高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします





心 行




心行(しんぎょう)は 宇宙(うちゅう)神理(しんり)

人間(にんげん)(こころ)を 言霊(ことだま)によって表現(ひょうげん)したものである

それゆえ
心行(しんぎょう)は (おが)むものでも 暗記(あんき)するものでもなく

これを
理解(りかい)し (おこな)うものである

正法(しょうほう)実践(じっせん)のなかにこそ

生命(せいめい)宿(やど)ることを()




われいま見聞(けんもん)し 正法(しょうほう)帰依(きえ)することを()たり

広大(こうだい)なる宇宙体(うちゅうたい)は 万生万物(ばんしょうばんぶつ)根元(こんげん)にして

万生万物相互(ばんしょうばんぶつそうご)作用(さよう)により 転生輪廻(てんしょうりんね)(ほう)(したが)

大宇宙大自然界(だいうちゅうだいしぜんかい)意識(いしき)あり

意識(いしき)大宇宙体(だいうちゅうたい)支配(しはい)し 万生万物(ばんしょうばんぶつ)をして調和(ちょうわ)姿(すがた)(しめ)さん

万生万物(ばんしょうばんぶつ)広大無辺(こうだいむへん)大慈悲(だいじひ)なり

大宇宙体(だいうちゅうたい)意識(いしき)当体(とうたい)にして 意識(いしき)中心(ちゅうしん)(こころ)なり


(こころ)慈悲(じひ)(あい)(かたまり)にして 当体(とうたい)意識(いしき)不二(ふじ)なることを(さと)るべし

この大意識(だいいしき)こそ 大宇宙大神霊(だいうちゅうだいしんれい)(ほとけ)なるべし

神仏(しんぶつ)なるがゆえに 当体(とうたい)大神体(だいしんたい)なり

この現象界(げんしょうかい)における太陽系(たいようけい)は 大宇宙体(だいうちゅうたい)の (ちい)さな諸器官(しょきかん)のひとつにすぎず

地球(ちきゅう)は (ちい)さな細胞体(さいぼうたい)なることを()るべし

当体(とうたい)細胞(さいぼう)なるがゆえに 細胞(さいぼう)意識(いしき)あり

かくのごとく 万物(ばんぶつ)すべて生命(せいめい)にして エネルギーの(かたまり)なることを(さと)るべし

大宇宙体(だいうちゅうたい)大神体(だいしんたい)なるがゆえに この現象界(げんしょうかい)地球(ちきゅう)神体(しんたい)なり

神体(しんたい)なるがゆえに 大神殿(だいしんでん)なるべし

大神殿(だいしんでん)は 万生(ばんしょう) (たましい)修行所(しゅぎょうじょ)なり

諸々(もろもろ)諸霊(しょれい) みなここに(あつ)まれり

諸霊(しょれい)輪廻(りんね)は 三世(さんぜ)流転(るてん)

この現象界(げんしょうかい)(おのれ)(たましい)(みが)

神意(しんい)()った仏国土(ぶつこくど)・ユートピアを建設(けんせつ)せんがためなり

さらに 宇宙体万生(うちゅうたいばんしょう)が 神意(しんい)にかなう 調和(ちょうわ)のとれた世界(せかい)建設(けんせつ)せんがため

(おのれ)(たましい)修行(しゅぎょう)せることを(さと)るべし

過去世(かこせ) 現世(げんせ) 来世(らいせ)三世(さんぜ)は 生命流転(せいめいるてん)過程(かてい)にして

永久(とわ)不変(ふへん)なることを(しる)るべし

過去世(かこせ)は (おのれ)修行(しゅぎょう)せし前世(ぜんせ)

すなわち ()()りし実在界(じつざいかい)現象界(げんしょうかい)世界(せかい)なり

現世(げんせ)生命(せいめい)物質(ぶっしつ)不二(ふじ)現象界(げんしょうかい) この世界(せかい)のことなり

(ねつ) (ひかり) 環境(かんきょう) いっさいを(ふく)めて エネルギーの(かたま)りにして
われら生命意識(せいめいいしき)修行所(しゅぎょうじょ)なり

神仏(しんぶつ)より(あた)えられし 慈悲(じひ)(あい)環境(かんきょう)なることを感謝(かんしゃ)すべし

来世(らいせ)次元(じげん)(こと)なる世界(せかい)にして 
現象界(げんしょうかい)肉体(にくたい)()りし諸霊(しょれい)世界(せかい)なり

意識(いしき)調和度(ちょうわど)により 段階(だんかい)あり

この段階(だんかい)は 神仏(しんぶつ)(こころ)(おのれ)(こころ)調和度(ちょうわど)による (ひかり)(りょう)区域(くいき)なり

神仏(しんぶつ)表裏一体(ひょうりいったい)諸霊(しょれい)は 光明(こうみょう)()

実在(じつざい)世界(せかい)にあって 諸々(もろもろ)諸霊(しょれい)善導(ぜんどう)する(ひかり)天使(てんし)なり

(ひかり)天使(てんし) すなわち 諸如来(しょにょらい) 諸菩薩(しょぼさつ)のことなり

この現象界(げんしょうかい)は 神仏(しんぶつ)よりいっさいの権限(けんげん)を (ひかり)天使(てんし)(ゆだ)ねしところなり

(ひかり)天使(てんし)慈悲(じひ)(あい)(かたま)りにして あの() この()諸霊(しょれい)(みちび)かん

さらに 諸天善神(しょてんぜんじん)あり

諸々(もろもろ)諸霊(しょれい)を いっさいの()より(まも)り (ただ)しき衆生(しゅじょう)擁護(ようご)せん

肉体(にくたい)(ゆう)する現世(げんせ)天使(てんし)は 諸々(もろもろ)衆生(しゅじょう)正法神理(しょうほうしんり)()き 調和(ちょうわ)光明(こうみょう)(みちび)かん

この現象界(げんしょうかい)におけるわれらは

過去世(かこせ)において (おのれ)(のぞ)み 両親(りょうしん)より(あた)えられし 肉体(にくたい)という(ふね)()

人生航路(じんせいこうろ)海原(うなばら)へ (おのれ)意識(いしき)(たましい)(みが)

神意(しんい)仏国土(ぶつこくど)(つく)らんがため ()まれ(いで)たることを(さと)るべし

肉体(にくたい)支配者(しはいしゃ)は (おのれ)意識(いしき)なり (おのれ)意識(いしき)中心(ちゅうしん)(こころ)なり

(こころ)実在(じつざい)世界(せかい)(つう)じ (おのれ)守護(しゅご)指導霊(しどうれい)が (つね)善導(ぜんどう)せることを(わす)れるべからず
善導(ぜんどう)せるがために (おのれ)(こころ)は 己自身(おのれじしん)忠実(ちゅうじつ)なることを()るべし

しかるに 諸々(もろもろ)衆生(しゅじょう)は (おのれ)肉体(にくたい)に 意識(いしき)(こころ)支配(しはい)され

(おのれ)前世(ぜんせ)約束(やくそく)(わす)れ 自己保存(じこほぞん) 自我我欲(じががよく)()()れて

(おのれ)(こころ)()支配(しはい)され 神意(しんい)(はん)し この現象界(げんしょうかい)()()かん

また 生老病死(しょうろうびょうし)(くる)しみを()け (おのれ)本性(ほんしょう)(わす)()るものなり

その原因(げんいん)煩悩(ぼんのう)なり

煩悩(ぼんのう)は (げん)(にい)()(ぜつ)(しん)()六根(ろっこん)根元(こんげん)なり

六根(ろっこん)調和(ちょうわ)は (つね)中道(ちゅうどう)根本(こんぽん)として (おのれ)(ただ)しい(こころ)()うことなり

(おのれ)(ただ)しい(こころ)()うことは反省(はんせい)にして

反省(はんせい)(こころ)は (おのれ)(たましい)浄化(じょうか)されることを(さと)るべし

己自身(おのれじしん)孤独(こどく)(あら)

意識(いしき)のなかに(おのれ)関連(かんれん)せし 守護(しゅご)指導霊(しどうれい)存在(そんざい)()るべし

守護(しゅご)指導霊(しどうれい)感謝(かんしゃ)し さらに反省(はんせい)

(おのれ)守護(しゅご)指導霊(しどうれい)の (みちび)きを()けることを()るべし

六根(ろっこん)あるがゆえに (おのれ)(さと)れば 菩提(ぼだい)()すことを(さと)るべし

神仏(しんぶつ)大慈悲(だいじひ)感謝(かんしゃ)し 万生相互(ばんしょうそうご)調和(ちょうわ)(こころ)が 神意(しんい)なることを(さと)るべし

肉体先祖(にくたいせんぞ)報恩供養(ほうおんくよう)(こころ)(わす)れず 両親(りょうしん)(たい)しては 孝養(こうよう)(つく)すべし

心身(しんしん)調和(ちょうわ)し (つね)健全(けんぜん)生活(せいかつ)をし 平和(へいわ)環境(かんきょう)(つく)るべし

肉体保存(にくたいほぞん)のエネルギー(げん)は 万生(ばんしょう)(ふく)め 動物(どうぶつ)植物(しょくぶつ)鉱物(こうぶつ)なり

このエネルギー(げん)感謝(かんしゃ)(こころ)(わす)れず

日々(ひび)生活(せいかつ)(なか)において (おのれ)(たましい)修行(しゅぎょう)すべし

(おのれ)(こころ)意識(いしき)のエネルギー(げん)

調和(ちょうわ)のとれた日々(ひび)生活(せいかつ)のなかに 神仏(しんぶつ)より(あた)えられることを(さと)るべし

(おのれ)肉体(にくたい)(くる)しめば 心脳乱(こころのうらん)し わが身楽(みらく)なれば 情欲(じょうよく)愛着(あいちゃく)

苦楽(くらく)はともに正道成就(しょうどうじょうじゅ)根本(こんぽん)(あら)

苦楽(くらく)両極(りょうきょく)()て 中道(ちゅうどう)()り 自己保存(じこほぞん) 自我我欲(じががよく)煩悩(ぼんのう)()てるべし

いっさいの諸現象(しょげんしょう)(たい)

(ただ)しく() (ただ)しく(おも)い (ただ)しく(かた)り (ただ)しく仕事(しごと)をなし (ただ)しく()

(ただ)しく(みち)精進(しょうじん)し (ただ)しく(ねん)じ (ただ)しく(じょう)()るべし

かくのごとき正法(しょうほう)生活(せいかつ)のなかにこそ

神仏(しんぶつ)光明(こうみょう)() (まよ)いの(きし)より (さと)りの彼岸(ひがん)到達(つうたつ)するものなり

このときに 神仏(しんぶつ)(こころ)(おのれ)(こころ)調和(ちょうわ)され (こころ)(やす)らぎを(しょう)ぜん

(こころ)光明(こうみょう)世界(せかい)()り 三昧(さんまい)境涯(きょうがい)到達(とうたつ)せん


( この諸説(しょせつ)末法万年(まっぽうまんねん)神理(しんり)なることを(さと)り 日々(ひび)生活(せいかつ)()とすべし )


高橋信次先生著  心行の言魂より

序文

日常生活にとって、もっとも大事なことは五官にもとづく六根に心がふりまわされないことです。五官とは、(げん)(にい)()(ぜつ)(しん)()の五つの機能を指します。五つの機能は、肉体保全のためには、なくてはならないものです。問題は、この五官に私たちの意が働き、六根という煩悩が生じて、ねたみや怒り、足ることを知らぬ欲望が心を支配しますと、自分の心が、まず不安定となり、安心した生活ができなくなります。早い話が、人を見たら泥棒と思えとか、人は人、自分は自分と言う事になりますと、知らぬ間に苦悩の輪廻の渦中におちこむことになります。これではどうみても損です。損得の計算からいっても損のはずです。
正法の道は、損得からいっても得の道なのです。なんとなれば安心した道が正法であるからです。煩悩という自分を苦しめる悪の緊縛から離れるので、こんな素晴らしく、明るく、楽しいことはないからです。
煩悩とは、五官を通して働く自己本位の想念と行為です。あれが欲しい、これはいやだ、という自己中心の肉体的執着、この執着心が強いほど、人の心は不安定になります。ちなみに、生まれたばかりの赤児(あかご)を想起してください。赤児は自然のままに生きています。ひもじくなれば泣きもしますが、満たされればスヤスヤと眠り、あれこれ、恣意を働かせることはありません。嬰児の顔は平和そのものです。かわいいです。だから、嬰児を見ていると、たいていの人は心が和みます。大事に扱います。嬰児は、自己限定の煩悩がないので、安らぎに満ちているからです。
正法とは、そうした素直な心をいうのであり、自己限定の執着を離れた心を指します。で、それには五官にもとずく、さまざまな欲望から離れること、足ることを知った生活をしなくてはなりません。自分の都合のみで心を騒がせては彼岸である心の安らぎには、いつになっても到達できません。足ることの生活は、まず、正法という中道の生活、調和の生活、慈悲の生活、愛の生活であります。まず、己自身の調和の生活から始まり、次いで、人と人との調和にあります。
「心行」は、宇宙の生成から草をおこした、いわば〝人間の原典〟であり、安らぎの道を示したものです。「心行」の意義をよく吟味され、生活のうえに、これを生かしてください。そうして、(まこと)の、あなた自身に立ちかえってください。

1975年9月吉日



心行の大意

人は、どこからきて、どこへゆくのか。人間がこの世に生まれるということは、どんな意味があるのか。死とは何か。宇宙はどうしてできたのか。魂があるとするならその意義を知りたい。心とは何か、神とはいかなるものか。こうした諸問題、つまり、宇宙と人間、人間の存在意義、心の実相を明らかにしたのが「心行」であります。
それ故「心行」そのものは、通読し、暗記するものではなく、その意味を理解し、日々の生活に、神の子の自分を現すべく、行じてゆくことでなければなんにもなりません。人間の目的は、己自身の調和、地上の調和にあるからであり「心行」の目的も、そこにあるからであります。
以下、順を追って「心行」の内容を説明してゆきましょう。
まず、最初に「心行」という名称について簡単にふれますと、「心行」とは心の教え、ということであります。心行の内容は、人間と宇宙の関係を明らかにすると同時に、森羅万象の根源は「心」にある。神仏のエネルギーが万生万物を育み、支えていますので、万物の成り立ち、人間の在り方、つまり「心」と「行ない」を示したものなので、これを「心行」としたわけです。
また「心行」とは別な言葉でいえば「信行」でもあります。「心行」の最後の部分に、八正道こそ悟道に通じるとしていますが、八正道は、日々の生活に行じてこそ意義があり、悟りを得る最短距離でもあります。したがいまして、「心行」は、ただ理解しただけではなんにもなりません。これを理解すると同時に、行うことにあります。つまり信じて行う、ということです。
「心行」とは、それ故に「信行」でもあるわけです。


高橋信次先生著  心の原点より

心行概説


「心行」とは心と行いということである。
すでに「心行」を読まれて薄々気付かれたとおもうが、人間を含めた大宇宙は常に相互に関係し合って動いている。太陽系一つとっても、太陽を中心に九つの惑星が相互に関係し、太陽系という体を形作っている。地球や火星が一つ欠けても、太陽系の存立ははかれない。地上の生活にしても、動、植、鉱の相互関係がなければ成り立たないのである。
その相互関係は何に起因するか、それは大自然の意識である。秩序整然とした意識の働きがあればこそ、大宇宙も、地上の生活環境も、調和されている。生命の神秘を見る時に、私達はそこに、偉大な大自然の叡智を発見しよう。神の心である。

もしも、自然のそうした相互関係が、ただの偶然の連続によって生じたとすれば、地球はとうの昔に滅びていよう。地球誕生にはさまざまな説があろうが、地球という球体ができたのは、今から約33億年も前である。その当時の地球は、いわば火の玉であり、太陽のように燃えさかっていた。生物が住めるようになったのは今から約6億年も前のことである。それまでの地上は、火山の爆発や氷河時代を繰り返した。大宇宙の時の流れからすると、6億年という歳月は一瞬のできごとかも知れない。しかし地球が太陽の周囲を公転しはじめて、すでに数十億年、その軌道は、昔も今も変わらない。偶然にしては、あまりにできすぎていると思うのが当然ではないか。
しかも、極大の大宇宙と極微の素粒子には、核と分子の相互関係がみられるという事実を知るならば、そこに大自然の意思、意識、心というものを感得しないわけにはいかない。
私はこうした事実を、客観的に、主観的にとらえることができた。
ただ皆様に説明する場合には、主観的では納得されないために右のような説明になってくるのである。

大宇宙には心が存在する。そうしてその心は私達の心にも同通している。
客観的にこれを説明すると、太陽の熱・光に強弱がない、空気に増減がない、一日は昼と夜があって、決して一方に偏らない、つまり、大自然の心は、私達に中道という調和ある秩序を教えている、ということになる。太陽の熱・光が強くなったり、弱くなったらどうなるだろう。地上の生命は生きてはいけまい。空気が増えたり減ったりしても同じことがいえよう。
私達の生活態度も、食べすぎれば腹をこわし、惰眠をむさぼれば体力に抵抗力を失う。しかし、もっと体に影響を与えるものは心だ。心配事があれば食欲は減退し、睡眠がさまたげられる。。どなったり、腹を立てれば血行が悪くなる。怒りの息が大変な毒性を持っていることを知っている人は少なかろう。

大自然は調和という中道の心を教えている。
人間の体も、無理はいけないし、怠惰もいけない。心についても、怒ったり、悲しんだりすれば、体に、精神に、悪い影響を与える。肉体も、心も、中道にかなった生活行為、つまり正しい想念と行為が必要なのである。
大自然は、そのことを教えている。同時に、大自然の心にさからえば、その分量だけの苦しみがついてまわることも教えているのだ。

中道とは足ることを知った生活である。欲望にほんろうされない自分自身を確立することだ。生老病死の苦しみは、こうした中道の心を失った自我と、執着した想念、心にあったのである。
人間は大自然の中で生活している。大自然から離れて生活は出来ない。このことは大自然の心と同通しているからなのだ。

「心行」とは、足ることを知った心で生活し、報恩という行為を示していくことである。ちゅうどうの精神で、毎日を生活しなさい、ということなのである。
「心行」は大宇宙の相関関係と、人間の関係、そして、すべてのものが循環され、その循環が、大宇宙の心、中道を軸にして回転し、人間の魂もまたこうした正しい循環の過程の中で育まれ、調和という目標に向かって、転生輪廻を重ねてゆく永遠の生命体であることを、極めて平易に、端的に、文字で表したものである。

物事にはすべて柱というものがあるが、「心行」の柱となるものは、

〝大自然という神の心〟
〝永遠の生命体を維持する循環の法〟
〝慈悲と愛〟

の三つである。
この三つが「心行」を形作り、私達を生かし続けているものである。
「心行」はそれゆえに、心の教えであり、生活の規範である。

したがって、これは暗記するものではない。これを理解し、実践して行くものだ。実践の過程を通して、私達は、大宇宙の中道の心に調和され、真の安らぎが体得できるものである。

ところで言葉というものは波動である。経文の読誦(どくじゅ)もただ読み上げるだけでは意味を持たない。経文の意味を理解し、実践している者が読誦する時は、その言葉の波動はあの世の天上界にまで通じ、人びとを感動せしめていくものである。
言葉は本来、言魂(ことだま)といって、もともと光の粒子からできており、言葉を発する人の心の在り方いかんで、言葉の一つ一つが、光の玉となって、空間に流れ出ていく。光の玉はふつう肉眼ではわからない。霊視のきく人、あるいは四次元の世界からみると、この点は実にはっきりと見える。

人の話に感動する、ないしは笑いや怒りが出る場合は、話す側の心と、これを受け取る人の精神状態によってちがってこよう。しかし、純な心で話す場合は、これを受け取る側に邪心があっても、大抵はその邪心は消えていってしまう。話はスジが通ってわかるが、さっぱり気持ちがそれについていかないというのもあるであろう。こうしたことは、話す側の心の在り方が聞き手に非常に大きな影響を与えているからだ。純な心は光であり、わだかまりがると光が黒い塊となって相手に伝わって行くので、反作用を呼び起こすことになる。

ちょっとした寺にいくと釣鐘がある。あの釣鐘の音色も、これを打つ人の心によって、ひびきがちがってくる。ゴーンという鐘の音は誰が打っても同じだろうと思うが、打つ人が常日頃、心の研鑽を怠っていなければ、その鐘の波動はあの世の天上界にまで達し、その人に返ってくるばかりか、その鐘の波動は、人びとの心に伝わり浄化してくれるのである。

経文の読誦、読銃というものも、まったくこれと同じである。正しき心と行為をしている者がすると、その声の波動は金剛界にまで通じ、再びその人にその波動が帰って来て、心の統一、安らぎを一層、助長していくものだ。 「心行」の朗読は、そうした意味では大切なものだし、しないよりされた方が良いと言うことになる。ただ、書かれている意味もわからず、おがめばご利益があるということでは駄目である。般若心経はどこでも読まれている。有り難いお経であり、したがって写経も良し、読誦もまたご利益がると伝えられている。しかしその意味もわからず、行為のないものが、朝晩上げても光は届かない。今日の仏教は、経文をあげたり、写経自体にウエイトがかかり、日頃の想念と行為については問題にしていないところに問題があろう。

「心行」は、そうした意味において、真意をよく理解し、それを現実の生活の上に現わし、そしてその心で朗読されるならば、一の言魂は、二になり、三になって、心の安らぎを増していくであろう。

「心行」の意味を理解され、夜寝る時に、床の上で静かに朗読され、その日一日の想念と行為を反省し、過失(あやまち)を正し、中道の心に一日も早く修正されることを望むものである。


昭和48年4月8日 (1973年)






2011.03.30 UP