人々の願望を叶えてはくれない。時が経てば否応なしに崩れ去ってしまう。この点が大いに違うのである。

 たとえば木製の机があるとする。この現象界では木製の机は、使用しておれば、どんなに大事に扱っても千年と持つまい。それを持たせるには真空に近い暗室に保存し、熱や光や湿気から守ってやらないと朽ちてしまう。ところが実在界では、一万年でも二万年でも使いながら持たせることができるのである。人や動物でもそうである。この世では人は百年、動物なら五十年生きるには、条件が整わないとむずかしい。だが実在界は、千年はおろか、二千年、三千年はザラである。いくらでも実在界で生き永らえることが出来る。しかし循環の法にしたがい、現象界に生まれ変わるが、魂の実在性は変わらない。
 要するに、あの世は「物」が半永久的に実在するから実在界というのである。半永久的とは必要がなくなれば、何時でも古いものを新しいものに変えることができ、必要なら何時までも残すことができるからである。では何故、こういうことが可能かというと、実在界は魂の世界だからである。魂とは心の世界、つまり意識の世界、意識界であるから、心のままの世界が展開されているのである。

 ここで、現象界は空の世界の投映であるということについて触れると、たとえば実在界に木製の机なら机があって、その机が現象界に写し出されているからそういうのである。
 では、あの世には電車や汽車、戦車や大砲、航空機、原子爆弾、ミサイルなどもあるのかと問われるであろう。これに対する答えは、あるものもあるし、ないものもあるということになる。どうしてこういう答えになるかというと、核ミサイルに執着を持つあの世の科学者が、そのミサイルの愚を知って、ミサイルの研究を辞めたとする。ところが、現象界のミサイル科学者は、あの世の科学者のミサイル研究の辞める前の想念波動を受けて、それを創り上げたために、あの世になくともこの世にあるという結果になったからである。
 これをもう少し詰めて説明すると、あの世は心の世界、心の世界とはどんな想像も可能な世界である。どんな想像も可能だということは、言葉をかえると何でも在る、ということになる。想像は創造につながり、創造は文字通り、「物」を作り出すことである。

 万生万物は、ことごとく「心」から生まれたものであり、心を基本にして、相互作用の縁によってさまざまな物質が生産されるのである。
 もし、人間に思うこと、考える能力を抜き取ったなら、どうなるか。動物と同じように、一万年、十万年経っても進歩はないだろう。歩くより早く目的地に着くためには、電車や飛行機が便利だということで、まず最初に、人々の心の中で考えられ、そうして各種の材料を集めてきてつくられた。あの世は、こうした創造が無限に広がっており、この世の想像の範囲をまったく越えている世界なのである。だから、この世にあるものは、あの世にあり、しかし、形としてはないものもある、ということになるのである。

 さて、話しを前に戻して、物質の世界は万物を生み出す素因として宇宙に存在し、魂の空の世界がこれらの素因を集め、形あるものに創造して行く能力を秘めている世界であるといえる。同時に魂の世界は、心と創造の世界なのだから、そのことはそのまま「もの」を実在せしめている世界でもあるといえるのである。こうした意味から、空の世は、実在界、意識界というわけである。

 さて次に色とは何かといえば、私たちの眼にとまる現象界、物質界のことである。

 物質界は色彩に富んでいる。これは平面的な生活を補い、私たちに修行しやすい環境をつくるためである。
では、空の世界は色彩がないかというと、もちろんある。ただ、「心」に応じた意識界をつくっているので、階層によっては灰色の世界もあり、霧におおわれて色彩が不鮮明なところもある。しかし天上界は、この世の世界と全く同じであるが、次元が高くなるにしたがって、その色彩は明るく、そうして次第に安らぎのあるものとなっている。

 この世は人の心に関係なく、神は、さまざまな色彩をつくって、平面的な地上の生活を補ってくれている。つまり修行しやすい環境を与えているのである。この点からも私共は、神に対して感謝し報恩の行為である「調和」という目的に向かって進んで行かなければならないのである。

 物質界の成立は、実在界の縁によってなされている。縁とは、交わりである。あらゆる物質は相互に関連し合い、動、植、鉱の物質をつくり、生命活動に必要な基礎的環境を形成している。私たちの親子、兄弟、姉妹、夫婦、知人、友人にしても、そうした実在界の約束によってこの現象界で縁が結ばれている。偶然に縁が結ばれたのではない。

 ちなみに地上の人類は現在三十七億にのぼっている。その三十七億余の中から、一対の夫婦が選ばれ、親子が生まれ、兄弟姉妹ができ、友人、知人、そうしてそれ以上の目的を共にする同志が結ばれる。偶然として片づけるには出来過ぎているし、第一現象的に見て、不思議と思えない人はどうかしているといいたい。もし、こうした現象が偶然であり、生命がアメーバーから生まれたとすれば、この世の成立は不可能だし、太陽も地球も人間も生かされ、生きることは出来ない。

 自然界の秩序、人間界の秩序は神の意思にもとづいてつくられており、人間界の苦しみ悲しみの混乱は、人間が神の子としての能力を持ちながら、その能力を好き勝手に使っている為に起こっている現象である。自分の好みで好き勝手にその能力を持て遊んでいるから、めくら千人となり、必然か偶然かの判断すらできなくなっているのである。

 空の実相を知った時には、この世の一切のものは「縁」によって生じ、「縁」によって生かされ、「縁」によって万物が調和されていることを悟るであろう。

 色不異空、空不異色、これを直訳すると、現象界は実在界の投映であり、実在界があって現象界があるのだ、ということになる。さらにもっと突っ込んでいくと物質はエネルギーであり、エネルギーは物質である、ということになってくる。

 
現象界と実在界は、もともと一つであり、別々ではないのである。現在の自分の想念と行為が、死後の実在の自分自身を現わしていることになる。現象界が実在界の投映という意味は、一つには人間の心は一念三千であり、天国にも地獄にも、自分が意識を向けたところにつながるのでそういうのである。人間は天国と地獄のちょうど中間に位置している。

 なぜ中間に位置しているかといえば、人間の心は天国と地獄に通ずる自由(一念三千)な心を持っているからである。慈悲と愛の心を持てば天国に、煩悩に心を奪われれば地獄に通じ、自分自身の生活環境を通じた世界と同じような形で現わして行く。つまり、実在界の投映という形をつくるのである。それほど心というものは、重大な要素を持っており、人間はその心の在り方によって、鬼にも天使にもなり得るのである。

 実在界に鬼が住むような地獄がもともとあったかどうかである。天地創造の初めはなかったのである。実在界はエデンの園であり、天国のみであった。ところが人間がこの地上の生活になれ、五官に左右され、六根が生ずるようになってからは、実在界の一隅に、暗黒の世界をつくるようになった。人間は自らの想念と行為によって、そうした闇を生み出していったのである。すなわち、実在界に、光と陰の世界が出来上がってしまった。そうして、地上の人間は、光と陰、善と悪の混合された世界で修行するような環境をつくり出し、その中でなければ、何が善で、何が悪であるかを知ることが出来なくなってしまったのである。もともと実在界があって現象界があるのだが、現象界の人間の心が実在界に闇の世界を創り出してきたのである。
 こうみてくると、現象界と実在界の姿がはっきりしてこよう。そうして、色と空の関係が、もともと別ものではなく、同時的に成立している、という意味が釈然としてきたと思う。色は空に異ならず、空は色に異ならずとは、こうした意味がこめられているのである。

 色即是空、空即是色、これの解釈は通常文字にとらわれる場合が多い。あると思えばない、ないと思えばある、といってみたり、色即是空は、往相(悟りに向かう)空即是色は還相(人々を救う)と説明している人もいる。本当の意味は、転生輪廻なのである。あの世とこの世の循環を、色と空、空と色という表現で、ここでは説明し、そうしてこう表現することによって、魂の転生輪廻の永遠性をうたっているのである。

 大抵の人は、人間が生まれ変わるとは信じられないようだ。まず十人が十人死んだらお終いと思って生きている。だから、生きているうちが華であり、生に執着を持ってしまう。死は不幸を意味し、葬式は概ね暗く、陽気はタブーとされている。

 所が、人間は生まれ変わり、この世よりも、生前の魂の在り方によっては、あの世の方が住み良い、ということがわかれば、死は不幸ではなく、人生の卒業式として、生まれた時と同じように、祝杯をあげてもよいということになる。
 死に対する人間の根本的な誤謬(ごびゅう)は「あの世がわからない」所にあるようだ。人は生まれると同時に、あの世と断絶し、通信が途絶えてしまうからである。お先真っ暗の人生を、それこそ手探りで歩いているようなものだからだ。しかし、怒ったり、ねたんだり、悲しんだりすると気分を悪くし、人にも害を与え、反対に陽気や笑い、助けあったり、励まし合うことの喜びは、どんな場合でも気持ちがいい。その事実を私たちは日常の中で経験しながらも、自然に振り廻されてしまうものだが、しかしそうした愛に生きた時の喜びを発見し、認識するならば、あの世があろうとなかろうと、現実の自分とその周囲を光明に化することができるはず。

 悲しみを取り除き、喜びを分かち与える慈悲の心、助け合う愛の心というものは、人間は、皆持っている。そうして、そうした生き方を、誰しも望んでいる。しかし、現実は、そうできない。気持ちよい生活、平和な世界を希求しながらも、それから遠のいてゆく。これは、自我がそうさせ、執着が次第に広がって行くために、本来の目的から人は離れていってしまうのだ。ウソつきが得をし、正直者はバカを見る、ということを鵜呑みにした結果ではあるまいか。

 己の心にウソはつけぬ、大自然の条理を知って神の心に近づこうと努力するものに対しては、神は、色即是空の生命の扉をひらいてくれよう。なぜなら、神は、自ら助ける者を、決して放っておくようなことはしないからである。

 人は色即是空の認識を得る前に、大抵は根負けし、肉体世界に妥協してしまう。妥協の上にあぐらをかいて、ああでもない、こうでもないと逃げをうつ。人生はますます解からなくなり、迷路にはまりこんで行くのだ。
 まず人は、怒ったり、ねたんだりすることよりも、陽気に笑い、助け合う愛の心を、しっかりと抱いて、そうして、その心を持続するならば、「あの世がわからない」という迷信に陥るようなことはあるまい。

 アメリカのある新聞社が、「あなたは、あの世を信ずるか」について世論調査をした。結果は、調査の八割までが、あの世を信ずる、と答えていた。答えた人八割があの世を見た訳ではない。信仰が生活のなかに溶け込み、日曜になると、教会にいって話を聞かないと一日が終わらない気持ちが、そうした回答となったのであろう。聖書が教える愛の心を教会で教えられ、愛の心を持ち続けることは人間として当然であり、そうしなければならないと考えているからである。日本人について世論調査をしたら、どんな結果がでよう。あの世があると答える人は一割あるかないかであろう。ともあれ、私たちの住む世界は、立体の世界である。人が地上に存在することは、そのまま、あの世につながった存在者として、存在するのである。ただ、あの世がわからないために、そう思えないだけの話である。


ところで私たちの生きている世界は一応三次元の世界である。

一次元とは、A点からB点を結ぶ線、つまり、海面と思えばよい。
二次元とは、海面を航行する船である。船は前後、左右に動くので、一次元より自由である。
三次元とは、空中に浮かぶ飛行機と思えばいいし、飛行機は、二次元、一次元の姿を自由に見ることができる。
      つまり三次元は立体の世界であり、大宇宙の空間と明滅する星の姿は、そのまま三次元の世界を
      形成している。

 物質の世界は、三次元までを限度とし、それ以上については、認識ができない。ところでアインシュタインは、三次元の空間のほかに、時間という一次元を加えた。そうして、そうすることによって三次元の実相をとらえることができると考えた。

 アインシュタインは、時間を四次元に位置づけしている。つまり、物の実態というものは、時の流れを把握することによって、はじめて、意味づけが出来るというのだ。三次元の立体像を単に主観的にとらえるだけでは、実在性は伴って来ない。実在性は客観的把握を前提とするという訳である。空中に飛行機が飛んでいる。つまり三次元のみの思考ではその飛行機が、いったい何の目的でどこへ、どう飛んで行くのか、また離陸した飛行場はどこなのかについての認識がむずかしい。しかし、こうした状況を、時間という運動の経過を通して調べることによって、空中を飛んでいる飛行機の目的なり、動機がはっきりしてくるというのだ。

 この世の一切の物は、一刻の休みもなく運動している。運動のない物体というものはあり得ない。とすると、三次元の認識だけでは、これを捉えようとしても、捉えることは出来ない。つまり、物の価値づけ、実在性は把握出来ない。

 人間の心は、生まれながらにして、四次元の働きを内在している。現れの世界は三次元だが、心は四次元に、あるいは多次元に通じている。だから、文明も文化も進んできたのである。動物にはこうした機能は与えられていない。だからこの世に在る動物達の生活は百万年前も今もそう変わらない。もっとも人間社会は、栄えては滅び、滅びてはまた発展し、そうした繰り返しを続けて来ているが、こうした悪循環を絶とうと思えば、何時でも絶つことが出来るのである。そこが動物と人間の本質的な相違である。

 アインシュタインの四次元は、時間に焦点を合わせているが、四次元の世界は、実は、あの世の世界を意味している。物理的な次元論からいえば、四次元は、三次元を越えた自由自在の意識のそれであり、物質を貫通して、ものを見る超能力の世界である。あの世の人たちは、四次元以降多次元の住者である。あの世の霊は壁をつき抜け、あるいは壁の向こう側からこちらが見えるのである。
 人間は、生まれながらにして、こうした能力を内在させて生活している。そうしてその一形態が創造活動であり、私たちの文化でもある。芸術にしろ、科学にしろ、知識だけでは生まれてはこない。大学を出れば、誰も彼もが発明家になり、偉大な政治家になり、芸術家になれるかというと、そうはいかない。見えざる努力と、求める心が、筆を走らせ、絵を描かせ、生活を豊かにするよう科学させ、発明させてきたのである。マルクスのあの膨大な資本論は、今日、いろいろと問題はあるが、あの時代には、あの理論が必要だったのである。だから彼は書かされた。求めつつ、書かされた。資本論を知識だけで書けといっても書けるものではない。こうした創造活動は、絶えざる求める心が内在意識をひらかせ、四次元以降、多次元の心と同通することによって起こるものなのである。偶然とか知識とか、その場限りの発見からこうしたものが生まれることは絶無といってよい。
 何れにせよ、人間は、こうした多次元の心を持って生活している。三次元しか通常は認識できないが、しかし人間の意識は常に四次元以降多次元に同通しており、人間はそうした中で生活し呼吸しているのである。

 ここで四次元以降多次元の意識の自由さについて述べると次のようになる。

 四次元の自由さは、三次元を貫通し、物質にさまたげられることなく、ものを見ることができる。

 五次元は、四次元世界はもちろん見ることができると同時に、地上界と地獄界の比較が容易に出来る。
      四次元の自由さは、ある限られた物質的障害を乗り越えられるのにたいして、
      五次元は、幾層もの物質を貫通して見ることができる。

 六次元は、四次元、五次元の世界は勿論のこと、地球の隅々まで見ることができる。
      善悪の判断が正確となり、人を導く自由さを持つようになる。

 七次元は、六次元は勿論、他の天体にまで瞬時にみてくることができる。
      物質の成り立ち、天体の動き、人間の生い立ちが、七次元の意識が進むにしたがって、
      明らかとなってくる。したがって、物質のなかを覗き、生命普遍の認識を深めることができる。

 八次元は、宇宙全体を認識できる自由さを持つ。万生万物の生命の根源が神の意識によって、動いている
      ことを知り、神の意思を受け継いで、慈悲と愛の広く高い心の広がりを持つ。
      過去、現在、未来を見通す心は八次元の頂点にある。

九次元は、神の意識であり、全(まっとう)なる心である。

 さて私たちの住む世界は三次元の世界であるが、四次元以降多次元の世界が、感覚的に分からないとしても、前述の説明で概略理解されたと思う。そうして、四次元以降の意識界の働きが、どのようなものであり、そうしてその意識が、私たちの生活にどう働いているかも、ほぼ納得出来たと思われる。ところが人によっては、それでも四次元以降の世界はない、三次元で十分だ、四次元は飛躍だという人もいる。しかし飛躍であるかないか経験がないのに、どうしてないといえるだろう。経験のない人が多くいて、経験がある人が少ないから否定する、というのはおかしい。私達の眼で見える範囲は、約7~4オングストログまでである。赤外線、紫外線、X線、γ線、電波については確認することができない。しかし確認できなくとも、実在していることには間違いないのである。

 色即是空、空即是色 ――― 。
 つまり私たちの魂(意識)は、現象界に肉体をまとって生きている間は、主に三次元的感覚(10%の意識)で生活しているが、肉体が滅びれば、魂だけが肉体から抜けて、あの世で生活する。四次元以降多次元の意識を持って。そうして再び、この現象界に現れ、生活する。この事実は、否定しようがしまいが、あることに変わりのないものだ。万生万物は全て、転生輪廻の法から逸脱できない。何故かというと、生命と物質は、そのように作られているからである。地球が太陽の周囲を循環することによって、春夏秋冬の季節をつくり、生命が健やかに育つように出来上がっている。原子の世界も、核の周囲を陰外電子が循環することによって、原子全体を維持している。この理法を崩せといっても崩せない。この点については、また順を追って説明するが、色即是空、空即是色は、転生輪廻の実相をいっていることを理解して欲しい。




受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶにょぜ) 舎利子(しゃりし)


 これを直訳すると「行為は心の反映であり、心は行為に影響される。つまり、色即是空、空即是色と同じ意義を持っている。舎利子よ」ということになる。

 心の世界である意識界は次元の異なる四次以降の世であり、総てのものの根本である空の世界、実在界である。一方、現象界である色の世界は、実在界の投映には違いない。しかし現象界の動きは、実在界に影響を与えるのである。実在界の地獄は、既述したように、現象界の人々の想念と行為がつくり出したものである。この様に、心と行為、意識と肉体というものは、常に相関関係にあって、個々バラバラに独立したものではない。また私達の肉体は現象界に適応した心の乗り舟であり、それは子孫を保存させるために、神が人間に代々にわたって本能という機能を与えたものである。その本能は、人間が肉体を持った時に、付与されるのである。私達は、意識と肉体を持って生活している。いうなれば、あの世とこの世、実在界と現象界を合わせ持って生活していることになる。

 仏教でいう色心不二とは、この実相を悟った状態をいうのである。調和された姿を色心不二という。ここでの項は、心と肉体というものは、相互に関係し合っているのだ、といっているのである。




是諸法空相(ぜしょほうくうそう) 不生不滅(ふしょうふめつ)
不垢不浄
(ふくふじょう) 不増不減(ふぞうふげん)


 是諸法空相の諸法をそのままうけとると、法は沢山の数を成していると考えがちである。そうして、その場合の法とは何を意味するか、と思うでしょう。

 法は本来一つしかない。それは中道という調和の心である。ただ、この地上世界は動、植、鉱の三種の形態から成っており、また天台宗を開いた天台智顗は地・水・火・風・空から出来ているともいっており、姿、形がさまざまである。そのさまざまな物質は、それぞれの体質にしたがって転生輪廻しているため、個々の体質をみていると、法はいくつもあると見えてくる。だから、諸法は・・・・・・という名称になったのである。
 しかし、さまざまの物質がその体質にしたがって維持されているにしても、転生輪廻という法の体質と、その法を支えている中道の心は少しも変わってはいない。生命も物質も、中道の調和から外れると、バランスを失い、不調和を来たす。破壊である。したがってここでいう空相とは、諸法の中にかくされている中道の神理(タルマー)をいっているのであり、諸法は空相によって支えられると解釈する。

 次の不生不滅 ― のくだりについては、その中道の心は、「生れず滅せず、垢つかず、浄らかでなく、増えることも、減ることもない」と、なってくる。

 さあ、こうなると、中道の意味が解らなくなってくる。

 中道とは大自然の心である。
 人間の魂は、この世を終えれば、あの世に帰る。生死の境を、さまようこともない。本来、そのように出来ている。物質についても、その物質が分裂しても、粒子エネルギーは、この大宇宙に存在し、形はなくとも、無になることはない。いわんや、増えたり、減ったりすることも、勿論ない。このように、あらゆる生命、エネルギーは、生き通しのものである。垢もつかない。不浄でもない。地上世界を見ていると、死んだり、生きたりで大変忙しい。

 親子兄弟でも、性格も考えも違っている。同じ精子と卵子の結合物であるのだから、親に似ていい筈だが、違う。何故だろう。

 それは生き通しの、魂が違うからである。懐妊すると、食べ物が変ってくる。今まで甘いものが好きだった人が、すっぱいものを口にする。そうかと思うと、妊婦の性格まで違ってくる。気持が荒々しくなったから、お腹の子は、さぞ男の子だろうと思っていたら、案の定、男子が生れた――。こうした現象は、お腹の子の魂が違うから、妊婦の趣向や性格まで複雑にしてくる。懐妊すると二重人格者にしてしまう。一つの躰に、二つの魂が同居するから、いたしかたがない。腹を痛めた我が子と思うと、親は、自分の思う通りに子が動いてくれないと面白くない。例えば、白といえば黒という場合すら出てくる。
 しかし、魂が違うのだから、いくら腹を痛めても、子は自由にならない。自由思想が氾濫する現代では親子の断絶、相剋がいっそう激しさを加えている。当り前といえば当り前だが、しかし、親子の約束、人間としての条理を外した末法の考え方がそうさせるもので、魂が違っても、そういうものではないのである。ただ、ここでは、親子といえども、魂は違う。いわんや兄弟姉妹においては、なお更違うということを知って欲しい。
 魂は違っても、肉体遺伝はある。たとえば胃腸が弱い、胸が悪い、心臓病にかかりやすい、という体質を受けたとすると、そうした病気に、その子がかかりやすい。もちろん、心の調和をはかっていれば、肉体遺伝は克服して行く。

 メンデルの遺伝の法則は、魂については全然無関係である。肉体的には避けられぬ因子のあることは前に述べた通りであり、細胞学の面でもその事実が発見されつつある。現代人もそうであるように、多くの人々は遠い昔から、肉体先祖と魂を、一緒くたに見てきた習慣から中々抜け切れない。その理由は、死後が不明な事と、生れてくる前の状況が皆目見当がつかないからである。進化論が幅をきかすのも、無理はないのである。
 しかし、先にもふれた通り、親子の魂の相違というものは、昔も今も変らない。自由放任の現代思想がそうさせたものでは決してないのである。もっとも、遺伝学的に、学者の家系は学者が多く、浮浪者や酒のみの家系は犯罪者、自殺者が出る、という傾向は確かにあろう。しかしこれらは体質遺伝というより、魂の転生輪廻における業が、そうさせてしまう場合が多いのである。

まず、人間の出生について述べていこう。


 親子は、現象界に出生する前に実在界(あの世)で約束を交す。親になる者は、子よりも二十年も三十年も前にこの世に出生してくる。この世に出た親となる魂は、幼少から少年、青年に進むにしたがって、自我が芽生え、環境に流される。もちろん環境に負けない魂もある。やがて、結婚し、子をもうける。その時、親となる魂が環境に負けて、実在界で学んだ目的と役目を忘れたとする。約束を交した子の魂は、四次元以降多次元の世界から親の行動を見て知っているが、一旦約束をした親子の交わりを破約し、他の子になるという訳にはゆかない。混乱が起こるからだ。親となるその人が、約束通りの行動をしている場合はいいが、そうでない時には、その子となる魂は苦痛そのものである。
 俗に、親の罪は子にない、ということがあるが、本当に子に罪はないのである。親が環境に負けたのは、過去世の業(カルマ)にひかれたためである。過去世で酒で失敗し、あの世で酒に負けない自分をつくり、その自分を試すために現象界で修行をする。修行のあり方は酒が飲めるような環境が本人が知らぬ間につくられてくるのである。本人が知ってしまっては修行にならないからだ。子の方も、過去世で酒で失敗している。そこであの世で、親と子になる魂同士が、互いに、それに負けない自分を磨き、今度はしっかりやってこようといって、まず親が出、次いで、子が出生してくる。ところが、前述の通り、親は再び酒で失敗し、子となる魂がそれを出生する前にあの世でこれを見て、困ったと思っているが、しかし、親子の約束を交わした以上、他にくらがえする訳にはゆかない。失敗している親の下に出生し、再び、自分もその渦中におぼれていく場合が非常に多いのである。
この例は、親子の一つの型を示したにすぎない。

 現象界は性が混乱し、産児制限が流行しており、親となる魂の安定性が非常に困難になってきている。そこで親子の約束は、時間的にも、実際的にも、果たさずじまいに終る場合も多い。また、子となる魂があの世でまだ修行中であるが、親となる魂の無節操な行動によって、現象界に引きずられて出生してくる。こういう場合は、犯罪や混乱を起こしやすい。実際的な面では、当然生れて来たにもかかわらず、さまざまな理由をつけて、あの世にトンボ返りさせてしまう。つまり、受胎した子をおろす。こうしたことで、親子の約束がその通りに行く例は、限られてくる。夫婦の約束にしてもそうなのだから、現象界での魂の修行は、見様によっては容易ではないといえよう。しかし人は縁によって、縁を通じて自らを修行する者であるし、その縁も、自らが求めてつくられて来たものであるから、与えられた環境、境遇に負けない自分をつくってゆかなければならない。

 さて、話は前に戻して、肉体遺伝は避けられないが、魂については、こういうことで、親子であっても全然異なるし、親が酒飲みだから、子も酒飲みというのは、類似の業がそれをさせるのである。魂と肉体を、一緒くたに見ることは皮相
(ひそう・ものごとのうわべ)も甚だしいといわざるを得ない。しかし、現象界の人達は、あの世が解らないし、過去世も忘れている。そうした中で生活しているのであるから、世襲が社会組織の中核を為してきたのも、致し方がない。
 しかし、世襲が社会制度的に矛盾を含み、混乱のモトをつくってきたので、こうした矛盾は、時代が進むにしたがって訂正されつつあることは喜ばしい。ともかく、魂こそ、生れることもないし、滅することもない。魂の内面は、神の子としての光で輝き、そこは垢もつかず、浄らかであるということもないのだ。ましてや増えたり、減ったりすることもない。全(まっとう)なる自分があるだけである。




是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき) 無受想行識(むじゅそうぎょうしき) 
無眼耳鼻舌身意(むげんじびぜっしんい) 無色声香昧触法(むしきしょうこうみしょくほう) 
無眼界(むげんかい) 乃至無意識界(ないしむいしきかい)


 これは「これの故に空(実在界)の世界は、色もなし、想行識を受けることもない。眼耳鼻舌身意もない。色も声も香も味も感触も、肉体的現象の法もない。眼で見える境界もない」と、いうことになる。

 空中の電波、空気、紫外線、赤外線などは目で確めることが出来ない。ただ、碧(あお)い空のみが映る。が、大気中にはあらゆる物質を構成するところの分子、元素が分散されている。そして全ての物質は仕事をなし得る能力、エネルギーを含んでいるのだが、これとて見ることができない。五官で感知する範囲は大したことでないことを知るべきだ。

 五官に意を加えたものを六根という。通常その意は、五官を通して働いているが、五官を離して働くようになると、五官で感知出来ない世界を覗くことができる。これを心眼という。心眼が開くと、次元の異なる空の実在界を見ることが出来、現象界と形態が違うことを知る。

 たとえば、この世は平面的だ。あの世は段階的にできている。
段階的とは心に応じた世界をつくっているのである。自分より意識の低い所は見えても高い世界を見ることが出来ない。この世は、意識が高い低いにかかわらず、誰とでも会える。それ故、平面的なのだ。

 この点をもう少しみていくと、あの世は、ビルの生活と思えばよい。一階、二階、三階、四階と、それぞれの階層をつくり、一階から二階に行くには階段を上らないと上には行けない。エレベーターは全然ないのである。階段の一段一段は、修行を意味する。心のひろがりが広がることによって上に進むのである。各階層は、それぞれに応じた地域社会をつくっている。丁度この地上の下町、山の手というように、いわば類をもって集まっているのである。このようにあの世は、それぞれの心の世界をつくっている。眼耳鼻舌身の五官と、それにもとづく意が働く、この世とはまるで違う。そうした意味で「是故空中無色」という言葉になってくる。

「・・・・・無意識界」というのは、五官の働く意識を越えているということで、意識界が無いということではない。

 現代人は多忙である。その多忙さは物質的過剰欲求によって生じているが、これは肉体が絶対という考え方が強いからである。世の混乱は、不変的な魂、そうしてその魂の中心である心を忘れることによってつくり出される。




無無明(むむみょう) 亦無無明尽(やくむむみょうじん) 
乃至無老死(ないしむりょうし) 亦無老死尽(やくむろうしじん)
無苦集滅道
(むくしゅうめつどう) 無智亦無得(むちやくむとく) 
以無所得故(いむしょとくこ) 菩提薩埵(ぼだいさった)
依般若波羅蜜多故
(えはんにゃはらみったこ) 
心無罣礙(しんむけいげ) 無罣礙故(むけいげこ) 無有恐怖(むうくふ)
遠離一切転倒夢想
(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟涅槃(くきょうねはん)



 
無無明とは、無明がないということで、迷いのない世界。亦無無明尽は、無明のない光に満ちた、そうしてその光が尽きることのない世界を、ここでは強調している。

 あの世は波動の細かい世界である。この世のように荒くない。
 この世は、人間の意識を含めて、10%の波動で成り立っている。動物も鉱物も植物も、すべて10%の波動で現象界が出来上がっている。だから、回転が遅い。思うこと、考えることの結果が、一定の時間をかけないと出てこない。それがまた現象界の救いになっている。

 しかし人はその為に、心を見失う原因にもなっている。この世は一見して、悪が栄え、善が日陰に縮こまっているようにみえる。正直者がバカを見、悪徳がのさばっている。
悪とは人のモノを盗む、人を殺める、人が困っていても見て見ぬふりをするなどであるが、その根本は、自己保存、自我我欲から生じてくる。

 悪の根源は自己保存である。
 人のことを構っていれば食べていけない、ということから、人は次第に、欲望の渦中にはまりこんでゆく。労使の闘争、物質至上の思想が幅をきかし、不安と競争が生活をエンジョイすると錯覚してしまう。こうして自己保存の悪は、人々の心をむしばみ、自己保存が文明の支柱のように見えてくるから不思議である。しかし、こうした人々が、この世では栄えているように見えても、あの世に行けば地獄である。この世は波動が荒いため、自己保存の悪はスグにはハネ返ってこないからだ。

 怒りや、ねたみ、心配事が重なると、血の循環を悪くし、食欲が減退する。感情が肉体に及ぼす影響は極めて早いが、知的な悪の反作用には時間がかかる。
男より、女に病人が多いのは、感情に心が奪われるからといってもいいが、知的な悪は、十年、二十年の長期を経て、ジワジワと自分に返ってくる。だから、こうした例は在世中に結果を見ずに終る場合が多いので、悪人志願が後を絶たないといってもいいかも知れない。

 秀吉という男は草履
(ぞうり)取りから、位人臣(くらいじんしん)を極めた。今日、秀吉の魅力は大分半減したようだが、それでも出世主義は男の生甲斐になっている。秀吉は謀略の名人で、敵対する者は、ことごとく殺し、我が世の春を謳歌する。しかし、その反動は死の数年前から現われ、彼は自分の悪を清算出来ず、あの世に帰った。人のうらみ、ねたみもあって、彼は地獄で、今でも苦しみ、暗い世界でまだ号令をかけている。ところが号令をかけると、在世中、憎しみをいだいて死んでいった多くの人々の呪いの顔が彼の眼前に現われ、彼を苦しめる。彼の謀略は、地獄では通じないのである。謀略の想念がスグ様自分にハネ返って来て、謀略で倒された人々の怨念が、彼の身と心を八つ裂きにするからだ。八つ裂きにされても、彼は死ぬことは出来ない。息を吹き返し、我にかえると、また彼は号令をかける。また八つ裂きに合う。こうした繰り返しの中で、身も心も細る生活を続けている。

 現象界では謀略によって、天下人になっても、あの世に帰れば、一転して地獄である。その地獄も、自分の想念と行為の清算のみでなく、人々の怨念がプラスされる。

 一方、歴史の上では悪の代名詞のようにみられてきた明智光秀は、神界にあって、自適の生活を送っている。殺された信長も、秀吉同様今以って地獄にあるのに、殺した光秀が神界に在るとは、誰しもげ解せぬであろう。殺された信長は権力の盲者であり、殺戮
(さつりく)に快感を覚える精神異常者であった。殺した光秀は平和主義者であり、このため信長を討つことに随分と迷う。しかし世の混乱のモトは信長にあり、逆臣(ぎゃくしん)の汚名を着せられても信長打倒に意を決し、本能寺を襲う。勿論、こう決心するには、秀吉の奸計(かんけい・よくない計画。わるだくみ)が裏で働いていた。彼は、信長に光秀謀反(むほん)を伝え、光秀には信長打倒を促(うな)がしている。光秀はこれに感づいてはいたが、敢えて信長打倒に踏み切ったのである。本能寺の変を知った時の秀吉の喜びようは大変であった。彼はこの時、天下人の夢を我がものにしたのである。謀略によって、戦国の覇者になっても、落ち行く先が地獄では間尺に合うまい。栄誉栄華の期間は短かく、地獄が何百年も続いては、どう転んでも計算が合わないからである。

 このように、この世に悪が栄えても、そうした悪は続くものではないし、
悪を犯した人々の行き先は、この世で結果をみなくてもあの世で清算させられることを知って欲しいものである。執着を離れたあの世の世界は、光明のつきることのない平和な楽土である。田園の緑は太陽の光を浴びて生々と育ち、人々の生活は、自由に、明るく、伸び伸びとしている。食生活に心を煩わされることもなく、仕事に追いまくられることもない。信頼と友情によって人々は結ばれ、科学者は科学を、絵画きは絵を、建築家は建築の仕事に、一心を傾ける。人によっては守護霊となって、現世に修行する魂の兄弟を守り導く者もいる。また指導霊になって、そうした魂の努力に応援をする人もある。あの世にあって、あの世の諸霊を、より向上させるため、正法にもとづいた政治、経済、教育、科学などを教える人もいるが、安らぎと慈愛の生活は、そのまま光明となって、いつまでも続いていく。光明の毎日が、尽きることがないのである。

 こういうと、人によっては、喜怒哀楽、善悪混合の変化のない世界はつまらぬ、という人がいるかも知れない。ところが、こうした世界でも、ちゃんと感情があり、変化があるのだ。感情や状況の変化は、地上のそれとは違った次元で存在し、あきたり、退屈するなど全然ないのである。もっとも、あきたり、退屈するような人々は、こうした世界に住することはできないが。

 さて次に無老死とは、年老いて死ぬことがない、亦無老死尽とは、老いることも、死ぬこともない、ということである。

 秀吉が死ぬことが出来ないのは、あの世というものは、実在の世界であり、心の世界でもあるので、苦しみの責めを受けても、死ぬことが出来ないのである。思うこと、考えることがスグ様現われ、そのことが何時までも続くのである。だから地獄に堕ちると大変だ。
 謀略策士の心が変らぬ限り、そうして、人々を泣かせた怨念が晴れるまで、秀吉の苦しみは続く。苦しみの連続だから反省ができない。誰しもそうであろう。ひどい腹痛や頭痛の際に、どうしてこうなったかと、反省できるだろうか。反省できる心の持主なら、そうした事態に見舞われることは、まず少ないだろうが。
 天上界の無老死、亦無老死尽も、これと同じで、調和された世界では、そうした状況の中で、老いることも、死ぬこともないのである。働きやすい年齢が、半永久的に続き、仕事も、能率も上がるのである。

 無老死、亦無老死尽は、主に天上界についていっているが、しかし前にも触れたように、地獄に堕ちた魂についても、その苦しみは果てしなく続く。これはあの世の世界が、実在の世界であり、思うこと、行なうことが、そのままスグ様現われ、しかもこの世と違って、全てが消えて無くならないように出来ているからである。この世は、肉体的に苦痛であれば、麻酔によって、その苦痛から逃れることも出来るが、あの世は、心のままの世界をつくっているので、その心を変えない限り、苦痛から解放されることがない。老いた気持が心を支配していれば、何百年経っても老人である。光子体の肉体は若さを取り戻すことは出来ない。ともかく、あの世は「心のまま」の世界をつくっているが、この世は、心と肉体の三次元の世界であり、無老死、亦無老死尽は、あの世の姿を端的に述べていることを知って欲しい。

 無苦集滅道は、文字通り、あの世の天上界は、生死の苦しみから解脱する正しい道を悟っているため、常に神の意識と通じ、調和されていて、迷いは無いのである。迷いのあるのは、あの世の地獄と現世の肉体を持った人間である。よくよく心しなければならない。

 無智亦無得
(むちやくむとく) 以無所得故(いむしょとくこ)
 天上界にあっては、才能によって得る所得、つまりは、地位や名誉や財産というものは、一切無い。神の子としての自覚と責任しかない。その自覚や責任も、無理無理そうするのではなく、当然のこととして現われてくるのである。

 自然法爾
(じねんほうに)という言葉がある。この意味は、法のままに生きる、ということであり、神の意識が、その、心に同通されて、無理なく行える心と行為を指すのである。
あの世、天上界もこれと同じであり、すべてが自然にそって生かされ、生きている。あの世の経済について大分類すると、大体、三段階ぐらいに分けられよう。

 第一段階は、純然たるバーター制である。欲しいものがあれば、自分の持物を相手に渡し、
       その相手方から求めるものを得る。
 第二段階は、この世の流通機構と、やや似ており、物々交換の媒体として貨幣(この世とは異なるが)
       が使われている。第一段階より、経済組織が複雑であり、この世的にいう文明は、
       現世より進んでいる。
 第三段階は、物々交換も貨幣も使われず、必要なものは何時でも得られる世界である。
       この世界は、いうなれば天使が住んでいる階層であり、心と物とが忽然と溶け合っている。

 無智亦無得という世界は、この中の第三段階を指し、したがって、智による所得を必要としないのである。地上でも、衣、食、住が十分であり、満たされておれば、金銭の欲望は起きてこないだろう。それと同じという意味ではないが、必要なものは何時でも得られるので、金銭的媒体物、あるいは物々交換の必要に迫られることがないのである。
 ここで、第一、第二の世界が、それぞれ物や金を対象としているので、この世の金が使えないだろうか、と思う向きもあろうが、次元が違うので勿論役立たない。「冥土の沙汰も金次第」というが、これはもともと貧に対する苦悩から出た言葉なので、問題にならない。

 実在界は、全て心の調和度にかかっている。調和度とは、神の心に適った心の状態をいうのである。

 神が地上の人類に望まれることは、右のような第三段階の世界の心に、人々の心が同通されることであり、五官六根に左右されない、正道に適った生活である。

菩提薩埵(ぼだいさった) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ) 
心無罣礙(しんむけいげ) 無罣礙故(むけいげこ) 無有恐怖(むうくふ) 
遠離一切顛倒夢想
(おんりいっさいてんどうむそう) 究竟涅槃
(くぎょうねはん)

 
とは、心にとらわれがない、ひっかかりがない、わだかまりがない、ということだ。だから恐怖の念がない。正道に反した、逆さまの物の見方、考え方がないから、神の心に通じ、もっとも偉大なる悟りに達している。それを菩提薩という。

 一切の諸現象は心から生ずる。丸く大きな豊かな心を有しておれば、恐れも、慢心も起きない。とらわれが多く、肉体の自分が自分であると思うから、苦しみ、悲しみがついてまわる。夢をみていてはいけないのだ。我々は白昼夢を見ている。腕をツネれば痛いし蚊にさされればかゆいので、つい肉体の全部が自分であると思ってしまう。 しかし、本当は、肉体の自分以外に、もう一人の自分がいて、その自分が肉体と一緒に生活しているのである。無情の現世をみると、誰しもが薄々感じられるのではあるまいか。

 
の心は、何も人間だけではない。導体に電気を流すと、その導体に抵抗が多いと電気のエネルギーは熱エネルギーに変わってしまう。電気の役を果たすことが出来ない。血管にコレステロールがたまると、血行が思うようにゆかず、血管が破裂したり、血液の流通をとめてしまう。

 万事がそのように出来ているのだ。
 自然は、私達人間に、神理を教えている。その神理を一つ一つ悟る必要があろう。

 究竟涅槃とは、表面的な解釈は釈迦の入滅を指している。つまり、不生不滅の状況を「涅槃」といっている。
現世からみると、入滅(実在界に帰る)は、永遠への回帰に違いはないが、本当は肉体を持ちながら私達の魂は永遠の中にあるのである。ただ現世は、肉体と共に魂があるために、極めて不安定な、そうして有限の迷いの多い、それのように思ってしまうだけである。

 釈迦は三十六歳で「宇宙即我」を悟った。悟ったとは人間の魂は不生不滅であり、死ぬことも、生きることも区別できない、そして、大宇宙と倶(とも)にあるということを知った。この時点で、釈迦は、涅槃の境涯をつかんでいたのである。四十余年後の肉体的な死が涅槃というのではない。ただし、三十六歳で大いなる悟りに達し、その後、その悟りの内容が次第に幅広く、深く、濃密になって、入滅の瞬間に人間としての全きを得たといえる。
 従って、この意味からすれば、釈迦の入滅は、人類が待ち望みながらも、容易に果し得なかった最高の悟りに達したといえなくはない。しかし普通の解釈は、肉体の迷いから、永遠の生命に帰られ、二度とこの世に生れることがないと考えられている。生命の転生輪廻を黙殺する。解らないためである。同時に、不安定な現世に対する人々の希望が、そう解釈し、そう解釈させて欲しい、と願うからでもあろう。何れにしても涅槃の解釈は、頭では割り切れない。物理的現象のみでは誤った方向にゆきやすい。心の問題は、心を本当に理解しないと間違いを犯そう。

 話しは変るが、大抵の人はもう二度とこの世に生れたくないと思っているだろう。あるいはそう思うことがあるだろう。これは、あの世の生活とこの世の生活に大きなズレがあるためであるし、10%の表面意識の自我にもとづく我侭
(わがまま)な心がそうした想念を生み出しているからである。したがって、魂の転生輪廻と聞いて、人によってはウンザリしている者もあろう。ところがあの世にいる魂のグループ、つまり魂の兄弟達は、そうは思っていないのだ。むしろ自分のためとして、現世におるその兄弟を守り、無事に修行を終える事を願っている。

 魂の前進は、現世に出て、はじめて可能だからである。あの世の修行は、先が見通せるだけ修行にならない。原因と結果が解ってしまうからだ。現世はそれが解らない。解らないから価値があり、魂の前進は人間である以上、避けることの出来ない天命といってもいい。




三世諸仏(さんぜしょぶつ) 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみったこ)
得阿耨多羅三藐三菩提
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
故知般若波羅蜜多
(こちはんにゃはらみった)
是大神呪
(ぜだいしんしゅ) 是大明呪(ぜだいみょうしゅ)
是無上呪
(ぜむじょうしゅ) 是無等等呪(ぜむとうどうしゅ)
能除一切苦
(のうじょいっさいく) 真実不虚(しんじつふこ)
故説般若波羅蜜多呪
(こせつはんにゃはらみったしゅ)
即説呪曰
(そくせつしゅわく)掲諦掲諦(ぎゃていぎゃてい)
波羅掲諦
(はらぎゃてい) 波羅僧掲諦(はらそうぎゃてい)
菩提薩婆呵
(ぼうじそわか) 般若心経(はんにゃしんぎょう)


 本誌の解説も今回で十二回を数える。もう一、二回で終えるが、本誌の読者はこれまでの解説で、大体おわかり戴いたと思う。あとは、これを生活の上に生かして行くかどうかによって、本当に理解されるか、頭の遊戯に終るかの分れ目になろう。

 さて、最後の解説に入るが、これを直訳すると次のようになる。

「三世の諸仏は、般若波羅蜜多に依るが故に阿耨多羅三藐三菩提を得ることができた。それ故、般若波羅蜜多は是れ大神呪なり。是れ大明呪なり。是れ無上呪なり。是れ無等等呪なり。よく一切の苦しみを除き、うつろなることのない真実のもの般若心経の神理を説くことにしよう。即ち呪を説いて曰く。掲諦掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆呵 般若心経」

 まず三世の諸仏だが、これは過去、現在、未来を通して悟られた、あるいは悟られる人びと、仏を指している。

 阿耨多羅三藐三菩提を古代インド語で発音すると、アーヌクターラーサンミヤクサンボデイーとなる。
漢字はこの発音に当て字したものである。この意味は、光明に満ちた金剛界あるいは無色界という光一色の世界、色のない世界、欲望のない世界、慈悲と愛の世界、如来の住する大天使の心の境地をいっているのである。
ボディーとは悟りの意で、ゴーダマが背にし瞑想に耽ったピパラの大木をとって「悟りの樹」、つまり悟り、菩提ということになる。
サンミヤクサンボデイーの三は、三という数はどこまていっても割り切れない数、無限大を意味する。三千世界、一念三千という言葉もある通り、昔の中国では三を取って、その大きさを表わした。三菩提とは、それゆえに「大きな悟り」「偉大なる悟り」ということになる。

 その偉大なる悟りを、是れ大神呪 是れ大明呪 是れ無上呪 是れ無等等呪 と賛美している。中国の表現は、見ようによってはオーバーだが、しかし釈迦の悟りはそれほど大きなものといっているのである。大明呪とは、偉大な智慧をいっている。仏智である。

 ここで知識と智慧について考えてみよう。

 普通はこの両者を混同しがちである。ところが、中身が違う。どう違うかというと、平たくいえば、知識とは今世で学んだものだが、智慧とは、過去世に蓄積された人生経験である。学者は智慧者かというと、そうではない。
学者に政治や実業をやらせたら、おそらく失敗するだろう。大きな組織の中で動いている時はいいが、一朝コトがあると判断を誤る。政治や実業というものは、理屈通りにゆかない場合が多いからだ。

 知識は私達の狭い日常生活における経験をある程度補ってはくれる。が、役立たぬことの方が多い。大学で学んだ知識、新聞や本で得たことを実生活に応用しようとすると、間違いや人との意志の疎通を欠くことがしばしばだ。私達の個人個人の一生における生活経験というものは非常に狭い。
 サラリーマンは、家と会社の間を往復し、商人は商売の筋道は解っても、人の商売の善し悪し、苦労は解らない。家庭の主婦は、家の中のことは解るが、外で働く夫のさまざまな経験は、想像は出来てもその範囲を越えることが出来ない。

 しかし何れにしても、実生活で私達がアテに出来て頼りになるものといえば、狭いながらも人生で経験した事柄であろう。経験ほど確かなものはないし間違いも少ない。智慧というものは、そうした経験して得たもの、過去世で蓄積したものが、私達の心の中に内在されているものである。そうして、その内在された生きた経験が心の窓を開くと、流れ出てくるのである。

 智慧は知識の範囲を超越している。私達の過去世は、王であったり、医者であったり、武士であったり、坊主であったり、農夫であったり、科学者であったり、文学者であったり、政治家であったりしたこともある。そうした人生の生々流転の経験が、心の窓をひらくことによって、現世における狭い経験を補ってくれる。
 問題にぶつかった時、何をどうずれば良いか。それは智識では得られない示唆に富んだ指示が得られる。その人の過去世がバラエティであればある程、あらゆる諸問題に対して、解決を与えてくれる。今世の経験が、仮りに商人であったとする。商売はあきずに商いすることだといった、ついこの間までのやり方では、今日では落伍するかも知れない。目先をきかし、政治や全体の問題に常に関心を払ってゆかなければ損をする。そうした時に、その人の過去世が政治や経済家として生きた経験があれば、その経験が、その人を導いてくれるだろう。

 要するに智慧というものは知識ではない。生きた経験の集積なのだ。そうした経験が、折りにふれ、縁に触れ、閃いてくるのである。人によってはもっと具体的に流れてこよう。

 では過去世で未経験の者はどうか。経験のない者は、いつの世でも泣いて暮さなければならないかというと、そうではない。経験のない場合は、経験のある人が、その人を指導してくれる。つまり、指導霊がその人の背後にいて指示を与えてくれるのだ。指導霊がつくには、それだけの努力と一念が必要だ。何もしないで、天から湧いてくることを願っていては、何も教えてはくれない。与えられた環境、立場に対して、精一杯努力するところから教えられる。また心の窓を開く、開かないについても、開いたから何んでも分かる、開かないから不明というものでもない。問題は、現実を怠たらず、努めるところに、智慧の泉を紐解くきっかけをつくるのである。

 よく悪知恵が働くというのがある。秀吉などはその最たる者だ。こういう場合は、悪魔が背後にいて、それを教える。蛇とか悪魔というのは、自分のことしか考えない。しかし才覚は働く。蛇にもいろいろあり、悪魔もさまざまである。病気をさせあの世に引き取るもの。殺人を犯すもの。人をおどし喜ぶもの、人を拝
(おがま)せ得々とするもの。才覚を働かし、威張りたがるもの。その種類は千差万別だ。
 本来の智慧はこうではない。正道に適った智慧なのである。人の心を豊にし、周囲を明るくし、互いに扶け合い、笑い合って、調和という神の意思に励む中から生れる。したがって暗さがない。明朗そのものだ。仏智の智慧は、過去世の経験された調和の集積であり、神の心に同通した全能の智慧である。

 釈迦は、三十六歳で悟った。悟ることによって、現象の奥に隠された一切の道理を知った。そうして、よどみなくあふれる智慧によって、多くの衆生を導いていった。三十六年間の経験だけではこうは行かない。偉大なる悟りを得、心の窓を開き、過去世の集積された経験と全能の智慧が、正法流布の大事業を完成させたのである。

 是無上呪
(ぜむじょうしゅ)とは、これ以上のものはないというのであり、是無等等呪(ぜむとうどうしゅ)は、釈迦の悟りは他と比較するものがない、という意味である。

 次に、能除一切苦 真実不虚
(のうじょいっさいく しんじつふこ)とは、生老病死という一切の苦しみから解き放たれ、それは中身のある真実なものなのだ、とここではいっている。

 釈迦の悟りは、余人は近づけない。経験しないものは分からない。分からないだけに、第三者はつい疑ってかかる。そこで般若心経は、その境地を、至る所で繰り返し述べている。本物はこっちだ。迷ってはいけない。釈迦の悟りとはこうだよと、その半分近くの文字は、悟りの中身をさまざまな角度から述べているのである。

 羯諦
(ぎゃてい)とは古代インド語でガーテというが、この意味は「岸」ということである。釈迦は、ガンガー(ガンジス)の河を背にして、よく説法をした。また、説法の中に、人間の苦悩と悟りを、河をはさんだ両岸をたとえて話した。

 中インドから北にかけて、文明が栄えた。古代でも哲学、文学、技術、科学の分野が進み、東西両文明に影響を与えている。ことに冶金、天文、医学、数学などの諸分野は、世界的水準に達しており、五世紀頃には代数が発達して、ゼロ、負数、二次方程式などが考案され、十五世紀には微分、累乗級数展開などが考案され、西洋文明に大きな影響を与えたのである。また舞踏や音楽なども、その一つであろう。ところが当時のインドは、カースト制度が厳しく、こうした文明に参画できる者は、ほんの少数の人々であったのである。
 このため、大部分の人は無学文盲であり、ゴーダマ・ブッタ(仏陀)は自然の状況をとらえて、説法していったのであった。またブッタ・ストラー(悟りへの道)は、大自然の法が目的であり、「自然と人間」との関係を明らかにするのが根本なので、学問に関係なく、誰にも理解できた。しかしもともと学問そのものも、「自然と人間」を知る手だてとして盛んになってきたものであり、芸術や文学も、自然や人間を、いかに客観的にその真実を表現するかにあるのであり、したがって学問があろうとなかろうと、人間であれば、ブッタ・ストラーは理解できるものであった。

 現在のインドは六月から十月が雨期に当たり、十一月から五月が乾期になる。三月から五月はいわゆるモンスーン気候といわれ、暑熱の時期に入るようだ。当時も、雨期ともなれば、ガンガー河は満水となり、対岸に渡ることができなくなる。人が住み、平地の多いこちらの岸は、雨期が半ば過ぎになると食べ物が少なくなり、食糧難に陥ってくる。対岸である彼岸は緑が多く、マンゴの実や他の果物が沢山なっているが、河が増水しているためそれを取りに行くことができない。ブッタは、それを例えて、こちらの岸を苦界と呼び、対岸である彼
(か)の岸を悟りの境涯として説いた。

 また河の水は深いところは静かに流れ、浅瀬は流れが激しく、ざわざわしている。人の心も、五官にとらわれると雑音が激しく、落ち着きがなくなる。深い心、つまり潜在意識に同通している人の心は、守護・指導霊の導きがあるので、諸現象の動きに惑わされることなく、平静であると説いた。

 クシナガラの地で、八十余年の生涯を閉じようとするブッタの下に、シュバリダというバラモン教出身の最後の弟子がみえる。その時ブッタはこういった。

「グリグドラクターの修行場は天変地異によって大きな亀裂を生じ、幾日も幾日も豪雨に見舞われた。その裂け目に雨水が流れ込み、河となった。片方の岸は広々と開けていたが、一方の岸は峻厳
(しゅんげん)な山にさえぎられ、逃げ場を失った動物達が右往左往していた。一匹の巨象が広々とした向こう岸に渡ろうとあたりを見まわしていた。巨象はしばらくたたずんでいたが、遂に裂け目に我が巨体を滑らせ、己の体を橋代わりにして、小さな動物達を救った。巨象は力尽きて、自らの巨体は裂け目の底に沈んでいった。
 いま、自分は四十五年の間、迷える衆生にいろいろと悟りの道を説いてきたが、さらにこの老体を足場として悟りの彼岸へ導いてやりたい」言い終わると、ブッタは静かに瞼を閉じた。ブッタは、最後の瞬間まで自然の中で生活し、人びとに慈悲を説いたのである。

 神の心は慈悲である。慈悲の心は衆生済度の心しかないのである。

 私たちは、地球という大神殿、つまり神の体のなかで生活している。地上という大地も、水も、空気も、陽の光も、私たちに生きるに必要な環境を、神は無償で提供している。この事実を知らなくてはなるまい。この事実を悟らなくてはいけないのだ。

 私達が欲望に振り廻される時は、公害、戦争という苦界に落ち込んでいこう。そしてなお目覚めなければ、天変地異となって、大地は怒り、人々に反省を促そう。本当は大地が怒るのではない。人びとの自我が、大地に震動を与えるのである。想念は、ものを生み出すことを忘れてはいけない。私達は神の慈悲によって生活ができ、その慈悲に感謝しなければならない。感謝の心を忘れ、報恩という奉仕の心をおろそかにするために、さまざまな苦悩が生じるのである。誰も彼もが、仏の慈愛一筋の心になることは難しかろう。しかし愛の心なら、誰しも理解できよう。愛も神の光である。助け合い、補い合い、許す心が愛なのだ。

 地上の生活は分業である。文明が進むほどに分業専門化が盛んになり、分業が盛んになると、いよいよ一人では生きられない。食べ物一つとっても、多くの人達のリレー作業によって、初めて食卓に上る。金さえ出せば何でも食べられる。という考えがはびこると、今、全世界の関心事となっている食糧と人口のバランスが崩れていこう。

 愛の出発は、男と女からはじまろう。男は生産的、能動的な仕事に、女は消費的な家庭を築いていく。もしも、一方にウエイトがかかり、男でなくては、または女でなくてはという考えが強くなれば、人類は百年と続くまい。男と女が、それぞれの特質を生かし、助け合い補い合っているから、人類は滅びることがないのだ。

 神は一夫一婦を望み、その中で調和という心の安らぎを求めるよう意思されている。家庭は社会の原型であり、人間生活はそうした家庭から育まれる。

 愛は、まず、男女の助け合う感情からはじまり、家庭に、隣人に、社会に、人類に、発展していくものである。男と女が、立場が逆さまになり、女が生産的な仕事に就いていくと、社会は混乱してこよう。男と女では、転生輪廻の生活経験がまるで違っており、一時期の、ものの考え方で、経験の乏しい者が経験を必要とする仕事につくことは、もともと無理がるからだ。またこうした考え方が生ずるのも、ものの見方が五官や自我に根ざしているために起こって来るといえるようだ。

 神の意志は調和である。中道という安らぎを人類に求めている。もしもアダムだけが存在し、エバがいないとすれば、調和という助け合う愛の行為は成就できまい。
 調和は、個性を持った複数の関係が生じた時からはじまるのである。また一切の生物は、そうした複数の中で育ち、環境を調和していくものだ。神が与えてくれた自然という慈悲の環境は、私共に愛の助け合いを促している。

 神の慈悲に対して、私共がそれに応えることを愛というのである。
愛の行為は誰にでも出来よう。何故なら愛の環境の下で私達は育ち、生きて来たからである。
愛は地上という横の光ならば、慈悲は神の無償の縦の光である。
人びとの心が、縦と横の十字に交わるときに、永遠の悦びを知ることが出来よう。

羯諦羯諦
(ぎゃていぎゃてい) 波羅羯諦(はらぎゃてい) 
波羅僧羯諦
(はらそうぎゃてい) 菩提薩婆訶(ぼじそわか) 般若心経(はんにゃしんぎょう)

「岸だ、岸だ、向こうの岸に到達するのだ。仏弟子達が向こうの岸へ到達し、悟りに達すれば、すべてが調和され成就する。調和の姿こそ般若心経なのだ」

 仏弟子というと特殊な階級を意味するが、本来は、地球人類を指している。特殊な修行をし、行を積まなければならないというものでは本来ない。行を積むという意識は、人間が長い転生輪廻の過程において積み重ねた業があるために、神の子の自分を忘れた考えから生ずるそれが言わしめるのである。

 彼岸とは、神の子のふるさとである。そのふるさとを忘れているのである。
 正法は誰のためでもない、皆自分のためにあるのだ。

 仏教というと堅苦しく、難しいもののように聞こえるし、実際に中国を経て来た経文を見ると、確かに何が書いてあるのか解らない。解らない筈である。そのほとんどは梵語が漢字の当て字になってしまったため、文字の解釈を追及すると何をいっているのか、迷路にはまり込んでしまうからである。
 しかし、仏教とは釈迦の説いた教えであり、それはまた自然の成り立ち、理法をいっているのであり、求める心さえあるならば、どんな人でも理解できるものである。
 肉体人間は欲が深く、つい目先のことにとらわれるために、本来自分のためにある仏教、正法を理解しようとせず、これから離れていってしまう。
 喜怒哀楽は人間だから当たり前、人間だから病気もする、人間だから悪いこともする、聖人ばかりになったらこの世は味も素っ気もない、という見方をする人がいるが、いったい人間とは何か、である。こういう考えでは動物になってしまう。動物は本能のままに生かされているので、それなりの生き方が与えられ、コントロールされているが、人間は考える能力を持ち、自由意志が与えられているために、こうした生き方をすると、ズルズルと動物以下になり下がってしまう。

 一つの家庭で悩みがない、という人は比較的少ないのではあるまいか。経済的に恵まれている家庭は子どもがいないとか、夫婦間がバラバラとか、子供がグレて手を焼くとか。一見平和に見える家庭でも、ひと度その家の中に入ると、いうにいわれぬ問題をかかえているようだ。しかしそれも人生、あれも人生ということで、その場その場でツギハギし、見て見ぬ振りをして、その日その日を送っているのが大半の人びとのようである。人間は生活の歯車が曲りなりにも回転している時は、なかなか正法に入りずらく、縁にふれてもおざなりになってくるようだ。しかしひと度、生活の歯車が土台から揺れ動くと、こんどは血眼になって慌てふためく。
なぜだろう。欲が深いのだ。もともと・・・・・・。
欲の深さは、何でも手にいれたいというのもあれば、現状に甘んじ、自己陶酔に陥るのも同じことである。自己陶酔、自己満足、現状に甘んじるというのは、偽我(ぎが)が強いからそうなるのである。

 偽我とは、本来の自分でない自分である。
 本来の自分は善我であり、それは神の子の自分である。

 神の子の自分に立ち帰れば、正法の絶対性と中道の神理については、否も応もなく、これを生かした生活をしなければ、その反した分量だけ苦しみを味わう、ということを知るはずである。悟りの彼岸は誰のためでもないのだ。みんな自分のためである。

 自分を悟れば、この地上界は慈悲と愛によって成り立っており、調和の姿は神の姿でもあるので、愛、慈悲の行為を顕現
(けんげん)してゆかねばならないということが自覚されてくる。そうして、己の幸せを他に及ぼして行くというのが正法なのだ。

 ゴーダマ・シッタルダーは、それを説いた。
 当時の仏陀は、主に慈悲を説いた。慈悲とは仏の心だ。慈悲は至高の大宇宙の心である。
 本当の慈悲の心を理解できる者は、ホンの少数の限られた人達だったようである。ただし当時は、心の中はともかくとして、形の上にそれを表わそうとすれば比較的容易に行えたようである。インドの人たちは布施心も強く、野や山は食べ物が豊富にあったので、サロモンとしての修行も容易であったし、欲望に打ち克ち、人びとに救いの手を差しのべることもできた。しかし、自己を宇宙に拡大し、神の心となって、人々の心の中に仏を呼び起こすことのできた人はプッタしかいなかった。

 プッタは、今まさに涅槃に入らんとする時、弟子の阿難に答えてこう言った。
「私がこの世を去ったとしても、私を思えば、私はその人の心の中で生きている」と・・・・・・。

 神と仏は、この大宇宙に、そして人びとの心の中に、生き通しの大光明であり、絶対にして唯一つの大生命であり、言葉を変えれば、それは慈悲そのものであったのである。

 慈悲は、法であり、大自然であり、万生万物に調和を与える神の大生命であった。

 釈迦滅後、五百年の後に、イスラエルにイエス・キリストが愛を説いた。人びとは釈迦が説いた慈悲の心を本当に理解することが出来なかったからといえよう。これを理解できる者は、釈迦在世の時代でも僅かだったし、時が経つにしたがって、次第に形骸化されてきたからでもあった。

 イエスは愛を説いた。イスラエルという地は愛を説かねばならぬ土地柄でもあった。インドと違い、砂漠が多く、緑が少ない。支配者と被支配者が雑居し、被支配民族は、その日暮しの生活であった。貧しい多くの人たちは、明日に希望もなく、救世主を待ち望んでいたのである。そうした環境の中で人々を救うには、相互扶助の愛を説かねばならなかった。地上に人類が増え、限られた土地で多くに人間が生きていくには、相互に扶け合う、人類はみな兄弟という愛の行為しかないのである。

 愛の教えは今日、全世界に伝わり「聖書」は、かくれた永遠のベスト・セラーになっているのも、もとはといえば愛の行為は人間的行為に帰着するからであった。

 愛の心、愛の行為ならば、誰でもできよう。この地上界は、いろいろな魂を持った集団社会である。男女の別、能力の別、体力の別・・・・・・。すべてが相対的であり、さまざまである。そうしたさまざまな魂が、共に同じ場で修行し、調和という神の意思を顕現
(けんげん)してゆくには、扶け合い、補い合う協調協力の相互関係を欠くことはできない。自分さえ良ければよいとするエゴイズムは、地上界の人間を含めた、与えられた慈悲の環境を破壊するものであるからだ。

 釈迦が遺した仏教が今日、東洋の限られた人々にしか伝わらず、イエスが説いたキリスト教が全世界に広まったのも、慈悲の心は神に直結し、近寄り難いし、愛はもともと地上の光であり、横に広がる性質を持っているからである。

 慈悲も愛も、ともに神の光であることには変わりはない。
 しかし肉体をまとった人間にとって、どちらが親近感を覚えるかといえば、愛であろう。

 慈悲といい、愛といっても、その本質を知って、その通りに生きている人は少ないといえよう。人がこれを実行しようとすれば、恵み与えることの出来る自分を、まずつくらなければなるまい。慈悲は神仏の心だとして、盲目的にこれを為そうとすると、自分が苦しくなり、周囲に波紋を起こすことさえ出てくる。
 さきにもふれたように、年老いた巨象は多くの小動物を天変地異による洪水から救うために、自らその巨体を岩の裂け目にすべらし、橋代わりとなって小動物を対岸に渡らせる。渡り終えると巨象は力尽き、裂け目深く沈んでいった。巨象のこうした行為は慈悲の心を知り、自分を悟っていたから出来たのである。巨象以外の他の小動物がこうしたことをしたいと思えば、あたらその生命を裂け目に落とし、その悲鳴に、かえって混乱を巻き起こしたに違いない。

 この地上界は、相互作用の働きによって成り立っている。植物は動物のために、動物は植物に。草食動物は肉食動物に身を供養し、肉食動物は植物が枯れないように、絶えず死と隣り合わせに生きている。人間だけが植物や動物、あるいは鉱物資源を勝手放題に使ったり、食べ散らかしていいというものではない。自然界の循環は、全てに渡って適用され、それは他を生かすことによって成り立っている。しかし動物、植物の自然界は、巨象のように法を悟って為されているわけではない。このため、相互作用のバランスを、しばしば失い、植物も動物も絶滅寸前に追い込まれることすらあるのである。

 人間は万物の霊長なので、こうした不調和な状態にならないよう、慈悲の心、そして愛を持って、調和の範を示してゆかなければならないのである。
それには神理を知った想念と、自覚された行為が自然に出来るように、反省と中道の生活を送るように努めなければなるまい。こうすることによって、やがて巨象のような慈悲の心が広がり、多くの人々を生かす自分に到達できるのだ。

 愛の本質も慈悲の心と変らない。愛も人々を生かす行為であるからだ。助け合い、補い合い、許し合う寛容の心は神の心だ。自分にあるものを他に与え、人びとの喜びを喜びとする調和にある。
仏の慈悲、神の愛を求める人は少なくない。仏教は経文をあげ、キリスト教は祈りがすべてと考えられている。ところが仏教もキリスト教も、自ら助ける者に与えられるのだ。
今日、あらゆる宗教が他力に変貌し、偶像崇拝という神仏と人間を切り離した信仰が広まったがために、神仏は、人々に救いの『めぐみ』も『心の安らぎ』も与えることが出来ないでいる。他力信仰が勢力を張り出してくると、偽りの神が人々に憑き、ますます混乱した信仰形態をつくり出してゆく。

 仏教もキリスト教も、もともと一つなのだが、全世界に分布されている仏教、キリスト教の教え(分派)は何千何万に及んでいよう。新興宗教といわれる宗団の経典は、大抵は仏教、キリスト教の教えを食いちぎり、他のものと混ぜ合わせ、もっともらしくつくり変えている。それでは真の安らぎも、救いも与えられようがない。

 神理は自力である。神の子の自力に生きている者に、神仏は慈悲と愛を与えて下さる。
自分が中道に適ってくると、神仏は、その者に智慧を与え、霊力を与え、奇蹟を与えてくれよう。そうして他の縁遠き者をも、救える慈悲、愛の行為が自然に行えるようにして下さるのだ。

 般若の境涯は、五体の人間では考えられないような、想像を越えた悦びの世界である。
巨象の行為が自然に行えたのも、その魂は三次元を越えて、安らぎの境地に、常に住していたから出来たのであった。

 転生輪廻の繋縛
(けいばく)から解脱し、大宇宙に生き通しの自分を発見し、人びとに慈悲と愛の光を与えることのできた人を仏といい、如来ともいい、神の使者ともいうのである。
般若心経は、それを語り、仏智の偉大さ、悦びを述べている。

本稿で般若心経の解説を一応終えることにする。




あとがき

 十五回にわたって、さまざまな角度から解説を試みて来たが、般若心経は全文二百七十六文字から成り、経文の中でも短い方に属していよう。しかし、その書かれている内容は、悟りの中身であり、悟りとはこういうものだと説明している。その説明の仕方はそれこそ、これでもか、これでもかと、くどいように説明している。これは漢文の性質上そうならざるを得ないのであろう。

 例えば ・・・ 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是 舎利子 是諸法空相 と書いて、そのあと不生不滅からはじまって、以無所得故まで。ここは是諸法空相の説明といっていい。したがって、是諸法空相で終わってもこれらの説明は導き出せるものだ。

 もっとも諸法空相については主観的体験なり、あの世の説明ができない場合は、空相を「無」と見てしまい、すべては無いと考えてしまう。そうでなくとも、不生不滅などの説明があっても色即是空の空を「無い」としてしまう人もあるのだから、人の『意』が加わると、とんでもない方向に解釈が進んでしまう。

 同じ中国から伝わった仏教用語でも「諸法無我」(しょほうむが)「諸行無常」(しょぎょうむじょう)「寂滅為楽」(じゃくめついらく)は、僅か十二文字にすぎないが、これらの言葉は深遠な神理を端的に表現しており、漢文でなければ、こううまくは、まとまらないと思われる。

 私は仏教のことは全くの素人であり、解釈の仕方も仏教哲学を学ばれた方々とは違うかもしれない。しかし文字も知らない当時の人たちに説いたプッタ・ストラー(神理)は、主に方便をもってしたが、衆生が理解できないようなものは一つもなかった。そうした意味で、私は私なりに、解説を進めてきたわけである。もし私の解釈に異議のおありの方があれば、そのお説をお聞かせ願いたいものである。

 般若心経は「般若波羅蜜多」の内容、つまり悟りの中身を述べているが、ではどうすればそれに到達できるのか、ということについては触れていない。書かれた動機が般若の内容にあったようだが、やはり目的に至る手段も書いて欲しかった。そうすれば般若心経の中身は一段と光彩を放ち、解釈も在来のものとは大分違ってきたと思う。在来のものは、文字にとらわれ、解説者の意によって進められる。心の問題は、頭では理解できないものだ。何故かといえば、心は次元の異なる世界に属し、その世界を体験し、心と肉体の相関関係を理解しなければわからないからである。

 解説はそうした意味で、悟りの中身以外に、手段についても折に触れ加筆してきたが、般若心経の文面だけでは、こうした解釈は出てこないであろう。

 日本に到来した経文の数は非常に多いと思うが、何れまた機会をみて、これ以外の経文についても解説をしてみたいと考えている。

- 完 -


高橋信次先生著 「原説般若心経」も併せてお読みください。― 三宝出版 発行






 
現代の釈尊高橋信次師と共に―5

  舎利子が語る真説般若心経講義  園頭広周先生 著書 より



なぜ経というのか

 お経はお釈迦様の教えを書いたものを「経」というのであるといって、誰も「経」の意味を解釈していない。「経」をなぜ「経」というのであるかというその意味を理解することは大事なことである。「経」をなぜ「経」というかというその意味がわかったら、お経は何べんでも余計に読誦した方がよいとか、写経しなさいとかいえない筈である。

「経緯(けいい)」という言葉がある。
「いきさつ」、「次第を立てて治めととのえること」という意味もあるが、普通に多く使われているのは、「たてとよこ、たて糸とよこ糸」ということである。地図上で位置を示すのに「東経○度、北緯○度」という。本来は「たて糸とよこ糸」ということで、織物を織るのにはまず「経(たていと)」をしっかりと歪まないように張って、その「経(たていと)」が上下する間を「緯(よこいと)」を通して締めるわけである。「緯(よこいと)」は少々切れても使えるが、「経(たていと)」が切れたらその反物は使いものにならない。「経(たていと)」は切れてはいけないし、代わりもない、それはそのままに真直ぐに歪みなく張られていなければならない。
そういうところから、宇宙の永遠に変わらない、絶対に変わってはならない神理(法)、変わるものは神理(法)ではないので、その永遠不変の神理が書かれてあるものというので「経」とつけられたのである。

 だから「お経」というものは、そのなかにどういう神理(法)が示されているか、ということを知るためには読まなければならないが、書かれてある神理(法)がわかったら、それを日常生活に実践しなければいけないのである。
 だから「般若心経」も、読誦したり写経したりしないで、書かれてある神理(法)を実践してゆかなければいけないのである。毎日実践してゆくと、執着を断ち、苦しみから離れ、心の不調和がなくなり、心の曇りが晴れ、偉大な神の慈愛の光に包まれている自分を発見することができる。

 一人一人が心の中につくり出したスモッグはどうしたら消えるであろうか。公害は人間がつくり出したものである。題目や念仏を唱えたり、お経を読んで、そうして祈って公害がなくなるであろうか。公害をなくするには、どこの会社が公害を出しているか、その発生源を調べて、そこが出さないようにしない限り公害はなくならないであろう。
それと同じように、その人が自分で心の悩みをつくり出しているのであったら、その人が、どうして悩むことになったのか、その原因を反省して、心の持ち方を変えない限り、その悩みはなくならないであろう。だから自分では何もせずにいてただお願いをすればいいという他力信仰では絶対に救われることはないのである。

 正しく神理を悟っていられた私の師高橋信次先生は、
 「般若心経に示されてある神理を知って、心と生活を正しくする以外に悟る道はない。般若心経によってご利益を得ようと読誦することは、発声練習と自己逃避、自己満足にしか過ぎない。仏陀はそうせよとは教えていない」といわれたのである。

 私達の心の中には、転生輪廻してきた過去と、そうしてこの世に生まれてからのすべてが記憶されているのであるが、心に不調和な思いを持ち、不調和な行為をすることにより心に曇りを生ずると、自ら神の光を閉ざしてしまい、過去世で体験したあらゆる智慧を思い出すことが難しくなってくる。
 それを思い出すためには、一切の執着を断って反省し、足ることを知り、八正道を実践して正しく生きることを誓うことである。そうすると心の窓が開かれてくる。

パニャー パラー ミター、即ち仏智に到達する心の教え、内在された偉大な智慧に到達する、即ち到彼岸の境地に到達するためには、まず過去のことをよく反省して、「いつ死んでもよい」という心境になって生活を正しくすることである。
 この智慧の宝庫を開かせる道が教えてあるのが、この般若心経である。

- 以上 -





2013.06.25 UP ・・・ 高橋信次先生 37回目 の命日に寄せて
             ・・・ 
心行を拝読し禅定実施





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