高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








八正道 ・・・・・   正見正思正語正業

         正命 、正進 、
正念 、正定




 七、正念 ・・・ 正しく念ずること

            




1.人間釈迦より 【 全文 】

 しかし今夜は、この問題は後にゆずり、「正念」について考えていった。
 念は願いである。念のない人生、念のない生活はあり得ない。人は今日よりは明日を思うから生き甲斐が生まれるのであり、明日のない人生は死を意味しよう。今日に生きる者は強者だが、人間は、死の瞬間まで希望を託して生活していくものだ。その希望が自己本位に傾くと人との調和が崩れ、自分自身も立ってはいられない。念のあり方も調和という中道に適ったものでなければならないし、「正しき念」は無制限に発展する欲望をコントロールし、足ることを知った、人生の目的を自覚した願いでなくてはなるまい。
 ここで念と祈りについて考えてみよう。
 念も祈りもともにエネルギーの働きから生まれる。
 ものを考える、思うことが出来るのは、人間の五体の中に、そうした創造能力を生み出すエネルギーの働きがあるから可能なのである。睡眠中は、こうした能力は働かない。これは、エネルギーの休息であり、同時に、エネルギーの補給のために、人間は、睡眠中に、次元の異なる世界に旅立つからである。
 魂というと、否定する者もあろう。しかし、魂のない人間は一人もいないのだ。魂とは個性を持った意識をいうのである。睡眠は、魂と肉体との分離であり、このため、グッスリ眠ると鼻をつままれても、地震が起きても、わからないのである。目がさめるとは、魂が肉体に入ることである。考える、思うことは、肉体がするのではなく、魂を形成しているエネルギーの働きがあるから、可能になってくるのである。
 念も祈りも、個性を持った魂の働きによって行われる。念は、人間の目的意識を現わした働きである。誰々と結婚したい、出世したい、事業をひろげたい、老後の生活を安定させたい、子供が素直に育って欲しい、というように。
 人間である以上、こうした目的意識を持たぬ者は一人もいない。目的意識があるから、文明や文化が育ち、社会生活がエンジョイされてくる。
 ところが人間は、肉体を持つと、肉体にまつわる想念に支配されてくる。自己本位になってくる。これは俺のものだ、人に構っていると生きてゆけぬというように、争いのモトは、こうした自己本位の想念、つまり、そうした目的意識を持った念の働きが作用するために起こってくる。
 そこで人間の目的は、調和にあるのだし、調和とは、助け合い、喜びをわかち合うことなのだから、人間の目的意識も、ここに焦点を合す必要があるのである。
正念は、こうした調和という尺度を通してなされるものであるし、正念の次元は、それゆえ、非常に高いものになってくる。
仕事について考えると、仕事そのものは、社会に、従業員に、家庭にたいして、その生活を保障し、うるおいをもたらすものだ。仕事に忠実であることは、正念のあり方に適ってくる。このことは、主義や、主張や、社会制度に関係がない。社会主義であろうと、資本主義であろうと、仕事に忠実に打ちこんでいく態度は、そうした制度とは本来無関係であるからである。問題は、それによって生み出された利益、収入をどのように使っていくかによって、それぞれの念の在り方がどのようなものであったか、ちがってくる。つまり欲望を満たす自己本位のためだったか、それとも、その利益を家庭に、従業員に、社会に還元するためだったか。
足ることを知った念の在り方は、人間は自己本位に流れやすいので、正念を生かす一つの尺度として、必要なことなのである。
正念の在り方、生かし方は、こうした足ることを知った考え方を踏み台にして、昇華してゆくものである。
つぎに祈りについて考えてみると、祈りは感謝の心を表わし、その心で生活行為をしていく思念である。
人間は、一寸先闇の中で生活している。明日がわからない。いつ災難がふりかかり、あるいは喜びごとがあるかも知れない。隣の人が今、どのように生活してるかもわからない。そうした中で、健康で、楽しく、明るく生活できることにたいして感謝する気持ちが湧き上がって来たときに、私たちは祈らずにはいられない気持ちになるものだ。しかし、通常は、願いごとに終わっている。神社仏閣にいって、こうして欲しい、ああして欲しいと手を合わせる。
正しき生活行為、つまり調和に向かって努めているときには、その願いごと、祈りはたいてい叶えられる。正しき「祈り」は、次元のちがったあの世の天使の心を動かし、その願いを叶えてくれるからだ。この意味から「祈り」は天使との対話であるといえる。奇跡は、こうした「祈り」によって起こるものである。
人間生活にとって、「祈り」のない生活は考えられないし、独裁者が自分以外の人間のこうした思念を押さえようとしても押さえることはできない。
ただこれまでの「祈り」は、我欲のそれに使われ、祈っておればタナボタ式に、なんでも叶えられると思われている。念仏を唱えればうまいことがある。祈っておれば救われるという風に考えられてきた。そんなものではないのである。
こうみてくると念は、目的意識であり、創造活動の源泉であり、祈りは、生かされている感謝と報恩の心、進んでは神との対話であるわけである。そうしてそのどちらも、エネルギーという力の波動によって為されていることが明らかになったと思う。





2.心の指針より 【 全文 】

 念とは、思い願う、エネルギーのことです。
あれが欲しい、これが得たい。あの人と結婚したい、こういう仕事をしたい……、というように。
つまり、念には常に目的意識が内在されています。
目的のない人生は、漂流した船が大洋にさまよっているようなものです。
思うこと、願うことは誰しも抱くものであり、そしてそれは自由ですが、足もとをみつめた目的をもつことが大切です。
正念の在り方は、調和にあります。就職、結婚、育児、仕事、諸事全般にわたって、常に己を知り、その目的が、神の心である調和、愛の行為に適ったものであるかどうかを、正しく見ることです。
適った物であれば、それに向かって努力することです。
念を抱くと、たいていの場合、それに応じたものが返ってきます。
念は、物を引き寄せるエネルギーを持っているからです。
しかし不相応な願いや、しっとや、憎しみ、足ることを知らぬ欲望を抱くと、目的が適う前に反動がやって来ます。
念はエネルギーであり、そのエネルギーは、必ず自分自身に返ってくるので、正しい目的ならばいいが、そうでないと大変なことになります。
念は魔術師です。
科学が未発達の時代には、祈りや念によって、敵を倒すということが行われました。事実、そうしてことが流行した物です。
念の力で大石を空中に持ち上げ、大木をたおす。風を呼び、雨を降らせるといったような術が行われていたようですが、こうしたことは本来、邪道です。しかし、人間の中にたくわえられたエネルギーは、大きな山を動かすことも可能ですし、それは神が大宇宙を創造されたように、人間もまたそうしたことが出来るように仕組まれています。
それほど人間は偉大なのですが、反面、邪の道に念力を使うと地獄に堕ちるしかありません。私たちは常に、念を正しく使うことが大切であり、そうしたときに、守護・指導霊が力を貸し、より偉大な、平和な仕事が成就できるようになるのです。





3.心の発見 神理篇より 【 全文 】

 現代宗教の多くは、ただ祈ることのみが、念ずることだと思っている傾向がある。
経文というものは、拝むための道具ではない。経文の中に書いてある意味に、私達の眼は向けられなければならない。
特に仏教は、むずかしい哲学化した経文を上げることが、一つの勤行と化している。
これは大きな間違いである。その中の意味にこそ意義のあることをなぜ悟らぬのであろうか。ありがたいお経だと思ったなら、その経文の文言の意味を実践するところに、意義のあることを悟らなくてはならない。
亡くなった人々に、お経を上げることによって功徳があると信じていることは大きな間違いなのである。なぜなら、もしこの世を去った人々の霊がその経文の意味すら分からないのになぜ功徳があるか、ということを考えてみることである。
ただの観念論ではすまないことを知らなくてはならない。読者は自分の分からない言葉で相手から語られて、その理解が行きとどくであろうか。
人間は、現世での生活状態、心で思っている状態を持ち続けながらこの世を去って行くものであって、死んでしまったら即座に仏になるのだというならば、そのことを説く人々が実際に分かってそのような説明をしているのだろうかと、疑問を持たずにはいられない。物理学で言う慣性の法則を考えてみることである。あの世にも慣性の法則があるのだ。ここでいうそれは、現代の意識を持ったまま、次元の異なった世界に循環して行く死者は悟るには時間がかかるということである。
読者の中にはそんなことは分かるはずはないと反論する人々があるかもしれない。しかし私達は、即座にその事実の状態を現象化することが出来るのである。
これは事実であり、そのままの姿とその当時の言葉使いで、その人の特徴で、その関連の霊と語る状況を、疑問のある人には証明することが出来るのである。
それは、その人の生活をしてきた念を、そのまま持っている事実であり、人間として正しい生活をした己自身を知っている霊以外は、地獄にいることを私達ははっきりと見ることも語ることも可能だからである。
それだけに私達は、正しい心の在り方を悟り、神仏に祈ることもただ自己保存の祈りではなく、感謝の念を持ちその心で実践する中に、より以上の力を神仏から得られるのである。
私達の心の中で念ずることが即現象化されるのであり、たとえば自分が欲望を果たそうと念ずる心はすでに欲望のとりことなる、という想念になり、自分の意識に記録されてしまう、というふうなことである。その記録を修正することはできない。
私達が歩んできた過去を消すことができないように、私達の想念は、すべて記録し保存されることを忘れてはならない。しかし不調和な念も、反省することによって、私達の心は進化するのであるから、反省のない人々は哀れである。反省は、神仏が人類に対するために与えた慈悲なのである。
また、神社仏閣に参詣することはその人の自由であるが、神仏はその人に対する幸・不幸の責任は持たないということを知らなくてはならない。正しい心の念と行為が、幸・不幸を造り出すのである。
正しい念によりその行為が神理に適っているならば、私達に協力してくださる指導霊 や守護霊達は必ず神の光を与えてくれる。またこの地球そのものも神体の一部であり、大神殿であるから、正しい念は必ず通ずる。
神社仏閣は、将来人々の心の修行所、神理を学ぶ場所と変わり、また多くの人々の娯楽の場と変わって行くであろう。
現代の神社仏閣の中には、霊域の高い場所もあって、実在界の諸天善神が常に連絡所として一念が現象化される場所もあるが、そのような神域ははなはだ少ない。従って神社仏閣はどこでも霊域が高い所だ、と信ずることは危険であり、かえって不幸を呼びこむこともあり得ることを悟らなくてはいけない。
正しい念を持っている人々は、必ず神仏の光によって保護され、他のよからぬ不調和な霊に支配されることはない。
多くの人々が今まで、神とか仏とかいっているのは、実在界の天使達のことなのである。然し、天使も心の調和度によって段階があるということも悟らなくてはならない。また、天使達のほかに不調和な世界があるということも知らなくてはならない。
私達の想像は無限大である。しかしその想像も正しい調和のための想像でないと、正念とはいえない。間違った念によって己を失う場合があることを知るべきである。
その証拠には、不自然な新興宗教や不調和な仕事に専念している人々に、果たして心の安らぎがあるであろうか。自己の心の中に小さな枠をはめて常に格闘を続けているため、不幸になっている人は少なくないのである。
人間は生き神さまになどなれるものではない。
神仏の心と調和することは、自分自身の正しい念と、行為以外にはないのである。
神は己の心にあり、と知らねばならない。





4.心行の言魂より 【 抜粋 】

 正しく念じないとはどういうことでしょうか。
正念の反対は邪念です。邪念とは自分の都合だけしか考えない自己本位の想念であり、欲望の想念です。
欲望の想念が激しければ激しいほど、この地上界は混乱してきます。足ることを知らない欲望はたがいに相入れないエゴとなり、エゴは自分本位の我であるから相互協調は非常にむずかしいものとなります。
念の方向が自分本位であればあるほど苦悩が多く、心に業(カルマ)をつくります。人々の心に業が多く生まれると、真実とニセものの区別がわからなくなり、地上は末法となってゆきます。
思うことは念によって具体的な行為になります。
たとえば、どこどこの学校を受験したいと考える。しかし、自分の実力からしてA学校はむずかしい。ではBにしようか、Cにしようかと思案します。この段階では、思うこと、考えることが心の中だけの話で、まだ行為にはなっていません。ところが、あれこれ考えた末、Bに決定したとします。すると当人は、Bに向かって進んでいくでしょう。つまり、受験準備という行為が始まるわけです。念の働きは、B学校に決めた、という意志の決定なのです。
すなわち、念というものは、こうしよう、ああしよう、こうありたい、という目的意識であり、意思の決定であり、行為である、というわけです。
念によって、私たちは、心の中で思うこと、考える事の創造行為を具体的に形に現わしているわけです。
人の思いは、あの世に通じ、人の心にも通じます。しかし、ふつう、人に通じないのは大抵は外に気を取られ、それをキャッチしても、打消すか、忘れるか、仕事に追われているからです。
しかし、思うことを、念を通じて心に強く働きかけますと、相手によっては通ずるものです。怒りや憎しみ、嫉妬に念は、具体的にはキャッチできなくとも、その念を発した人に道で出会うと、なんとなく敵対視してしまう、というのがそれです。ところが、そうした念波が発せられても、こちらに何もなく、慈愛の心に満ちていると、敵対視の心は湧いてこず、その念を発した人はかえって気まずい思いにかられてゆきます。
このように念というものは、具体的な意思決定とそれに伴う行為とであると同時に、念そのものの働きによって他に作用を及ぼします。
念はエネルギーであり、心の中の創造行為を形に具象化して行くものです。
また、一度発した念波は、一秒間に地球を七回り半もまわる光以上の速さで自分に返ってきます。つまり、リンネします。善念は善念として返り、悪念は悪念として、もとの発信者に返ってくるのです。
ですから、常に安心した境涯を毎日の生活の上に望むならば、自分さえよければ外はどうでもという自己保存の念を改め、他を生かす、助け合いの、愛の想念、中道の法を、ます、心の中に確立させることです。
思うこと、念ずることは、万生万物の創造の根源であり、仕事を為し得るエネルギーでありますから、これを正すことがなにをさておいても重要であるといえます。
人の幸、不幸の分かれ目は、心の中の思うこと、念ずることによって決定されて行きます。
また、想念は、カルマをつくってゆきますから、そのカルマを越えてゆくためにも、左右に片寄らない心の在り方が重要になります。
中道の想念は、慈悲と愛、そうしてそれは調和というバランスがとれた状態をいうわけですが、中道の極致は神の心であり、法でありますから、ここまで人の心が昇華しますと、人は苦楽のカルマから本当に解脱する事が出来ます。
ところで、ときおり、こういう質問をうけます。
思うことは現われる、念ずるとその通りになるというが、私は金が欲しいと日ごろから思い念じているが、さっぱり、金が貯まらない、これはどういうわけか、というのです。
お金が欲しい、金を貯めたいという欲望は大抵の人がそれを思い念じています。念は人によって強弱がありますが、みんなが同じものを念じますと、その念はぶつかり合い、交錯してゆきます。そうして、やがて交錯した念は、強い念に弱い念が吸収され、強く念じた人に集まります。つまり、それを望む念の強いところに金は集まってくることになります。
お金が集まるもう一つの理由は、人にはそれぞれ今生での目的があります。それは本人の今生での意思とは関係なく働きます。今生の目的が経済的問題よりもむしろ人を救うことにあるとすれば、その目的を外れた意思をいくら強くいだいたとしても、お金は集まらないということになります。
こうした意味から念の作用は、その人の今生での目的と合致したときに、もっともよくその効果を現わし、最大に発揮されます。金が集まらないと愚痴をいう前に、人も欲しがるお金(お金は有限)を集めれば、集めただけその反作用もあるということを考えてください。いっときの悦楽を求めることと、長期間にわたる苦悩を考えるならば、一定限度しかない物を奪い合う愚かさに気付くと思います。
一事が万事、何事によらず、このように考えていけば、念の作用はどのようなものであり、念はどのように使えば正しく行使できるかということが、おわかりになったと思います。





5.園頭広周先生著 心行の解説 下巻より 【 抜粋 】

 人間の幸、不幸の分かれ目は、心の中で思うこと、念ずることによって決まる。
念はエネルギーであり、心の中で想像したことを、形の上に創造してゆく力である。
神は自ら、思うこと、念ずることによって万生万物を創造されたのであり、神がこの宇宙をこのように創造しようと思われたことが、物質宇宙という姿になって現象化されたのであり、神のその創造の原理を、人間はそのまま与えられ持たされているのである。
神は天地万物を、陰陽の原理によって創造されたと同じように、思うこと、念ずることも二つに分かれる。

    / 善、正、 明、高貴、他を生かす ー 良い運命
 念
    \ 悪、不正、暗、卑賤、自己本位 ー 悪い運命

 人間は このような二つのどちらかの想念を持つ。善でもなければ悪でもない。正しいのでもなければ、正しくないのでもない、その中間だという考え方はないのである。善と悪、正と不正の間で人間の心が揺れ動くわけであるが、この揺れ動く、判断に迷う時間が多ければ多いほど、その人はなんにもできずに不幸になることになる。
だから幸福になりたい人は、善なることに、正しいことに、明るい方に、パッと決断して実行するという習慣をつけることである。そうすると運が向いてくるのである。自分だけよければよい、という自己本位の想念は自分を不幸にし、他を生かす慈悲と愛の想念は自分を幸福にする。

念はあの世にも通じ、人の心にも通ずる。念は祈りであって、人が何かを念じているということは、常に何かを祈っていることである。多くの人は、神仏の前に座って、一定の時間、祈ることだけが祈りだというように考えているが、日常不断に思っていることも祈りなのである。だからその人の幸、不幸は、その人が一日二十四時間の内に、よい想念と悪い想念、明るい想念と暗い想念と、どちらの想念が多かったか、少なかったか、ということによって決まってくるのである。

ある人の事を思う時、その心はその人に通じているのであるが、その人が他のことに気を取られ、それをキャッチしても打消すか、仕事に追われているかなどして気づかないのである。

念の速さは、光以上の速さである。善念は善念として返り、悪念は悪念として返る。だから、常に安心した生活をしようと思うならば、自分さえよければよいという自己本位の想念を改めて、他を生かす、助け合いの、愛の想念、中道の法をまず、心の中に確立させることである。
中道の極致は神の心であり、法であるから、そこまで人の心が昇華すると、人は苦楽のカルマから解脱することができる。

念は、その人の今生での目的と合致したときに、もっともよく聴かれる。人間は輪廻転生しながら魂を磨いてゆく。一回の生まれ変わりの短い時間で、すべて魂を完全に磨くことはできない。一回の生まれ変わりによって磨かなければならない魂には限界がある。それぞれ目的がある。その目的に適った祈りは実現するが、適っていない祈りは実現しないのである。

念ずるのに美辞麗句を並べる必要はない。神はその人の心を見られるのであるから、どんなに美しい言葉を並べて祈っても、その心に嘘があればその祈りは実現しない。言葉は少なくても、心に誠があればその祈りは必ず実現する。
キリストが、「かくれたるに在(いま)す汝らの父に祈れ」と教えられたのは、誠の心をもって祈れということである。
もしかしてその祈りは、自己中心の自己満足の祈りであるかもしれない。そういう場合は、キリストが「御心の天になるが如く」と祈られたように「それが実現することが神さまの御心でありましたら実現させてください。もし、御心でありませんでしたら実現しなくてもよろしいです。」という祈りを最後にしなければいけない。
念が通ずるために、祈りが聞かれるために、更に大事なことは、調和を目的として、まず、やれるところから実践することである。実践は何一つせずにして、ただ座って祈るだけでは祈りは聞かれない。実践せずに祈る祈りは欲望の祈りである。実践してこそ、その誠心が神に通ずるのであるから、実践のない祈りは聞かれない。

念ずるとは、ただ単に思う事だけではいけないので、具体的な意思決定とそれに伴う実際行動である。念はエネルギーであり、創造行為の源流であるから、その創造行為が具体的な形をとらなければならないのは当然である。


目に見えないものは「ない」というが、心は目に見えないではないか。「念」とは「今の心」と書く。念ずるとは、今の心が思うことでありそれが祈りである。だから祈りを離れた生活はないのである。

正念とは潜在意識の底から継続的に間難なく起こってくる想念のことであり、「心の底からのまことの願い」である。特に気まぐれに思うのは単なる願望にしか過ぎない。願望と正念とを混同しない事である。

一ぺんにはできないかも知れないが、二十四時間をすべて神への感謝と報恩で満たすことである。神へといっても実際は、自分を支えてくれる周囲の人々に対して感謝し報恩することである。一日二十四時間、あなたは明るい心でいた時間と、暗い心でいた時間と、どちらが長いか。

 「思わない」ということは、思わないのではなくて、「思わないという一つの思いである」ということがわかれば、われわれは、自分の想念を、悪の否定の方向にふり向けず、絶えず、善の高低の方にふり向けなければならないということがよくわかってくる。と同時に、われわれは後退し停止することなく、絶えず、前進的でなければならないということもわかってくる。
 「無」になろう、「空」になろうとすることは思考を停止することである。
日本の他力信仰をしている人たちは、拝めば救われると聞かされてそこで思考が停止してしまって、「では、なぜ拝めば救われるのか」ということを考えていない。
 正念は、一貫性、継続性があるが、単なる願望はムラ気でバラバラである。単なる「願いごと」が実現しないのは念の法則に反しているからである。
 われわれの想念を絶えず神に、善にふり向ける。そのために禅定はするのである。


 - 完 -



2015.04.26 (日曜日)UP