高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








八正道 ・・・・・ 正見正思 、正語 、正業

        正命 、正進 、正念 、正定





 二、正思 ・・・ 正しく思うこと





1.人間釈迦より 【 全文 】

 「正見」につづいて、「思う」ことについても中道の尺度は必要だろう。

 思うことも、自己中心になると人との衝突はさけられまい。思うことは具象化するからである。

 親愛の心を持って人に接すれば、人もまたそれに応えてくれるだろうし、食べ物も、食器も、家も、着物も、テーブルも、橋も、馬車も、すべて「思う」ことから出発し発明化している。

 それゆえ、思うことが自己本位に流れると、人と人との調和を崩し、争いの種をまくことになろう。





2.心の指針より 【 全文 】

 思うとは、考えることです。見る、聞く、語る、の行為の中には、正しい中道の神理をもとにした考えがなくてはなりません。自己本位の考え方は身を滅します。すべては相互に作用し、循環の法にしたがっているため、自己保存の想念は自分にかえってくるからです。
 思う、考えることは、行為につながりますから不調和な思いは、想念のフィルムに抵抗をつくり、その抵抗は、自分の意識や脳細胞までも狂わせてしまいます。
 私たちは、毎日に生活の中で、自分だけよく思われよう、楽をしようと考え、他人のことを考えなかったりしますが、これは自己保存の我欲につながっていることを知るべきです。
 自己主張も自分にもどるのです。競争相手をケ落そうなどという思いは、あの山彦に似て、己にかえってきます。「馬鹿野郎」といえば、山彦もまた「馬鹿野郎」と、自分の声で帰ってきます
 思う、考えることは、創造行為でもあり、自己の運命をよくしたいと思うなら、まず。正しく思うことをしなければなりません。
 不調和な思いを持てば、黒い想念の抵抗を自らつくり、苦しみを多くするだけです。相手を陥れて不幸にしようと思う心は、自分の落ち込む穴を掘っているようなもの。「策士、策におぼれる」の類であり、「人を呪わば穴二つ」であります。
 また情欲の連想は、心の中で、行為につながります。夢とかあの世の生活では、思ったこと、考えたことが、その結果として、ただちに現れます。現象界においても、心の中で思ったことは、形に現れずにはおかないものです。思うことは行為の前提であるが、実は、行為そのものである、ということを知らなくてはなりません。
 昔から姑と嫁の争いを聞きます。姑が嫁にきびしいことをいうと、嫁はたび重なる叱言に心から嫌な姑だ、早く死んでしまえば良いと思うようになってきて、そうなると心の黒い想念は現象化され、表面は姑に合わせ、口ではうまいことをいっても、嫁の心にひびくものは、姑に対する憎しみとなり、やがて爆発し、争いになってきます。
 子でない、親でないという、お互いのそうした感情が、姑と嫁の関係をいっそう面倒にしています。それというのも、双方の腹の底で、たがいに、よく思われたい、思う通りに家の中をしてゆきたいという自己保存から抜け切れないために、諸々の問題を引き起こしてしまうのです。
 正思の重要なことは、正見と同じように、第三者の立場に立って考え、思うことです。
 相手の立場、相手の幸せを考え、調和を目的とした思いが大事なのです。
 誤解や行き過ぎはあらためればいい。話し合って、理解し合うということが調和の大きな前提なのです。
 話し合ってもうまくゆかず、自分の非がどうしても認められない場合は、相手のために祈ってやる広い心が必要です。
 正道の目的は〝心の安らぎ〟であり、心の中が、思いが、いつも不安でジメジメしていてはなんにもなりません。
 相手に通じなければ、広い心で相手を包んでやることです。
 もう一つ大事なことは、我慢と忍辱です。この両者は似ているようで大いにちがいます。我慢とは苦しみ、悲しみを腹の中につめこむことです。自分さえ我慢すれば家の中がまるく収まる、として我慢に我慢を重ねてしまう。我慢は病気をつくります。
 忍辱とは、耐え忍ぶことですが、苦しいことを腹につめこまない、話しても相手がわからなければ、相手の心の安らぎを、調和を神に祈るという、広く、高い心をいうのです。
 私たちは忍辱を学び、我慢を捨てることです。
 正思を養うには、これまた反省です。今日一日の考え、思いは正しかったか、正しくなかったかを反省し、過失があれば訂正してゆくことです。
 こうしてやがて、中道に適った正思を、心の中に確立することが出来ます。





3.心の発見 神理篇より 【 全文 】

 思うということは、考えるということである。見る、聞く、語る、という行為に対しても、まず正しい中道の神理をもとにして、考えなくてはならない。自己本位の考え方は、身を亡ぼす結果を生じるからである。神理である大調和の法則に反するからである。
 思うことは、行為につながる。心の動作である。だから不調和な思考は、想念のフィルムに抵抗を造ってしまい、その抵抗は、自分の意識や脳細胞までも狂わしてしまう場合がある。
 私達は毎日の生活の中で、自分だけ良く思われようとする心を動かしたり、楽をしようと思い他人のことを考えなかったりする。しかし、真実でない考え方はすべて自己保存の我欲につながって行くことを知るべきである。
 自己主張は、自己にもどる。競争相手を蹴落とそうなどという思いは、あの山彦に似て、己にかえってくるものなのだ。「馬鹿野郎」といえば、山彦もまた「馬鹿野郎」と自分の声で帰ってくるようなものである。
 このように不調和な思いを持てば、黒い想念の抵抗を自ら強くして、己自身の苦しみを多くして行くだけのことにすぎなくなる。相手を陥れて不幸にしようと思う心は、自身の落ち込む穴を掘っているようなものだ。「策士策におぼれる」の類であり、「人を呪わば穴二つ」である。
 またみだりに情欲について連想することは、心の中では行為につながるものである。正しい自分の心に忠実な考えを持つことが必要だ。
 常に他人の幸福を思う心は、行為につながって行けば己にまた帰ってくるものである。悪い考えが己に帰ってくるように、良い原因も循環してくる。
 多くの人々への救いの心がやがて行為につながって行けば、常に善なる思いに満ち満ちている生活は、自分自身をより次元の高い姿に磨いて行く。
 正しい神理に適う思いが、行為と結びつくような生活、それを実践することが必要である。
 家庭内でも姑と嫁の争いを良く耳にするが、姑が嫁に対してきびしいことをいうと、嫁は度重なる叱言に、心から嫌な姑だ、早く死んでしまえば良いと思うようになってくる。そうなってくると心の黒い想念は現象化され、たとえ口でうまいことをいっても姑の心にひびくものではない。それは心から思っての行為ではないからである。その原因は互いに自分の子ではない自分の親ではない、という自己保存の思いがこのような結果を引き起こすのである。
 互いに、神理に適った正しい考えを正しく語り合うことによって誠意をつくすことである。解決はそこにある。
 決して人に対して恨んだり、妬んだり、そしったりするような考えを持ってはならない。通じない人々に対しては「哀れな人だ、どうか神よ、救ってやってください。あの人に安らぎを与えてください」と祈ってやる心が必要である。心から正しく思うことは、さらに自分に安らぎを生み、神仏の愛に満ちた光を受けることができるというこれは神理である。





4.心行の言魂より 【 全文 】
 正しく思えないのは、正見で見たように、自分の心にわだかまりがあるからです。怒りや憎しみや、嫉妬、愚痴、欲望がありますと、心がそれに翻弄され、正しく、ものを思うことができなくなります。正しい思いとは、慈悲と愛しかありません。これ以外の思いは、すべて、自我からきています。
怒りの感情や本能的な欲望、また知におぼれると、冷たい人間になってゆきます。理性は経験を基礎としていますが、経験だけに頼り、ものを知る知性の働きを無視すると、人を納得させる深い智慧は浮かんできません。
意志は、弱くても、強くても困ります。弱ければ、くるくる変わるし、強いと頑固者になります。鋼(はがね)のような、強靭な意志は、心の機能が全体的に働き、十分にゆきわたって、はじめて、その力を発揮します。
心が丸く、大きく、豊かであるということは、まず、正しく思うことから、出発します。
そうなのです。物事に始まりは、まず、思うことからスタートを切ります。
この大宇宙も、神の意志、つまり、思うことから始まりました。人間の生活も、思うことから、始まります。ただ人間は、五体を持ち、眼でものを見ることによって、「思う」ことが機能化するので、八正道も、正見、正思という順序になっていますが、本来は心が主体であり、一切の創造行為は、すべて、思うこと、考えることから生まれるものです。
人の思いは、以心伝心といって、すぐさま人に伝わります。またあの世に対しても、同じように伝わります。慈悲と愛の思いは、天上界につながり、憎しみ、怒りの思いは地獄界に通じてゆきます。病気、災難、さまざまな不幸の原因は、正しく思わない自己本位に、心がゆれているから起こるのです。
正しく思うことは、正念と密接に関係し、特に重要ですから、正念と合せて理解して下さい。
正見、正思の目的は、慈悲と愛を根底にした中道の思いにあります。善の思いには善が返ってきます。悪の思いには悪が返ってきます。思いは、ものを創造する行為です。他を生かし助け合う、正しく思うことが、あなたを調和させ、人びとを調和させる根本です。





5.園頭広周先生著 心行の解説 下巻より 【 抜粋 】

 想像は創造である。
 正見とは神の心になって見るということであり、その正しい見方を本にして考えることが正思である。
 思うことがなぜ大事かというと、思うことがあって初めて行動することができるからである。思うということがなければ人間は何も行動できない。
 思うこと(想像すること)が創造となるのであるから、われわれは行動する前によく考えることである。ここに働いている法則が、よいことを思えばよいことがくるし、悪いことを思えば悪いことがくるという原因と結果の法則である。
 思ってばかりいて行動がないとなにもできないし、考えずにただ動き回るだけでは成果は上がらないし、思うことと行動が一致しなければいけない。

思うことの基準は、どうしたら神の心を表現することができるかということである。自分で自分のことを考えることが反省であり、相手のことを考えることが理解するということである。だから、理解とは、自分の考えを相手に押しつけようとすることではなくて、相手の立場に立って相手の心がよくわからなければいけないのである。
話し合ってもどうしてもうまくゆかぬという場合は、相手のために祈ってやるという広い心が必要である。相手に通じなければ広い心で相手を包んでやることである。
我慢は、悲しみ、苦しみを腹の中につめ込むことだからいけない。
忍辱でないといけない、我慢に我慢を重ねると、後には病気になる。道徳的には我慢することはよいこととして教えられているが、我慢は心の中に苦しみをつくり出す。我慢では心が安らかにならない。
忍辱とは耐え忍ぶことであるが、忍辱は心の中に苦しみをつくらない。話しても相手がわからなければ、神に祈ってやるという広く高い心をいうのである。
正思を養うには反省することが必要である。今日一日の思いは正しかったかどうかを反省して、過ちがあったら訂正してゆく。そうして、正しく思うことが確立されてゆくのである。

思うことを実現させるためには、それを実現させる具体的な方法が絶対的に必要である。
そのことを高橋先生は「思念と行為が大事である」といわれたのである。思っただけではいけないので、思ったらその思いをどのようにして実践するか、その具体的な順序方法をしっかり考えないといけない。思っていることはどんなに立派なことであっても、それを実現するための順序方法が間違っていると、それは実現しないのである。

この大宇宙も、神の意志、つまり、神が思われることによって創造された。人間の運命も、思うことによってつくられる。慈悲と愛の思いは、天上界につながり、憎しみ、怒りの思いは地獄界に通ずる。
正思とは、慈悲と愛をもとにした中道の思いである。病気・不幸の原因は、正しく思わなかった自己本位の心にある。
善の思いには、善が、悪の思いには、悪が、それが〝法〟である。


 - 完 -



2015.04.26 (日曜日)UP