高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








八正道 ・・・・・ 正見正思正語 、正業

        正命 、正進 、正念 、正定





 三、正語 ・・・ 正しく語ること





1.人間釈迦より 【 全文 】

 「言葉」にしてもそうだ。

 ヒョウタンから駒が・・・・・・という古人の経験的な教訓は、一面の真実を語っている。

 相手を見下す言葉、野卑な言葉を使っていると、いつしかその言葉に自分の心まで犯され、相手の心を刺激し、争いの原因をつくる。

 言葉は言魂であり、生きた波動である。謙虚な言葉、いつくしむ言葉、優しい言葉、勇気ある言葉、思いやりの言葉など、正しく語ることの重要性は、人間が社会生活を営むかぎり、絶対に欠くことのできない要件の一つである。





2.心の指針より 【 全文 】

 言葉は言魂といって、相手に伝わります。ですから表現された私たちの言葉は、相手の耳を通して不調和か、調和か、いずれかの現象を生じさせるものです。
 言魂とは、光と音の波動を意味します。
 私たちの心、肉体は光から出来ています。音も波動も、また、光の波として空間に振動して行きます。
 心からの言葉は、そのまま、光の波動となって伝わってゆきますが、すぎたお世辞や、横暴な語り方は、光の波動に黒い塊を付着させているため、相手の心を傷つけます。傷つけた結果は、自分にはねかえってくるのです。
 ですから、言葉は、素直な心で、相手の心になって語り合うことが大切です。語調の強い言葉は、相手の心に不調和を与えるだけです。
 売り言葉に買い言葉で、町中や電車の中で口論している人がよくあります。たがいに、黒い塊を発散させ、それを食べ合っている。心に黒い塊をつくり出し、拡大させています。こうしたことを年中やっていますと、病気や怪我をします。心がいつも不安定になっているからです。
 相手が怒鳴っても、決して反発をしてはいけません。反発は自己保存であり、反発する前に、自分を第三者の立場で見、考えてから結論を出しても遅くはないからです。
 怒った心は怒った人の心に帰って行くものであり、これの心を動かしてはなりません。
 第三者の立場に立って反省し、いわれなきものであれば「哀れな人だ」と相手を思いやればよいのです。そして、「神よ、あの人の心に安らぎを与えてください」と祈ることです。
 言葉は自分と相手の意志の交流です。
 それだけに、常に調和ある言葉を心掛け、調和ある対人関係をつくるようにしなければなりません。
 言葉は、人によって受け取り方がちがって来ます。お年寄りに英語を交えたり、若い人に古い話を持ち出し、長々と語られると戸惑ってしまします。
 「人を見て法を説け」なのです。





3.心の発見 神理篇より 【 全文 】

 語るということは、言魂となって、相手に伝わるということである。表現された私達の言葉は、相手の耳を通して不調和か調和か、いずれかの現象を生じさせるものである。
 すぎたお世辞や、横暴な語り方は人の心を傷つける。その原因は、結果となって自分にはねかえってくる。言葉は、少なすぎても多すぎても、自分の意志を正しく人に伝えることはできない。
 良く自分の心に問い、自分が相手の心になって語り合うことが必要である。強い言葉は、相手の心に不調和を呼ぶものである。
 良く自動車の運転手などが怒鳴り合っていることがある。かりに相手が怒鳴っても、自分が正しいと第三者の立場で考えてから結論が出ても、反撥をしてはならない。
 反撥の心は自己保存であり、自己中心の考え方である。このようなときこそ、正しく語り合わなければならない。争うことは、不調和な原因を作り出すことになるからである。
 相手が怒っても、善悪をよく判断して、心を動かしてはならない。正しい納得の上で心を調和することである。怒った心は怒った人の心に帰って行くものだからだ。
 そのように、「語る」ということは、自分と相手の意志とが交流することなのである。優しい言葉から受ける感じと、はげしい語気でいわれたときの感じでは非常に異なるものである。やはり受ける、与える感じの良い方法の中に調和は生まれてくるのである。どのような誹謗もそしりも、怒りも、心を動かさずに聞き流してしまえば、その言魂は、不調和な言動者に帰るということだ。
 しかし、なぜそのようにいわれるのかということも、反省しなくてはならない。もしいわれる原因のないときは「哀れな人だ」と相手を思いやれば良い。そして「どうか神よ、あの人の心に安らぎを与えてください」と祈ることだ。その心はすでに菩薩心の現れなのだ。





4.心行の言魂より 【 全文 】
 通常は、思うこと、考えることは言葉になって伝わります。言葉は言魂といって、光の波動であり、光の粒子ですから、その粒子を黒い想念で汚してはならないのです。
 怒りで感情がふくれ上がりますと、言葉はつい荒くなり、相手にも悪感情をいだかせることになります。つまり、光の粒子に黒い想念を付着させるからです。それ故、正思を根底にして語ることの重要性がわかります。言葉が足りない、言葉がすぎる、というのは、しばしば感情が入るからです。また誤解や不信が生じるとすれば、それは心の底に慈愛がないからです。慈愛を根底として言葉を発するようにしていけば、誤解や不信というものはおこらず、仮に、不足の言葉があったとしても、相手が補ってくれることでしょう。そうした経験は、おそらく誰もがしていると思います。言葉は、意思の疎通に欠くことのできない重要な機能ですが、心に愛があれば言葉以前の言葉が相手に伝わり、こちらの意思が正しく伝わって行くものです。





5.園頭広周先生著 心行の解説 下巻より 【 抜粋 】

 正思は、相手の立場、相手の幸せを考え、調和を目的とした思いが大事であると同じように、正しく語るというその根底にはどんな時でも相手の幸せを祈りながら語るということが大事である。
 日本では昔から言霊(ことだま)という。言葉に霊があるというのである。言葉は相手の耳に達して、それによって相手は調和か不調和か、なんらかの感情の変化を起こす。
 言葉には二種類ある。
  一、想念として心の中にあるだけで、まだ口には言葉とならない言葉、心の思い。
  一。口に発する音声としての耳に聞こえてくる言葉。
 心に相手の幸せを思い、口に相手の心を調和させ、相手を発奮させる言葉を発すること。
 心の中ではそうは思っていなくても、口先だけでうまいことをいうお世辞が、相手に不愉快な思いを起こさせるのは、その思っている心の波動が伝わってゆくからである。

 神は大調和であり、人間はこの地球を調和させるために生まれてきているのであるから、どんなことがあっても調和と反対の争いを生み出すような言葉は使ってはならないし、そういう行動をしてはならないというのが、人間の言動の規準であるということを忘れてはならない。

 言動の規準は調和を乱してはならないということにあるのであるから、心の中ではウマが合わない、波長が合わないと思っていても、相手の心を傷つけてはならない、相手との間に不調和をきたしてはならないということで言葉を選ばなければならないのは、それが「智慧」というものである。

 自分が正しいと思って発言したことが相手の怒りを買ったとしても、自分が腹を立ててはならない。相手に腹を立てさせないもっと上手ないい方はできなかったのかを反省することである。
 自分にいっていることが正しいと思っていても、相手が腹を立てた時は、相手の平和な心を乱してしまったということを心の中で謝り、すぐさまその人の幸せを祈ることである。
 そうするとその心が即座に相手の魂に通じて相手も感情的になったことを即座に、また少し時間が経つと必ず反省するものである。
 相手からいわれたことが、いわれなきものであれば、この人は偏見を持っているなとか、理解が足りないなと思って相手を思いやればよい。そうして「神よ、あの人の心に安らぎをお与え下さい」と祈ることである。
 人と人が意志を疎通するのは言葉によってである。それだから、常に調和になるための言葉を使い、調和ある対人関係をつくり出すように言葉を使うことである。

「叱る」と「怒る」とは、口に出てくる言葉は同じであったとしても、その言葉の奥にあるのは、一方は心の底から相手の幸せを願う心であり、他方はただ憎むだけだということの違いである。この違いは大きい。一方は調和と善を生み出すが、他方は不調和と悪を生み出す。叱ることには愛があるが、怒りには愛がない。

キリスト教の「創世記」の始めに、「神、光ありといいたまいければ光ありき」という即ち、神の想念が言葉となって現れてきたという考え方と同一である。
言葉が生みだされる以前の言葉とは想念である。だから、言葉を正しくするためには想念を正しくしなければいけない。
心の中に描く想念と、使う言葉が正しいものであって一致した場合は、その言葉は幸福な運命となって現実化してゆくが、想念と言葉とが正しくなく、また一致しない場合は不幸な運命となって現れる。病気だ、不幸だという人はその想念と言葉の違いをよく反省してみることである。
言葉は波動である。耳に入る言葉と、その言葉の裏にピタッとくっついてくる心の思いの波動がある.どんなにきれいな言葉を使っていても、その言葉にピタッとくっついてくる心の思いが悪いと、聞く人の心は波動が荒くなり不快さを感ずる。いっている言葉は多少ぞんざいであっても、その思いが謙虚でやさしく思いやりがあり、励ましの勇気のある思いであると、その言葉は快く感じられる。

言葉を正しくするということは礼儀を正しくするということであるが、同時に言葉は誠実でなければならないということである。
調和を目的とし、調和を生み出す言葉は正しいが、その反対に、人を争わせることを目的とし不調和を生み出す言葉は正しくない。

沈黙の尊さ・・・・・・お釈迦さまが竹林精舎にいられた時、つぎのように教えられた。
「比丘たちよ、そなたたちが集まっている時には二つのなすべきことがある。
一つは、法について語り合うこと。
二つは、聖なる沈黙を守ること」

正しく語るということは、しゃべるべきでない時は正しく沈黙するということをも含んでいるのであることを忘れてはならない。
家庭は、神が定められた魂の修行の基本的な場なのであるから、正しく語ることの訓練もまず家庭で行うことである。

八正道が、正見、正思、正語・・・という順序になっているのは、この順序が想念を具象化する順序であるからである。
「正しく語る」ということが行われないと世の中では、人間は幸福にならない。


 - 完 -



2015.04.26 (日曜日)UP