高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします








八正道 ・・・・・ 正見 、正思 、正語 、正業

        正命 、正進 、正念 、正定






正法の実践は、日常生活(思うこと・行うこと)の上に八正道を実践して行くことにあります。
そのためには、まず八正道そのものを理解する必要があります。

高橋信次先生著 「人間釈迦 一巻」・「心の指針」・「心の発見 神理篇」
GLA発行   「心行の言魂」
園頭広周先生著 「心行の解説 下巻」

より、各項目ごとにまとめました。

日々の実践にお役立て下さい。





 一、正見 ・・・ 正しく見ること





1.人間釈迦より 【 全文 】

 まず人は、正しく見る目を養うこと。我欲を去った調和ある見解を持つよう努める事であろう。

それには、己という立場があっては、正しさを求めることはできまい。正しさの尺度は、男女の別老若の別、地位、名誉の別、こうした立場を捨て去って、一個の人間として、大自然の己として、そしてその心の目で、ものを見る、相手を見る、現実を眺めることであろう。

 官僚にある者が、ひとたび野に下ると、官職時の感覚とはまるでちがって、会社の利益のために、あとに残った後輩たちを困らせることを平気でやっている。そうかと思うと、ついこの間まで、鬼検事といわれ、恐れられていた人が、一夜にして弁護士に変身し、法廷で主客ところをかえて、弁護に立っている姿を見ると、人の心の所在が、いずこにあるのかわからなくなってくる。

 調和の基本は、まず何はさておき見ることの正しい評価にあるといえよう。現れた現象の背後には必ずその現象を映し出す原因がなければならないからだ。また、自分に直接関係のある諸問題が派生したときは、まず自分自身の心の姿を見ることが大事だ。肉体の眼を通して外界の動きを正しく見るためには、その眼の奥にある心眼がキレイに磨かれていないと肉眼に映った諸現象もゆがんでしまうからである。各人の心は鏡である。その想念という鏡をたえず掃除しておくことだ。掃除は反省を通して磨かれてゆくであろう。





2.心の指針より 【 全文 】

 ものを正しく見るには、まず、自己の立場を捨て第三者の立場でモノを眺めることです。私たちは普通、他人の問題については比較的正確な判断が下せます。ところが、自分の問題となり、利害関係が伴ってくると、是非の判断がつかなくなり、しばしば悔いが残るような結果になるようです。
 これは、自分の問題になると、知らぬ間に自己保存が働き、我欲に左右されるからです。正しい判断、正しい見方は、自分を切り離し、いわば第三者の立場でモノを見ることから始まるのです
 そうしてやがてその見方は、心の内面にまで掘り下げられ、これまで正しいと思ったことが、まったく反対であったことがわかります。
 たとえば、つい百年前、二百年前まで親の仇打ちは正しいものとされました。仇打ちと聞くと、武士も、町人も、百姓も、その仇打ちに加勢したものです。
 現代では仇打ちは人殺しになり、殺人罪に問われます。百年前より、ものの見方が前進たといえましょう。
 なぜ仇打ちはいけないか。殺人は神の理に反するからです。
 神の理は地上の調和であり、人びとの目的は、調和の中に生かされているからです。
 殺人の繰り返しは、不調和を助長します。つまり、作用反作用の振り子は、いつまで立っても止まることがないからです。
 今日、個人間のこうした問題は、国が裁いています。ところが国と国の問題となると、調停や、裁くものがないために、戦争にまで発展してしまいます。
 第四次中東戦争は、昔の個人間の仇打ちにも似た怨念戦争であり争いは、怨念が消えるまで半永久的に続くでしょう。
 戦争が絶えないということは不幸です。多くの人命が失われ、一家は離散します。
 なぜこうなるのでしょうか。戦争や争いというものは、自分のこと、自国の問題となると、自己保存が働き、自分を守ろう、相手はどうでも自分さえよければ、という考え、見方に傾いてしまうからです。
 正見の尺度は神の心なのです。その出発点は第三者の立場で、自分を見相手をながめることです。
 現象の姿だけをとらえて判断を下しては、間違いのモトになります。
 現象の奥にかくされた原因を見きわめ、そうして、その原因を取り除く努力が必要なのです。
 原因を見出すには反省しかありません。客観的立場に立った反省を通して、その原因をつかみ、捨て去ることです。
 正しい見方は、やがて正しい見解をつくってゆくでしょう。そうすると、この現れの世界の、めまぐるしい動きに、いちいち私たちの心を振り回されることがなく、心をいつも平静にしていられるでしょう。
 この現象界で起こった、あるいは起こりつつある現象は、すべて原因があって結果として現れてくるものですから、正しい見方が養われてくるにしたがって、現象の奥にかくされた原因をつかむことが容易になるでしょう。
正しい見方は、こうした心の眼を養うことによって高められ、やがて、神の心につながっていくものです。





3.心の発見 神理篇より 【 全文 】

 ものを正しく見る、これが必要である。多くの人々は、この問題について、その人の行為や外見だけで判断する場合が多い。これは誤りである。現象を見るときもそうだ。外見だけでものごとを判断することは避けなくてはいけない。
 眼は、人生行路の乗り舟の附属品と考えねばならない。客観的に見た現象や印象については、正しい心の眼で判断することが肝要である。
 ものごとの原因と結果について、さらに第三者として、己を中道において考察することも必要なことである。また相手の心になって考えることも必要である。





4.心行の言魂より 【 全文 】
 正しさの規準は何かというと、「公平」であるということです。ではその公平はどのようにして得られるか。それは、常に第三者の立場に立って、ものを見ることです。自分中心にものを見るから、そこに偏見が生まれ、邪見になってゆくのです。
 すなわち、正見に反対は邪見です。邪見は心のわだかまりであり、自我我欲、自分中心から生まれます。心のわだかまりはどうして生じて来たのでしょうか。それは、これまで生活してきた環境、習慣、教育、思想などによって毒されてきたためです。したがって、ものを正しく見よう、公平に見ようとするには、これまでの既成観念を白紙に戻し、全く、新しい立場から、ものを見るよう努めることです。
 (例)感謝について
 年が進むにしたがって、ものに感謝する心が失われてきます。すべてが当たり前に動いており、感謝や、感動の心は湧いてこなくなります。しかし、ものに感謝できない心は、もともと、どの辺りから生じてきたのでしょう。誰しも子供の時代がありました。子供のときは両親から可愛がられます。両親は子供のいうことなら大抵のことは聴いてくれます。近頃は過保護となり、親は子供のこととなると夢中になってしまうようです。
 両親は大抵のことはいうことをきいてくれる。わがままを通してくれる。ということから、子供の心は生長するにしたがい、次第に、ものに感謝する心を失ってゆきます。学業を終え、社会に出ても、仕事をするから給料をもらうのは当然だ、課長は係長より余計に給料を取っているから、それだけ働くのは当然だ、ということになってゆきます。
 こうして感謝の心は一向に芽生えてこないわけですが、そのもとをたどると、子供の頃のわがままが、大人になってもつづいているからです。これでは感謝の心がよみがえってきません。
 この地球上は、お互いに、助けたり、補い合うことによって成り立っているのですから、感謝の心というものは、人間にとって非常に大事なものになるのです。感謝は謙虚な心をつくり、やがて、愛の心をも育てるものです。正法の出発、そして終点は、ものに感謝することにあります。すべてが当たり前で、当然、という見方をしていては、「正しくものを見る」ことにはなりません。
 大事なことは感謝です。感謝が基礎にないと、ものの見方は偏見を伴ってくるでしょう。
 このほか、親子の問題、夫婦の問題、社会生活の問題、いろいろその例題は尽きませんが、正しい見方というものは、具体的には現れているさまざまな事柄を深く掘り下げ、物事を正しく認識することから生まれてきます。
 公平な見方は、そうした認識から生まれ、正しい見解に至るわけです。
この地上界に事象(現れているさまざまなできごと)は、すべて、人の想念、心の動きから生じており、現れの姿はそれの結果なのです。ですから、ものごとの原因は、人の心にあるのであって、現れているさまざまな現象は、原因ではなく結果なのです。したがって、結果だけをとらえ、あれこれ判断すると、間違いのもととなります。まず、現れている結果を見たならば、その原因について、掘り下げてゆくことが「正見」のポイントです。
正見の目的は、物事の正確な判断であり、そうして、それにもとずく正しい見解を持つことです。
以上を要約すると、

  一、まず感謝の心を持つこと。
  一、事象の一切の原因は人の想念、心にあって、現れの世界は結果である。
  一、既成観念を白紙にもどし、物事の真実を知るようにする。
  一、正見の反対は邪見になります。常に第三者の立場に立って、自我の思いを捨て、
正しく見る努力をするということになります。





5.園頭広周先生著 心行の解説 下巻より 【 抜粋 】

 正見とは、実相と現象の区別をよく知って現象にとらわれずに実相を観(み)、しかも現象を現象として軽視せずに、現象を実相そのままの現象とすることである。
 実相とは元々は釈尊が使われた言葉であったのである。
 正見の次に正思とあるのは、正しく思う、正しく考えるということは、正しく見ることからしか出てこないので、間違った見方をしていれば当然、間違った考えしか出てこないから、正しく思うためにはまず正しく見ることをしなければならないのである。

 人間の実相は神の子である。しかし、神の子であっても、その思い方が悪いと悪い現象となって現れるから、よい現象を現わそうと思ったらよいことを思わないといけない。
 「現象」とは「現れた相」ということであるから、どういう相を現わすかは、心の思い一つであるということになる。人間は神の子であっても、その思いが悪ければ悪いことが現れるのであって、それが因縁の法則であって、人間は神の子であると知れば、どんなことを思ってもそれが善であるということにはならないので、悪の現象が現れてきたら、その原因はどこにあったのかと、その悪の原因をしっかり見つめて、反省してその悪の原因を除いて、悪の原因をつくらないようにしなければいけないのである。
 現象には、真象と偽象がある。
 真象とは、神の子の実相そのままの正しい思いが、現象として形に現れたもの。
 偽象とは、神の子の実相に反した、実相にふさわしくない間違った思いが形と成って現れたもの。
 偽象が起こると、それは「苦しみ」として感じられる。だから苦しみの原因となる悪い思いはしないようにする。思わないようにするという消極的な生き方だけではいけないので、積極的に良いことを思い、よい行いをするということをしなければいけないのである。
 正法は、「行即光」といって、よいことを日常生活に実行することによって、心は安らかになり、心から光が出るようになって不動心を得る。と説くのである。


 正見の目的は、物事の正確な判断である。
  一、まず感謝の心を持つこと。
  一、人の想念、心のあり方が原因となってそれに応ずる結果が現れる。
  一、既成観念を白紙に戻して、物事の真実を知るようにする。
  一、常に第三者の立場に立ち、自己本位の思いを捨て、相手の立場に立ってものを見
るようにする。
 正見をする根本は、感謝の心を持つことである。感謝の心を持たないと正見はできない。
 その感謝の心を持つことの始まりは、親に対する感謝である。親はどんな気持ちで自分を育ててくれたかを思うことである。親の心を思うことができるそのことによって、われわれは相手の立場に立ってものを見る、考えるということを学ぶことになる。だから、親に対して感謝の心を持たないものは、第三者の立場に立ってものを見、考えるということはできなくなる。
 親に対する感謝の心に目覚めてくると、こんどはすべてのものに対して感謝しなければならないことがわかってくる。親に対する感謝を中心として、祖先に、子どもに、兄弟姉妹に、親戚に、そうして、友だちに、上司に、お世話になった人々に、それなくしては生きられなかった、また生きられない、食べ物、衣服に、住居に、空気に、水に、そうして大自然全体にと、感謝の念は広がってくる。
 こうした感謝の心が起こってくると、人と人とが争うことの馬鹿らしさがわかってくるし、人はお互いに助け合い、補い合っていかなければならないことがわかってきて、その心は世界の平和へとつながっていく。
 感謝は謙虚な心をつくり、愛の心を育てる。
 正法の出発も終点も、すべて感謝にある。大事なことは感謝である。感謝の心がないとものの見方が片寄ってくる。


 - 完 -




2015.04.26 (日曜日)UP




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