高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








八正道 ・・・・・   正見正思正語正業

      
正命 、正進 、正念 、正定




 五、正命 ・・・ 正しく生活すること

            
・人生の目的と意義を知った生活
           ・自分を正し、業(カルマ) の修正を図る





1.人間釈迦より 【 全文 】

 「正しい生活」とは、人生の目的と意義を知った生活であろう。人間の生活は、大自然が調和されているように、調和にあるはずだ。助け合い、補い合い、笑いのある生活でなければなるまい。それにはまず己自身の調和をつくってゆく。自分の長所をのばし、短所を修正してゆくものだ。自分が円満になれば周囲もまるくなるはずである。自己をみつめる厳しい態度をはずして、正しい生活はあり得ないものだ。





2.心の指針より 【 全文 】

 正命とは文字通り、正しく生活する事です。正しい生活を送るには、まず自身の業(カルマ)の修正、短所を改めることです。
人間は誰しも、長所と短所の両面を持っています。長所と短所というものは、光と影のようなもので、性格が片寄ったときに、長所が短所になり、短所が長所に変化します。
信長は非常に気短かな男だったようです。しかしその短気が決断となって現われたときは、神出鬼没の戦術に変化し、戦国の世を生き抜く絶大なエネルギーになったようです。
このたとえはあまり感心しませんが、長所と短所というものは紙一重であり、それは、紙の表と裏のようなものといえるでしょう。
そうした紙一重の性格をどうすれば長所に変えることができるか、あるいは長所とは何か、短所とはどういうものか、となりますと、短所は自分の心をさわがし、人の心をも傷つけるものであり、長所は、自他ともに調和をもたらす性格といえるでしょう。
長所を伸ばし、欠点を修正することによって、自身の想念と行為はもとより、自身の周囲を明るく導くことができるでしょう。
私たちのこの世の目的は、この地上に仏国土・ユートピアをつくることです。それには正しい生活とを営まねばなりません。正しい生活は、まず自分自身の調和からはじめねばなりません。自分自身が調和を保たなければ、自分の周囲も調和に導くことは出来ません。
欠点を修正するにはどうするか。それには第三者の立場から、自分の心を、毎日の思うこと考えること、行為を、反省することです。





3.心の発見 神理篇より 【 全文 】

 私達に肉体は、人生航路を渡る舟であり、この船の支配者は意識すなわち魂である。この魂は、神仏の子としての本性であり、私達は神の体の中にいるのである。この現象界において、永い転生輪廻の中で造り出してきた業(かるま)の想念は、私達の意識の中に記録されている。それを、神の子としての正しい想念によって調和することが修行なのである。
 業想念とは、私達が常に心の中に想像している不調和な自己保存、自我我欲の姿であり、過去世においても持ち続けていたものである。それは、行為につながって行くもので、自身が反省することによって見いだすことのできる欠点である。また調和もできるものなのである。
 人間は、眼耳鼻舌身意の六根によって惑わされる。過去世の悪い業の種も、そうした惑いから起きる。心は私達の肉体を支配している意識の中心で、自己には絶対に忠実であり、嘘をつくことはできない。ところが人間は、他人には都合が悪いと嘘をつく。そうした自己保存によって、より大きい業を造り上げてしまうのである。
 私達は、眼で見た現象面のみで判断をくだしてはいけない。正しく見る心の修行、そうした構えで、的確な判断をし、中道の考えの中から出た調和の心によって結論を出すことが必要なのだ。
 たとえ人の噂を耳にしても、自身でその原因と結論を判断するような生活が必要であり、肉体の五官のみで判断してはならない。肉体的な諸現象のみでは、正しい生活をすることはできないのである。
 正しい神理に適う、各人の心の悟りが社会集団を構成し、その中から調和のとれた相互関係が生まれてくるのである。正しい生活の中で、対人的な嘲笑や、恨み、妬み、そしり、怒りなどの思いは滅せられて行く。大自然の無限の慈悲に対しての報恩の心と行為が、平和な安らぎの光を、人々の上に現象化して行くのである。
 神仏は、万象万物を、すでに人類修行の場として与えているのであるから、祈るよりは感謝の生活を具現することが大切なのである。己自身の魂が、実践行為による努力をしない限り、神理に適った修行はできない。すなわち修行は、一秒一秒の連続の中の正しい生活の中に存在していることを悟らなくてはならない。
 神社仏閣に行って神仏に祈ることが信仰ではないのだ。祈りの心を持ち続けることが本当の信仰心であり、神仏の心を己の心として生活する中に初めてこの心の尊厳を悟り、心の眼が開かれ、観自在の力を発揮することができるのである。
科学者が科学を通じ、芸術家が芸術を通じ、文学者が文学を通じ、スポーツマンがスポーツを通じて得た神理も、神に通じるものであり、そうした生活の中で人間らしく調和されてこそ本当の神理であることを悟らなくてはならない。
 学問化した哲学的宗教は実践に乏しい。神理を悟らずに座禅をしても、煩悩を滅するために肉体行をしても、無意味であり、神理を悟って実行する中に本当の生活がある。
 その神理は、自分自身の生活環境の中に存在しているのであり、その姿こそ本当の信心である。
 生活と結びつかない信仰は、すべて宗教としての存在価値はない。それは、正法を悟っていない人々の行為といわねばならない。
 すべて不幸の原因は己自身にあり、生活の不調和がもたらしたものであリ、責任は他にはない。その原因を追究し、その根本をとり去る、心の反省の中から前進があるのである。
 毎日の生活が調和された中には、常に神仏の光によって保護されるものである。そしてそこには不幸は訪れてはこない。それは、正しい生活の実践の中に積み重ねられて行くものなのである。





4.心行の言魂より 【 全文 】

 正しい生活は、右にも左にも片寄らない中道にあります。中道とは仏教でいう色心不二です。色心不二の生活は、調和ある精神的、肉体的生活を意味する。人間の生活は、そのどちらに片寄っても不調和になってしまいます。 たとえば、煩悩を滅却したいとして肉体業に打ち込み、滝に打たれ、断食をし、己の肉体をないがしろにすると、やがて健康を損ない、自分の心をも見失ってゆきます。自分を失うとは魔に犯され、普通の生活ができなくなる事です。
 肉体行は、精神のみにウエイトを置き、肉体を無視するところにあります。しかし、その精神についても正しい精神のあり方がある、正法を基準としたものではないので、それ自体にも問題があることはもちろんです。また、精神を無視し肉体中心の生活に比重が傾いてきますと、今日のような混乱した社会ができ、家庭も、人とのつながりも瓦解してゆきます。
 では正しい生活とはどうすればよいものか、
 それは八正道の目的である中道を物差しとして、己の業(カルマ)を修正し、中道に適った生活をするということです。
 業は私たちの性格、性質の上に、その人の短所という形で現われています。人の短所は自分自身にも他人に対しても、よい結果を及ぼしません。怒り、愚痴、優柔不断、独善、気取り、強欲、中傷、そねみ、粗野、多弁、排他、増上慢、引っ込み思案、自閉、出しゃばり、憎しみ、怠惰・・・。こうした性格は自分自身を孤立させ自分の運命を不幸にして行きます。正しい生活は、まず自分の短所を長所に変えていくことから始まります。長所とは、明るく朗らかで、素直であり、人と協力し、助け合い、補い合ってゆく調和の生活です。人間はみなこうした心を持ち、そうした性格を持っているのですが、環境、教育、思想、習慣などの影響を受けてさまざまな業を作り出してしまっています。業が身につくと、業自体が回転を始めるため、怒りの場面にぶつかると、習慣的についカッとなってしまいます。つまり、業というものも常にリンネします。”わかっちゃいるけどやめられない”というのが業なのです。人の欠点の三分の二は今世のもの、残り三分の一は過去世の業といってもいいでしょう。したがって三分の一の業は、反省してもなかなかその原因をつかまえることがむずかしいものです。しかし、今世の三分の二の業が、これらの影響をうけて働いていますので、その三分の二の業を修正する事によって、修正することが可能です。己の欠点を正す事は、己の安心につながる事であり、己の心が安心し明るくなれば、自分の周囲も明るくなります。正しい生活は、こうして、まず自分自身から修正して初めて可能なのですが、それには八正道の規範である「正定」による正しいい反省が重要になってきます。中道に反する生活は、すべて自己保存という想念行為が原因であり、自分中心のエゴ、原罪にあるわけです。原罪とは肉体五官による六根、迷い、煩悩にあるのですから、まず六根を清浄にする反省の生活が、自分の業を修正することになります。このように正命の目的は、精神的、肉体的な調和をめざし、業と化したさまざまな原罪(自己保存の想念)を正すことにあるわけです。





5.園頭広周先生著 心行の解説 下巻より 【 抜粋 】

 人生の目的を知ること
 「正しい生活」とは、人生の目的と意義を知った生活である。われわれは、なんらかの目的を持って生活している。目的をもたないで生活している人は一人もいないであろう。人間は夜が明けると働き出す。なんのために働くのであろうか。食うためか、金のためか、家をつくるためか、名誉か、権力か。なんらかの目的がある筈である。

 大自然は調和されている。人間は大自然と調和し、人と人と調和し、そのために、お互いに助け合い、補い合って、明るく笑い合って生活してゆかなければならない。

 過去世からの三分の一の業の原因はなかなかはっきりつかめなくても、その業の傾向性は今生にも必ず出てくるものであるから、今生でつくった三分の二を反省してゆけば、過去世の三分の一も自然に修正されてゆく事になる。自分の欠点が修正できると、心が広く明るくなり、「やれた」「やった」という魂の充実感を感じて心が安らかになる。心が安らかになってくると、自然に周囲も明るくなる。周囲の人も変わってくる。こうして、正しい生活は、それまでに習得したよいことを、どしどし積極的に実践して前進してゆく中で、自分自身の業の修正を図ってゆくことである。反省ということで多くの人が間違いを犯しやすいのは、欠点、業の修正にばかり気を取られて、よいことをどしどし実践して前進することを怠ることである。

 「愛はすべてを浄化する」「愛をもってすれば、人をも生かし、自分も生きる」。正命(正しく生活する)の目的は、精神的、肉体的な調和をめざして、業と化したさまざまな自己保存の原罪を、いかにして正してゆくかにある。
 人間は、いろいろな業を持って生まれてくる。長所もあれば短所もある。長所は伸ばし、短所は修正してゆかなければならない。

 業というのは習慣性であり傾向性であるから、「金に対してはどうか」「女に対してはどうか」「地位・名誉に対してはどうか」などと人間が過ちを犯しやすい事象について反省をしてゆくことであり、今生でのあり方を正しく修正すればよいということになる。

 右に左に揺れ動く心の中で霊は向上し成長してゆく。自分で自分をほめ、自分で自分を叱る。心が定まるまでは(不動心を得るまでは)心は揺れ動く。八正道の中で「正命」、正しく生活するとは家庭生活のことが中心となる。

 生活を明るくする秘訣は、まず与えられている恩に感謝する事である。神の恩、自然の恩(まず呼吸が出来ること、それは空気があるからである。水もなければ生きられない。まして太陽がなければ生きられない。人間が生きてゆくのに必要な自然は、われわれが生まれてくる以前に既に準備されてあったことに感謝する)、先祖の恩、親の恩、夫(妻)の恩などと、感謝しようと思えばいくらでも感謝することがある。ところがそれらの物を、皆当たり前だと思って感謝しないで、悪い所だけ、不満足な点だけを見つけて探し出しているから人生が暗くなるのである。

 正しい生活は足ることを知った、物や金に、そうして周囲の人々にも振りまわされ気がねしない生活の中で、自分を修正し、その修正したことを実践していって、自分の魂が向上してゆく手応えを味わいながら生活して行くことである。中道に反する生活は、すべて自分中心の自己保存の心からである。だから、正命の目的は、精神的、肉体的な調和をめざして、悪い業となったものを修正して善に変えてゆく生活である。


 - 完 -



2015.04.26 (日曜日)UP