高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします







法 語 集   園頭広周 先生


信 仰 の 指 針 ・・・ 正しい信仰のための101章




高橋信次先生のことば     『正法』 誌 1980年1月17号より


- 法
(ほう)

 法とは正しい秩序をいう。
 法とは氵(さんずい)に去ると書く。氵(さんずい)は水だから、法とは水が去るということになる。水は低きに流れ、高きに流れることはない。低きに流れることが自然の理に適い、自然の秩序に、したがっている。水が去ることは、水自体が自然の条理適って生きているので、水の姿は、自然の秩序を表わしている、ということになる。
 漢字は自然のさまざまな形を型どってつくられただけに、事物や事象を実によく表わしているといえよう。

 さて水は低きに流れることによって、常に、清らかだ。山水の流れは冷たく清い。自然の条理にしたがい、低きに流れるから清く澄んでいる。もし、この水の流れを止め、一ヶ所にとどめるとすれば、水質は汚れ、飲み水の用にはたたなくなってくる。
 人の心もこれと同じなのだ。物に執着し、とらわれが多くなると、心は汚れ、ものの用に役立たなくなってくる。ねたみ、ぐち、そしり、いかり、足ることを知らぬ欲望は執着の表われである。執着があるから心にこだわりができ、苦しみをつくる。

 法とは、心に執着をもたぬことだ。とらわれをつくらぬことである。ここで注意したいことがある。それは、とらわれについてである。
知識が先行すると、とらわれという意味を曲解し、好き勝手なことをしても、とらわれなければよいというふうに考えることである。ここでいうとらわれとは、物に執着しないことであるが、同時にそれは、法にしたがうことを意味している。ところが人によっては、とらわれなければ、したい放題、やりたい放題にしてよい、というふうに考えてしまう。とんでもないことである。
 
 法とは秩序だ。循環の秩序をいっている。秩序とは調和であり、中道の心であり、慈悲と愛の神の心のよりどころにして維持されている。身勝手なことをすれば相手が迷惑をするだろう。その迷惑の波動は、身勝手な人に蹴ね返ってこよう。本人はとらわれがないといっても、身勝手な波動は発信者に返ってくるのが法の掟である。他力信仰者は、えてしてこういう考えになり勝ちである。
よくよく自戒しなければならない。

 正法は自力である。その自力も我欲をもとにした自力ではない。八正道という反省をもとにした自力行であることを胆に銘じてほしい。



法 語   『正法』 誌   1978年9月創刊号より

  高橋信次先生は信仰の真髄を説かれたのでありますが、本の中にはあちこちに飛び飛びに書かれたりしてあるために、そのことがそれほど大事なことであるかどうかに気づかずに読んでいられる方が多いようであります。それで皆さんにわかり易く解説することにいたします。


第一章 神に感謝せよ

 私達は宇宙創造の神さまが造られたこの宇宙の中に、神さまの生命に包まれ、その神さまの生命に支えられて神の子として生かされているのであります。物質として現われているものも、それは、物質という形に現われた神の生命であります。森羅万象悉くは神の生命であることをお釈迦さまは、「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」といわれたのであります。

 私達が我を捨てて、自分の心の波動を、大宇宙大神霊の波動に合わせて、自分の心を自然のあるがままの姿に還したときに、はじめて心の安らかさが得られ、真理を自ら知ることが出来るのであります。大宇宙大神霊に波動を合わせるということは即ち、神さまに対して心から感謝を捧げることであります。


第二章 神に感謝せぬ者は光の指導霊の指導を受けられぬ

 高橋信次先生は、「光の大指導霊或は光の指導霊の指導をうけるには、その前に大神霊を拝してから調和をよりよくお願いすべきである」といっていられました。
 神に対して感謝することもさせずに、いきなり「あなたの守護霊がこういっています」と指導している人達がありますが、そういう指導はまちがいであります。「守護霊さま、お守り下さい」と、いくら一所懸命に祈ってみても、その人の心の中に、神に感謝する心がなかったら守護霊は聞いてくれないのであります。たとえあなたが、特別に「守護霊さま、お守り下さい」と祈らなくても、あなたが、心から神に感謝していられるならば、指導霊や守護霊は、その心の状態を「よし」とみて、あなたに霊感、直感を与えるのであります。波長は神に合わせなければいけないのであって、人に合わせるのは、その人と調和することにはなっても、神とは調和しないのであります。


第三章 心の安らぎは神から生まれる

 正しいことの基準は心に安らぎがあるかないかであります。
 あなたが、いくら人に波長を合わせてみても、真の心の安らぎが得られないのは神に感謝し神に波長を合わせないからであります。心の安らぎは、神の光りがあなたの心にとどいた時に生まれるのでありますから、心の安らぎを得るためには神に波長を合わせなければいけないのです。神に波長を合わせるとき、神の心は光となってあなたの心の中にとどくのです。正しい指導者は神に波長を合わせることを説くのです。神に感謝し神に波長を合わせることに信仰の根源、信仰の本質があるのです。


第四章 神に祈ること

 暇があったら敬虔な気持ちで謙虚に神に祈りを捧げなさい。心を神にふりむけて祈るとき瞬時にして神の光はあなたの心の光となって、その心の光の中にあなたの身体は包まれてしまいます。オーラーというのは、あなたが、どれだけ神に感謝しているかという心の程度によって現わされてくるところの、神からの光なのです。
 「神さま、ありがとうございます」と心から唱えられると瞬間的に心に安らぎを覚えられるでしょう。安らぎは、私達の魂に光が伝ってきたときに起る現象なのです。
 朝起きた時、夜休む時、仕事を始める時、仕事が終った時、或は道を歩るきながら、祈ろうと思えばいつでも祈ることが出来ます。 皆さんは、いつも、神に感謝の祈りをする人となってほしいのであります。



法 語   1978年10月2号

週のはじめに一章づつよんで、その週の実践目標としてください。目標を持たないところには幸福はありません。


第五章 神は秩序である

秩序ということは、上があり下があり、右があり左があり、すべて物ごとには順序があるということであります。
 あの世が、心の段階によって、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界と分かれているのも秩序です。神に感謝するということは同時に、神の秩序を重んずるということにならないといけないのであります。ですから、祈りにも秩序のある祈りが必要なので、高橋信次先生は、「大自然の波動と生命」の中につぎのように書いていられます。

 「これらの如来(上段階光の大指導霊)、菩薩(上段階光の指導霊)は、神に人々の心を伝える現神であり、その前に、大神霊を拝してから、調和をよりよくお願いすべきであります。」

 秩序のある祈りの仕方が大事であるから、「祈願文」はその秩序の通りに書かれているのであります。


第六章 正しい宗教指導者とは

 正しい宗教指導者は必ず「神に調和せよ」「神に波長を合わせよ」と説くのであります。「神を信ぜよ」「神に調和せよ」と説かない宗教は邪教であります。
 例えば、日本の仏教々団の中には、その教団の、ご開山上人を一所懸命に信じさせて、大宇宙大神霊のことを少しも教えていない教団があります。これでは正しい宗教、正しい信仰とはいえません。阿弥陀如来とか観世音菩薩を一所懸命に拝んでいても、その心の中に、大自然を創造された大宇宙大神霊に感謝する心がなかったとしたら、それは正しい信仰とはいえないのであります。

 あの世が、大神霊、如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界という秩序あるしくみになっているということは、お釈迦さまがお説きになって以来、はじめて高橋信次先生が明らかにされたのであります。このことの重大さに気づいていない人が多いのは残念なことであります。


第七章 自然に感謝せよ

 お釈迦さまは、「なにもかも美しい、生命の躍動が手にとるように感じられてくる。 あの森も、あの河も、町も、地球も、明星も、天体の星にも、神の偉大なる意志の下に、息づいている」と。

 この大自然が、神の創造であり、神のからだであることに気づかれ感謝されてから悟りに入られたのであります。 「神さま」と感謝する心の中には、「自然に感謝する」心がないといけません。周囲にはきれいな自然があるのに、その自然の美しさにも気づかずに、夢中で、お百度を踏んでいる人の心の中は、あわれであります。自然を尊ばない心が自然破壊を来しました。


第八章 大地に感謝せよ

 天を仰いで神に感謝する人はあっても、大地にひれ伏して、大地に感謝するという人は少ないようです。
 キリストが、「神よ、神よと呼ぶもの、必ずしも天国に入ることあたわず」といわれたことの中には、神に対する敬虔さ、謙虚さがなければいけないということも教えられたのでありますが、神に対する敬虔さ、謙虚さが欠けては、また正しい指導者とはいえません。
 大地も神が創造されたのであり、この大地の上にわれわれは生きているのでありますから、この「大地」にも感謝をしないといけません。神に対する敬虔さ、謙虚さは、大地にひれ伏して感謝する心から生まれてくるものであります。日本の多くの宗教指導者は、大地に感謝することを忘れているようです。宗教指導者達が、どこか一ヵ所に集まって、大地にひれ伏して神に感謝するという行事をしたら、日本の宗教界も大きく変るでしょう。



法 語   1978年11月3号

 法語とは真理のことばであります。あなたがこの法語の意味をよく知り、この通りに実践される時、必ずあなたの上に心の安らぎと幸せをもたらす言葉であります。祈りについての高橋信次先生の言葉を解説いたします。


第九章 祈りとは

 祈りは人間が、あの世、天上界(実在界)から地上に肉体を持った時から始まります。
 霊のふるさとである天上界では、“祈り”は即行為となっているので、殊更に祈らなくてもよいのです。思うこと、考えることが、そのまま祈りとなって神仏と調和しているからです。ところが、人間は肉体を持つと、天上界で持っていた心を忘れ、五官に左右され六根にその身を、心をまかせて煩悩に己れ自身を埋没させ、自我に生きようとします。
「苦しい時の神だのみ」というのは、現実の自分がもうどうにもならなくなった時にどこに救いを求めればよいのかというと、それは「天上界」「あの世」である、ということを知っている本当の自分が、霊のふるさとである天上界、あの世のことを思い出して祈る行為なのであります。


弟十章 虚心に祈ること

 自分の慾望からでなくて、そうあることが自分自身の幸せだけでなくて、関係のある周囲のすべての人々の幸せであるということであったら、堂々と祈りなさい。
 キリストは、「汝ら神に祈る時、頭に灰をかむり、しかめ顔するな」と祈る時の心のあり方を教えていられます。これは、「私は憐れなる者であります。この憐れなる私に恵みをお与え下さい」というような、泣きつく祈りはしてはならぬ。そういう実現しないということを教えていられるのであります。
 日本人には、信仰深き者は、いつも「わたくしは、あわれなる者であります。罪深き者であります。悲しい者であります。」と、自分をみじめだと思っていないと本当の信仰者ではないと思っている人が沢山ありますが、それはまちがっています。
 人間は霊であり神の子であり、過去の転生輪廻の中ですばらしい体験をして、豊かな内在された智慧を持っているのであります。だから、現実的にはまだ実現してない、いろいろなことが一ぱいあるけれども、実際は内在された豊かな智慧を持つことのすばらしい神の子であるという自覚を持って、それをそのまますなおに認めて祈らないといけないのであります。



第十一章 祈りが実現する道

 これまでの日本の宗教指導者は、祈ったことが実現するとすぐ「神さまが祈りを叶えて下さった」といってきました。それはまちがいであって、天地宇宙を創造された神さまが直接一人一人の祈りを聞いて下さるということはないのであります。天上界は如来界、菩薩界、神界、霊界、幽界という段階があり、一人一人にはその人の守護霊、指導霊があります。その人が煩悩にふりまわされていた自分を反省して懺悔し、虚心に祈った時は、その人の守護霊、指導霊が救ってくれるのです。守護、守護霊に力がない場合には、その守護、指導霊が、より高い次元の光の天使に頼んで救い手をさしのべて下さるということになるのであります。


第十二章 遠隔思念が動く理由

 遠くにいる人のために祈って、その祈りが聞かれたという現象は、祈った人の念が直接先方の人にとどいたのではないのです。この点もこれまでの日本の宗教指導者はまちがっています。これは祈る人の守護、指導霊が、祈られる人の守護、指導霊にその念を伝達するのです。祈る人も心をきれいに安らかにして祈らなければいけませんが、祈られる人も心をきれいにしてその祈りをすなおに受ける心になると、祈りの念を受けた守護、指導霊が、その人の心の内側から囁いて教えてくれるのです。



法 語   1978年12月4号

法語はあなたに悟りの目をひからせる言葉のエッセンスであります。何回でもくりかえして、心に残るまでよんで下さい。一年の終りに反省してみましょう。


第十三章 反省とは

 反省は心をきれいにして、明日へ未来へと新しく前進するためにするのであります。
 過去をふり返って反省して、感情的な涙を流すことに自己陶酔して、明日へと前進する勇気と希望と、そういう心が持てたことに感謝する心が湧かなかったら、それは正しい反省ではありません。
 反省したがために、かえって心をせまく暗くしている人があります。勿論それはこれまでの、まちがった指導者、講師の罪でもあります。
 反省は自分が神の子(やがて宇宙即我に到達するところの自分)であることを悟るための前段階としてするのであります。


弟十四章 反省は智慧でせよ

 GLAの反省研修会に参加した人達の多くは、生まれてから現在までを、感情で反省して感傷的な涙を流しました。涙を流す反省は心をせまく小さく暗くします。智慧によって反省して流す涙からは、真我が自覚され、心は広く大きく豊かになり、前途に明るい希望を持ち、喜んで努力する勇気が湧いてきます。
 お釈迦さまが説かれた教えは智慧の教えであります。法に照らして自分の在り方を自分で決定してゆく智慧を働かせるとき、そこに神の慈悲を発見するのです。智慧のない慈悲というものは本来ないのです。慈悲という名によって智慧を働かせることをさせない宗教は邪教であります。拝ませること、人を信じさせることは、その人から智慧の働きを奪ってしまうからいけないのです。

感傷的な涙を、智慧の涙に変えゆくとき心の中から光りが輝いてきます。


第十五章 反省と業と運命

 過去を反省して、同じような失敗を何回もしていたら、それがあなたのいちばん心を決めて修正しなければならないカルマです。カルマは身、口、意の三業によってつくられますが、身、口、意の三業も、元は、一つの心の働きであります。自分の心がつくり出したものでありますから、カルマを変えるのは心のあり方を変える以外にありません。
 運命はその人のカルマの現れですから、運命を変えようとするには、心の持ち方、あり方を変える以外に変える方法はないのであります。運命を変えようとして、心を変えずにいくら拝んでも祈とうしてもらっても、運命は変りません。拝んでもらったり祈祷してもらうと金がかかりますが、自分で自分の心を変えるには金はいりません。
 もっとも、カルマには善いカルマもありますから、よいカルマはますます伸ばせばよいので変える必要はないわけです。


第十六章 反省と止観と内観

 高橋信次先生は、「反省は止観」である。といっていられました。「止観」というのは「止の禅定」と「観の禅定」の二つの意味があります。「止の禅定」(とどまってみる)これは即ち普通にいわれる反省です。内観道場でやっている「内観」も反省です。これまでのGLAの反省研修会にも、また内観道場にも「観の禅定」の指導がありませんでした。「観の禅定」をしないのでは、高橋信次先生がいわれました本当の「反省」にはなっていないのです。
 「止の禅定」即ちいわゆる通俗的な反省だけでは、心を大きく広く豊かに明るくすることは出来ません。
 大牟田市の「正法有明道場」では、本当の反省禅定の指導をしておりますので、来年は一度は、大牟田での研修を受けて下さい。そうされれば、必ず、あなたは「人生の勇者」になられるでしょう。



法 語   1979年新年号 5号

 新しい年の、新しい自覚は、あなたが「神の子」であるということを、しっかり自覚して「天地一切に感謝」して下さることです。


第十七章 神は光りである

 お釈迦さまの悟りは、「大宇宙の始まりには、光明という神の意識だけがそこにあった」ということを知られたことによってひらかれました。キリストの悟りは、「神、光あれといいたまいければ光ありき、はじめに神、天と地とをつくりたまへり」ということから始まりました。仏教もキリスト教も、どちらも真理は一つであります。
 神は光であれば、神の子である人間も、もとより光でなければなりません。神が罪や悪をつくられたのではないのであります。真理即ち正法を知らない人間が、自分の心の歪みによってつくり出したのが、罪や悪であります。だから本来、神の世界には罪や悪はないのであります。自分は本来、「光りの子」であることをのみ瞑想して下さい。そこから、あなたも「宇宙即我」に到達することができられるのです。


第十八章 宇宙即我

 高橋信次先生は、「あなた達も宇宙即我に到達しなければならないのである」と教えていられました。お釈迦さまも、人間として到達しなければならない道を説かれたのであります。
  「意識が拡大すると、太陽をはじめとして星々(惑星群)が、すべて自己の意識の中で回転し、そうしてその中で呼吸する一切の生物は、わが肉体の一部であることに気付く。
 人は宇宙大の意識を持って生活している。肉体にその意識が小さく固まり、とどまるために、宇宙大の自己を見失ってしまうのだ」

                                      「偉大なる悟り」より。

 本来、宇宙即我であるからこそ、人間は、宇宙即我を悟ることができるのであって、それは、瓦をいくら磨いてもダイヤモンドにならないように、本来、ダイヤモンドであるからこそ磨けば光るのと同じことであります。


第十九章 偽我は自分ではない

 真理を知らない自分、法を知らない自分が偽我であります。日本人は永い間、「罪悪深重の凡夫である。」と自分のことを思ってきました。然し本当の自分とは、「そういうことは本当でない」ということを知っている真我なる自分が本当の自分であります。
 「自己の確立」とは、「真我なる自分」を自覚することであります。偽我なる自分を自分だと思って、この偽我なる自分をよくしようと思っても、それは手にくさいものを握って、くさくないようにしようと手をふり廻わしていることとおなじことであって、くさくないようにしようと思ったら、手に握っているくさいものを捨てればよいのと同じように、偽我なる自分は本当の自分ではなかったと心から放して、真我こそ自分であったと自覚の転換をすることです。


第二十章 真我こそ自分である

 心の大きさ、豊かさ、明るさは、永い輪廻転生によって、どの程度、真我なる自分、宇宙即我なる自分を自覚しているか、その自覚の程度によって決まるのであります。その自覚を深めるには瞑想禅定をしなければなりません。NHKの教育テレビ「瞑想の時間」で瞑想は、壁に張ってあるマンダラを半眼にみつめて無念無想になるとか、イメージを描いてそれに心を集中するという説明がありましたが、それはどちらもまちがっています。
 ヨガの瞑想道場の指導にもまちがいがあるようです。正しい瞑想禅定は、自分が神の子であり、真我であることを、念を集中するのでなくて、そのまますなおに認めることから始めるのです。その人の心の大きさによって心が肉体を離れて、肉体の自分を上の方から客観化できるようになります。



法 語   1979年2月6号

 法語とは真理のことばであります。あなたがこの法語の意味をよく知り、その通りに実践される時、必ずあなたの上に、心のやすらぎと幸せをもたらす言葉であります。


第二十一章 智慧と愛の調和

 慈悲とは、智慧と愛が統一され調和されたものをいうのであります。愛さえあればよいのであるといって愛だけを強調する宗教家がありますが、それはまちがっております。
 智慧のない愛は人をそこないます。智慧のない愛しかたをされた子供がどんなに非行化してゆくか?
この大宇宙が、秩序整然として一つの体系をもってつくられたのは神の智慧によってであります。人間や動物が吐き出した炭酸ガスを、植物が同化作用によってかわりに酸素を出すという相関々係をつくられたのも神の智慧であります。
 病気や不幸になっている人はあっても智慧が足りなかったのです。私たちの心の中には、過去の輪廻転生で得た智慧が内在されています。今まで「愛」という言葉のみを多く聞かされてきた人たちは、「自分は智慧のある存在である」ということを自分で自分にいい聞かせて下さい。


第二十二章 自分の内に内在していても「ある」ということを知らなければ、「ない」のと同じである

 「自覚する」ということは、「自分でそうだと覚る」ということです。「覚」という字は「悟る」ということです。「悟った人」のことを「覚者(ほとけ)」と書く場合があります。
 自分がどんなにすばらしいものを持っていても、持っているということに気がつかなければ「ない」のと同じであります。皆さんにはこういう経験があると思います。
 金がまだある、と思って買物しようと思った。品物を選んでいざ金を払おうと思って財布をひらいたら金がなかった。家に帰って、「たしかにまだ持っていた筈だ」と思ってポケットをあちこち探してみたら、別のポケットにまだ金が入っていたということが。
 これは実際は持っていたのです。持っていても、持っているということに気がつかなければなにも買うことができません。それと同じように、人間も、どんなにすばらしい智慧や愛をもっていても、「智慧であり、愛の存在である」ということに気がつかなければ、その智慧、愛を生かして使うことはできないのであります。
 人間はすばらしい智慧と愛の綜合された慈悲の霊的存在であるということを自覚しなさいと、お釈迦さまが説法されたのが、法華経の中に説かれてある「繋(けい)宝珠の譬」の話であります。


第二十三章 知ることの大事さ

「知識は実践した時に智慧となる」と高橋信次先生はいつもいっていられました。知識は実践した時に智慧となると同時にまた、知識即ち知るということを通して、これまでの永い輪廻転生の中で得た智慧を日常生活の上にひき出してくることができるのであります。
 知識を得るということをしなくてもよいとか、また、知識は必要はないといっている指導者がありますが、それはまちがいです。たとえば、自動車の運転にしたって、その運転の方法を知らないと運転できないではありませんか。ましてこの人生をどのように生きればよいか、それを知ることなしにはよい生き方もできないでしょう。だからお釈迦さまは、まず、「知る」ことをしなさい。知ったら実践しなさい。信仰は「知る」ことが大事だと教えられたのであります。


第二十四章「なるほど」ということ

 あなた方が何かを知った時、また教えられた時、「あゝ、なるほどそうか」と納得されるものがあるでしょう。その「なるほど」と納得するのが智慧の働きです。心の中に内在されていた智慧と、心の外に現象として現れているものとが内外相応した時に、「なるほど」とか「合点がいった」とか「うん、そうだ、それがほんとだ」とかと思うのです。
 また、はじめて知ったことを実際にやってみた時にも、「なるほど、こうすればよいのか」と思うでしょう。それは知識が智慧となったのです。
 知識は豊かであった方がよいのです。どんな人の話でも、どんな本でもよんで、悪いところは捨てて、よいところは心の糧にすればよいのです。
 知識を得ることを限定するのはまちがっています。「なるほど」と思うことが多いほど人生は幸福になるのです。



法 語   1979年3月7号

第二十五章 心の波長を合わす

 人間は本来、幸福という環境の中で魂を磨くようになっているのです。あなたにとっての幸せは、あなたが祈っても祈らなくても既に約束されているのです。その幸福になる道は、あなた自身がこの世に生まれる時に、守護霊と約束してきているのです。
 心の内から囁いてくれる守護霊の声に耳を傾けなさい。守護霊の声は肉体の耳に外から聞えてくるのではありません。外から聞えてくるのは動物霊か憑依霊です。また、心の内から聞えてくるといっても、あなたの心が乱れ騒いでいる時に聞えてくるのも正しくはありません。正しい守護霊の声は、あなたが宇宙創造の神に、天地万物一切のものに、すべての人に感謝し、自分が神の子であることを信じて、自分の過去の失敗や、自分の心の暗さにとらわれなくなった時に、心の内から聞えてくるのです。
 心の波長を合わせるというのは、神に、すべてのものに、そうして自分自身に対しても感謝できる心になることであります。静かに落着いた心になった時に、じっと心の内から囁いてくる声に耳を傾けて下さい。最初は小さくて聞きとれないくらいであっても、あなたが聞く習慣をつけられるならば、その声は次第に大きくなってきます。
 その内なる声の囁きを大事にされるならばあなたには人生の失敗はなく、常に幸福であることができるのです。


第二十六章 幸福は既に与えられている

 オカゲ信心は利己主義の心であります。利己主義の心は神に波長が合いません。オカゲ信心で、一時その人が豊かになったようであっても、その富は必ずその人を不幸にします。
 オカゲを望まない心になって足ることを知り、毎日を感謝の心で過すようになった時、必要なものは必ず与えられるのであります。
 感謝の心が報恩の心となって、それが心からの奉仕となった時の心の喜びが、あなたにとってもっとも必要な幸福の状態を、あなた自身がつくり出して行くので、既に幸福はあなたの心の中にあるのであって、ないものが外から与えられるのではないのであります。
 「心がモノをつくる」「心が運命をつくる」といわれていますが、自分の心を豊かに明るくした時に環境も自然に整ってくるのであります。オカゲ信心は、自分の欲望の達成のために神さまを利用しようという心があります。それは正しい信仰ではないでしょう。


第二十七章 分を知る

 人は生まれてくる時に、こんどはどういう環境の中で、どういう仕事をして、どういう体験をして魂を向上させるかを、守護霊と打合せて生まれてきます。その計画は生まれてきた時は潜在意識の中にかくされていて、現在意識の表面の心ではわからないことになっています。最初からそういうことがわかっていたら苦労せずにすむと思われますが、最初からわかっていたら、入学試験の問題を最初から教えられたことと同じで、本当の勉強になりません。こうするのが本当ではないか、ああするのが本当ではないか、といろいろな試行錯誤をくり返すなかから、本当の自分の生き方、あり方を知って行くようになっているのです。
 「あの人は分を知らない」とか、「あの人は分別がある」とかという云い方がされるのは、人にはそれぞれに為さなければならない本分というものがあるということであり、その為さなければならないというものは、生れてくる時に計画し、守護霊に協力を願って生まれてくるのであります。ですから、心に思うことがなんでも実現するのではないのであって、その人が生まれてくる時に計画した、その分の範囲内のことは実現しても、その分でないものは実現しないということになるのであります。だから自分の分を知るということが大事であります。


第二十八章 足るを知る

 「分を知る」ということは同時に「足ることを知る」ということになります。今の私達の人生は、宇宙即我に到達するための永い輪廻転生の中の一コマなのであり、ただ一回の人生だけですべてを悟りつくす、経験しつくすということはできないのでありますから、今度の人生では自分は何を為し、何を学ぶことが正しいのであるかをよく心の内に聞かなければならないのです。
 人には欲望があります。平社員でいるよりは社長がいい、と思うでしょう。では、「社長になって実際に会社を経営できるか」と自問自答した時に、自分の心に偽わりなしに「やれる」と云える人もあれば、「さてとなると、とてもできない」と思う人もある筈です。
 金もいまよりはあった方がよいでしょう。しかし、あっても使いこなすことができず、かえって心を墜落させ、また遺産として残したために子供が争うというようなものならむしろない方が幸せです。金は何万円以上持っていれば幸福で、それ以下は不幸だというようなものではありません。金もまた、人間が魂の勉強をして行くために、生活の便宜上つくり出したものの一つなのですから、金のために心を一喜一憂させることは本末転倒なので、足ることを知った安らかな心を知った上で、また金の必要性を知るということが必要であります。「祈ればなんでも叶えられる」と説いている宗教がありますが、足ることを知らない分を超えた祈りは実現しないのであります。祈りも分を知り足ることを知った上でしなければいけません。その祈りが、その人の分に叶うものであったら必ず守護霊をはじめ天上界からの協力があって実現するのであります。



法 語   1979年4月8号

第二十九章 天上界の協力を得るには

 私たちが天上界から援助される範囲は、私たちの理解の広さ、悟り、自覚の広さによって規定されます。私たちは神の意識そのものであり、輪廻転生の経験による智慧を持っています。自分が神の意識即ち神の子であることの自覚と輪廻転生の経験による智慧が、私たちの理解、悟りの広さであります。
 あなたが、いままでより以上に天上界からの援助協力を受けられるためには、新しい知識による新しい経験をされないといけないことになります。新しい経験を進んでする勇気と努力のみがあなたの悟りを広げてゆくのです。いままで知っていること、やってきたことのなかにだけ安住していたのでは少しも前進はなく、自覚も理解も悟りも広がってはゆきません。試行錯誤の課程を通じて理解も自覚も悟りも深まって、天上界からの新しい援助も得られるのですから、失敗を恐れずに前進することです。


第三十章 自分が自分を助ける

 失敗を恐れない新しい経験によってのみ新しい天上界の協力も得られるのですから結局、自分を助けるものは自分であるということになります。他力信仰をして、自分からは努力しない人が最後には失敗に終るのは、以上のような理由からであります。
何人(なんびと)も、私たち自身の代りになることはできません。自分のことは一切自分の責任ですから、自分のことを自分でしないで、人に代ってやってもらうとする他力信仰では、決して自分が救われないのです。光の大指導霊は、「現代はニセモノの指導者と欠点多き予言者達の時代である」と警告をしています。
 ニセモノの指導者とは、「人を救えば自分が救われる」とか、「祈れば、無限供給が得られる」と説く人たちであります。人の欲望に神を従わせようとするような教を説く人たちです。彼らは地縛霊と同様に人の心に不安を生じさせます。


第三十一章 欠点多き予言者とは

 欠点の多い予言者は、絶えず危機感、恐怖心を誘って天災地変がくることを予言し、人の心に安らかさを与えず、常に不安をかき立てます。ニセモノの指導者が同時にニセ予言者であるという場合が多いようです。
 正法を知っていられる方々には、人の心に不安を与えることがどんなに大きな罪であるかを知っていられるでしょう。ある宗教では、「日本沈没があるからメシアと呼ばれる特定の人間を信ずる人のみを救って、そうでない人は救わないというようなことをされることはありません。心が正しく法にかなっている人は助かるでしょうし、また、天災地変で無一物になるという経験によって、物質への執着をなくすることを学ばなければならない人もあるのですし、どんな時でも、どんなことが起っても不動心を持つのが正法です。


三十二章 あの世からの指導は

 高級な指導霊、また守護霊は、その人の自主性を無視して勝手に強制的に指導するというようなことはしません。「なぜ、天上界はあの人を正しく指導されないのであろうか」ということをよく聞きますが、その人がまちがった暗い考えをしているのを、無理矢理に強制して明るい正しい考え方をするようにはしないのです。高橋信次先生が、「如来、菩薩といえども心を暗くして地獄界へ堕ちるものもある」といっていられたのは、すべて人には心の自由が与えられているからです。
 どんな人も、自分の心の悟り以上には偉大ではあり得ないのですから、自分を偉大にするには、自分で自分を偉大に成長させる以外にはありません。日一日と自分自身を成長させることが、神と調和する実践の方法が「八正道」であります。
 高級な指導霊、守護霊は、その人を悟らせるように霊感を与えようと努力するのです。



法 語   1979年5月9号

第三十三章 作用と反作用

 物理学に於ける「作用と反作用」の法則は同時に心の法則でもあります。「凡ての作用には、大きさが等しく方向が反対なる反作用が伴う」この「作用と反作用」の法則を、心の面で表現したのが「善因善果」「悪因悪果」という「因縁」の法則であります。科学の法則と心の法則は一つであり、この一つの法則を創造して、心と物質とを同一法則によって活動せしめている大生命力、大エネルギーを宗教的には「神」というのです。法則は人間のほしいままな心によって左右されることはありません。この人は悪いことをしたが、前に善いことをしたことがあるから今度は少し手加減して悪いことが起らないようにしてやろうというようなことは絶対にないのです。その人の運命は、その人がこの法則を知っているにせよ知らないにせよ厳密にこの法則によってつくられてゆくのであります。


第三十四章 法則の管理者は自分である

 人間が神の子であるということは、「作用と反作用」の法則を自由にコントロールできる心の自由を与えられてあるということです。
あなたはあなたの今の運命がどうであろうとも、それはあなたが知っていたにせよ知らなかったにせよ、みなあなた自身の心が造り出したものであって誰をも怨むことはできないのです。怨む、憎むということは自分の運命の責任を他に転嫁していることです。自分が下手な絵を画いたのに、あの人が私にこんな下手な絵を書かせたと思って、自分ではなにもしようとしないのが、怨むとか憎むという心なのですから、怨む心、憎む心が自分にある間は運命は絶対によくならないのです。十年間の腎臓病が治られた大牟田の小柳さんは、「憎んでいる人があったらその人を赦しなさい。赦すことによって誰が一番幸せになるかというと、赦すことができたあなた自身である」という話を研修道場で聞かれて、「そうだ赦そう」と思われた瞬間から病気がよくなったのです。これをよまれた方で、もし誰かを憎み怨んでいたとしたら、その人を赦しなさい。そうすれば必ずあなたの運命はよくなります。われわれは、自分自身の運命の主人公なのです。


第三十五章 先祖の因縁ではない

 これまで日本の宗教家は、なかにあると「それは先祖の因縁だから、先祖の供養をよくしなさい」と指導してきました。一方では先祖に感謝しなさいと教えて、一方ではこのように説いてきたために、「自分が不幸なのは先祖の因縁だ」とか、「こんな病気をするのは先祖が悪いのだ」、「貧乏しているのは先祖が陰徳をつまなかったからだ」と、知らず知らずのうちに先祖を憎む心を起させてしまいました。この矛盾にも気づいていないばかりか、法を犯し真理を犯していることにも気づいていません。
 先祖の因縁が子孫にくることは絶対にないのです。先祖がしたことは、みな先祖が受取るし、あなたがしたことはあなたが受取るのです。あなたが一所懸命に信仰していて、どうしても自分の運命がよくならないとしたら、心の奥底で知らず知らずのうちに「先祖の因縁だ」と先祖を怨んでいる心があるのではないか、反省をしてみて下さい。われわれはみな心の自由が与えられているのです。自分の運命は自分の責任なのですから、あなた自身が努力されるとあなたの運命は確実によくなるのです。
 先祖の因縁だと思って、自分で自分の心を束縛していたその心の束縛から、あなた自身を解放して、大いなる心の自由を獲得しなさい。


第三十六章 光りのみが実在である

 神は光であり、太陽は光りです。暗いというのは、そこに光りがないという状態であるに過ぎません。悪とは、悪そのものがそこにあるのではないのであって、それは法を知らなかった、法を誤用した結果にしか過ぎないのです。だから、ここにあるこの「悪」をなくしようと思ってはなりません。法を知らず、また知っていても法をまちがって使った結果であるにしか過ぎないのですから、法を知って法を正しく使われると、それは善となって現われて、悪をなくしようと思わなくても悪の状態は自然に消えてしまうのです。神は罰を与えません。罰が当ったようにみえるのは、われわれが「作用と反作用」の法則、「善因善果、悪因悪果」の法則を誤用した結果にしか過ぎません。まちがって使ったら、今度は正しく使えばよいのです。どこがまちがっていたかを知るのが反省です。「知る」「反省する」という働きは智慧の働きなのですから、正しく信仰するには智慧が大事であります。智慧の大事さを説かない宗教は邪教です。



法 語   1979年6月10号

第三十七章 神の国と神の義とを求めよ

 キリストはそういわれたと聖書に書いてあります。いろいろな教団の指導者は、この言葉を巧みにすり替えて、教団のために奉仕することが、神の国を求めることであると説いています。私が前にいた生長の家でも、「第一義とせよ。第一義とは神の国と神の義を求めることであって、それは、生長の家教団のために寄付し、会員をふやし月刊誌を一括して百部買って、人に配ることである」といっていました。教団に奉仕することは自己満足にしかすぎません。キリストが教えられた本当の意味は、神の慈悲、愛は宇宙の真理となり宇宙の姿となっている。人間は神の子であることを知って神がつくられた正法を正しく実践することが、神の国と神の義とを求めることであると教えられたのであります。
 一つの教団の枠の中には入りこんで、その教団の制約の下でしか信仰しないという信仰はホンモノではありません。正しい信仰を求めるには、いまあなたがいられる教団の枠から外へ出られることです。


第三十八章 さらばその余のものは与えられるべし

 神の国と神の義とを求めることは教団の方針に従い、教団のために奉仕することであって、そうしたら、あなたの願いは叶えられ、あなたは幸福になるのであると、どこの教団の指導者も説いています。創価学会が大石寺を建てるとき、「いま一万円寄付すれば大石寺が建った時は十万円になって返ってくる」といって、わづか三日間で三百五十五億円集めた話は有名です。創価学会でこれを総供養といっています。大石寺は立派に建ちましたが信者は誰一人として金は返りませんでした。
 そういう事実がありながら、さらにその後総供養をやって千四百億円集めたといわれます。「出すとお蔭がありますよ」といって、出させる方もですが、出す方も出す方だと思います。これと同じやり方をどこの教団でもやっております。こうした金銭面からいえば日本の多くの教団は、信者が幸福になりたいと願っているその心を巧みに利用した搾取収奪団体だといえます。いづれ近くみなが目ざめて宗教界が大混乱を起す日が来ます。
 キリストがいわれましたのは、正しく正法を実践することを喜びとして生活していれば求めようとしなくとも自然になくてならぬ必要なものは整ってくると教えられたのであります。なにかを求める心を持って正法を実践するのはまちがいです。正しく正法を実践すること、それによって起る心の喜び、心の拡大、心の成長、心の豊かさ、それを喜びとして生活することをしなければいけません。そうすれば自然に必要なものは与えられるのです。


第三十九章 求めよさらば与えられん

 このこともまちがって教えられています。欲しいと思うものはなんでも祈りなさい、そうすれば与えられます、といって特に生長の家では「無限供給の祈り」といって教えております。「一億円すでに与えられてありがとうございます」と祈れば必ず与えられると、全国を説いて廻って人気を集めた有名な講師がありましたが、この祈りによって一億円儲けた人は一人もありませんでした。

 『天と地とを結ぶ電話』百三十八貢に
 「例へば高級指導霊達は次のように警告する、「得られる筈のないものを与えようと約束し、吾々凡ての者を魅きつける「無より有」を与へんと約束する「指導者」に注意せよ」大指導霊達は、そのような指導者はニセモノの指導者であると警告している、と書いてあります。
 キリストが求めよといわれたのは、神理を求めよ、切実に神理を知りたいと思えば必ず与えられる。いろいろな人が自分の前に現われて、また実際の自分の体験から、或は自然のたゝずまいの中から、必ず与えられると説かれたのであって、いまの日本の各教団が説いているような、なんでも欲望を叶えられるという意味で説かれたのではありません。
 われわれは、魂を偉大に成長させることを目的として生まれてきているのでありますから、死ぬ時に持って行けないような、地位、名誉、財産を求めて祈りをしてはならないのであります。


第四十章 正念と祈り

 ではどのような祈りが正しいのであるか。
 人生の目的は調和にあるのですから、足ることを知った心で、調和がくるように祈ることは正しいのです。念は願いであり、人は今日よりは明日はよくなりたいと願うからまた生きてゆけるのであります。
 ものを考える、ものを思うのは、われわれの心の中に一切を生み出す創造エネルギーがあるからであり、その創造エネルギーは宇宙創造のエネルギーが、あなたとなって固体化個性化したものでありますから、われわれは、その祈りが、神の心に叶っているかどうかを考えなければなりません。人間は誰しもが正しく生きようと思い、また今日よりは明日はよくなりたいという目的意識を持っています。
 自己本位でないところの、正しい目的にそった調和を求めての努力実践をしながら、その目的にそっての願いごと、祈りは、必ず天上界からの協力があるのですから、このような祈りは堂々としてよいのであります。
 九州のある方は、人間は努力すれば信仰などいらないといって、自己本位の努力をしていて何億という仕事をしていられましたが、見事に失敗されました。金廻りのよい時は出入りしていた人達も、金がなくなると来なくなりました。そうしてやっと正法を聞くことになりました。その人はいっていられました。 「わたしは三日間、正法を聞いて心のあり方が大体わかりました。よし最初からやり直しだ、と心に決めて祈ってやるようになりましたら、こんなに調子よくなってよいのかと、びっくりするほど調子がよくなって、人生に自信ができました」と。
 神の国と神の義を求め、且祈ることは正しい心のあり方、正しい神、正しい神理を教える正法、即ち歪められてないところの釈迦、キリストの教の原点にかえらなければいけないのであります。



法 語   1979年10月14号

四十一章 霊能力に片寄ってはいけない

 五月十三日「二十一世紀の宗教と科学」の大講演会が終った後の座談会で、日本PS学会理事の坂元邁先生が、ある有名な物品引寄せの霊能者の話をされた。私がその霊能者を知ったのは昭和三十六年であった。その人は仏像を出したり真珠を出したり、神前に供えた空の瓶の中に酒を出したりする。今でもその人が出した真珠など持っているが、その人がPS学会の科学者達の研究の対象になっているというのである。科学者が研究の対象にするのはよいことであるが、無知な信仰をする人達は、なにか不思議な霊能力を持っている人があると、盲目的にその人を神さまみたいに信じてしまう。多少ものを当てられたりするとなんでもその人に聞こうとして自分で判断するということをしない。それがヌミノーゼ心理である。正常な心理状態ではないのである。霊能力が可能だという知識をもったり、それを事実として認めても、霊能力を信ずる人が直ちに一層すぐれた人間であるということにはならないのであるが、ともするとその霊能力者に親しいとか言葉をかけられたとか握手してもらったとかで、急に人よりもえらくなったように思ってしまう人が多い。
 その人に近いからといって、なにもその人の人間性が急にりっぱになるわけではないはずである。


第四十二章 なにを学ぶか

 私はその霊能力者のところに三回行ってやめた。それはその人が、あてことばかりして法を説かないし、私の目の前で夫婦げんかを始めたからである。霊能力者も同じ人間だから、それは夫婦げんかもするさという人があるかもわからないが、客があって一方では神棚に向って祈りながら、なにもそんな時に夫婦げんかをしなくてもいいのではないのか?。その霊能力者も小さい時から苦労して滝に打たれたりして修行されたということであったが、社会的な良識、教養がないのである。
 高橋信次先生は、「その人のいっていることと、やっていることがちがっている人のいうことを信じてはならない」と、くり返していっていられた。
 ふしぎな霊能力があるということを知った人たちは、今までよりも広い視野を持ち、そのことにつづいて人生の神秘さについて、永遠に「なぜなぜ」と追求して、その知識は、その人に一層高い道徳をもち来たし、その上に調和ある人生を築くようになって行かなければいけないのであって、その霊能力を単に興味の対象としたり、またその霊能力者を神様みたいにしんじてしまうということはしてはならないのである。


第四十三章 無 記

 「あの世があるのですか」
 「魂はあるのですか」
 「あの世はどうなっているのですか」
 「神さまはあるのですか」

 このような質問を受けられたお釈迦さまはなんにも答えられなかったと、お経の中に残っているが、このことを「無記」というのである。その質問のあとで説かれたのは、
 「あなたたちは、神さまがあり、霊があり、あの世があるということがわからなければ、今日一日の生活ができないということはないであろう。われわれにとって大事なことは、今日一日の生活を八正道によって正しくして心を安らかにし、調和ある人生をつくり出して自分の心を大きくすることである。わからないからといって、今日一日の人生をおろそかにしてはならない。今日一日をしっかりと生ききりなさい」ということであった。
 このことがのちに大乗仏教時代になると、「あの世は空だといわれた」ということになり、現在、日本仏教が「無神論、無霊魂論」の立場をとっている原因なのである。
 お釈迦さまが天上界のことについて説かれたことは「生天論」としてのこっているのであるから、「無記」というところだけをつかまえて直ちに「一切は空である」と無神論、無霊魂論だというのはまちがいであるが、また霊能力だけに片寄り、霊能を得ようとして、毎日毎日の生活をおろそかにすることは尚一層いけないことで、それは、われわれが肉体をもって魂の修行に出てきた人生の目的に反するからである。


第四十四章 知識より体験が大事である

 いろいろたくさん知っていることも大事である。知らなければ実行することすらできない。正しく信仰する者は広い視野を持たなければいけない。心のせまい人が心を広くしようとするには、まず視野を広くすることから始めた方がよい。心のせまい人とは要するに視野のせまい人である。
 いわゆる「もの知り」といわれる、いろんなことを知っている人がある。しかしそういう人で人格的にはどうかと顔をしかめたくなるような人がある。「もの知り」の人の話は時には面白く感心することがあるが、深く人を感動させ、その感動がその人をして実行にまでかり立てるということはない。しかし体験して身体で覚えていられる人の話は、深い感動が、「よし、それなら自分もやろう」という行動にまでかり立てる力を持っている。
 行動実践によってのみ、心を大きく成長させることができるのであって、知識が心を大きく成長させることはないのである。だから話を聞かれるなら体験した人の話を聞かれるべきである。



法 語   1979年11月15号

第四十五章 泥んこ遊びはさせた方がよい

 幼児は泥んこ遊びや粘土遊びや、にちゃにちゃしたものをもて遊ぶのがすきである。幼児はそのにちゃにちゃした手指の感触の中に、おかあさんの膝に抱かれてお乳を呑みながら一方の手をおかあさんの胸にいれ、空いた方の乳房をまさぐっていたあの時の感触を感じ、その時に抱いた心の安らかさを味わっているのである。するなと叱られても幼児が泥んこ遊びをするのはその心の安らかさを味わっていると同時に、なんでも自分の思う通りにこね廻してつくれる創造の喜びを体験しているのである。服が汚れて洗濯の手間がかかるのをおそれて、子供に泥んこ遊びをさせない母親は、子供の大事な心の成長を妨げているのであり、泥んこ遊びをさせられなかった子供は心の安らかさを体験させられないから情緒不安定になる率が高いのである。落着きのないいつもはしゃいでばかりいる子供は母親によって心の安らかさの体験を奪われた子供なのであって、いくら「静かにしなさい」と叱ってみても治らないのである。これを治す道は、子供をしかと抱きしめて、母親の膝の上で心の安らかさを体験させる以外にないのである。


第四十六章 ミルクは抱いて飲ませなさい

 ソ連が共産党の闘士を育てるというので、生まれたばかりのあかちゃんを母親の手からひき離し、国家で養育するするということをやったことがある。これは完全に失敗に終りました。抱かれることもなく機械的にミルクをのまされた幼児達がハイハイをはじめるようになると幼児達はお互いに噛みついて血だらけになってしまって、その血の中を這いずり廻って相手を見ては噛みつくということをやり、結局育児を共産党主義的考え方と手段でやるのは失敗だということになり、母親の手にかえされることになりました。情緒不安定児、自閉症児は母親の膝に抱かれる時間が少なく、また母親がことばをかけることの少なかった子供達である。うちの子はおとなしくて泣きもしない育て易い子供だということでテレビの前にねかされていた子供が自閉症になり易いのである。いつも耳には入るのはテレビを通して出ている声と音だけで、テレビの方はよくみるが、お母さんの生まの声を聞く機会が少ないのでお母さんから自分の名前を呼ばれても、自分の名前を呼ばれたことに関心がない子供になってしまう。
赤ちゃんは必ず名前を呼んで声をかけて抱きあげて、しっかり胸に抱いてミルクものませるようにしないといけない。お母さんの膝に抱かれていた時に味わう心の安らかさ、その安らかさが人間を落着きのあるものにするし、その安らかさが実は禅定をする時の心の安らかになるのである。だから禅定をする人は、お母さんの膝に抱かれていた時の自分の姿を想像して心の安らかさを取り戻せばいいのである。


第四十七章 幼時に愛し過ぎる弊害

 かわいい、といってはお母さんは赤ちゃんに頬ずりしたり抱擁したりする。その肌と肌のふれ合いによって相手に対する自己同一化即ち愛の感情が培かわれてゆく。ところが幼児を愛撫する母親の感情の中に、また子供が小学生から中学生となり性微が出てくるその中で、母親が幼児を愛撫する中で性的快感を味わい、また、夫によって満たされない性的欲求不満を、子供を見、世話をする中で満足させたいというような性的感情が入ってくると、その子供は性的に早くめざめ、ませて性に普通の子供以上の関心を持つようになる。性的非行に走る子供達は、知らず知らずのうちに親によってそのようにしむけられたのであり、非行に走る勇気を持たない内向型の子供は、頭の中は性のことで一杯になり、性以外のことは考えられず逆にノイローゼになるのである。甘やかされて育った男の子がノイローゼになるのは、原因は性の葛藤にある。母親は、特に男の子供の性的興奮を誘発するような愛撫のしかたをしてはいけない。


第四十八章 夫婦の調和が大事な理由

 夫に失望し、夫によって愛が満たされないと、母親は男の子供に期待をつなぐようになる。男の子供の成長につれてそこに理想の男性像を子供の上に描くようになり、特に性的特徴がはっきり出てくるようになると性的にほいのする思いを母親がかけるようになる。
 念は通ずるのであるから、男の子供はその念をうけて性についての関心を持つようになり、その性的興味を持つようになった発信源が母親にあることを知らない子供は、なんとはなしに無意識のうちに母親を性的対象として心の中で見るようになる。普通は母親を性的対象とみるのはいけないことであるとしてつぎには年上の女に関心を持つようになる。最近年上の女と結婚する男子がふえてきたのはこういうところにも原因がある。そうして多くはやはり自分の年令と釣り合った女性を結婚の対象に選ぶようになる。過度に母親に愛された男の子供は母親に心が固着して、母親と肉体関係を持っている場面を想像するようになる。そうすると、きよらかなものとして尊敬すべき母を、みだらな性的対象としてみたいということで罪悪感を感じて苦しむようになる。そうなると外へ出るのがいやになり、人がみな自分の心の秘密を知っているような気がして人の目がこわくなり暗いところにこもり勝ちになる。
 男の子供のノイローゼはこのようなケースでなるのが多いのであるから、それを治すには、まず母親が子供にそういう思いを送らないように、子供のことはさて置いて、夫に心をむけるようにするようにしなければならないのである。



法 語   1979年12月16号

第四十九章 心の合理化

 正見とは偽りなく自分の心を見つめることである。人間の心の中には、自分がまちがったことをしていることを充分に知っていながら、それをまちがいではないと正当化し合理化しようとする心がある。受験期が近づくと病気になるのもそのひとつである。健康で受験してもし不合格になると、「あいつは頭が悪いのだ」といわれるが、病気になると、病気になったから勉強ができなかったと不合格の理由を正当化して、頭が悪いといわれるのを避けることができる。即ち仮病も合理化の一つである。自分が悪いことを知っている者ほど相手に対して攻撃的になり相手を悪くいう。相手を悪くいうことによって、自分がこうするのは当然だと、自分の行為を正当化しようとするのである。他に責任転嫁する心もそうであろう。自分の心を正しく見つめられるようにならないと魂の進歩はない。


第五十章 嫉妬は正見を妨げる

 嫉妬心は相手を引きずりおろして自分が相手よりも優位に立とうとする心である。嫉妬心があるとすべてのことを否定したり圧迫したり軽くあしらったりする。相手を悪くいうことによって自分を偉いのだとみせようとする。なにかを聞いた時に、すぐそれを否定しようとする心が先に起ったら嫉妬心がある証拠であるから、相手がなにかをいったら、相手がそのように考えていることは、その人にとっては正しいことなのであると一ぺん素直に聞いて、その上で自分はどう判断すべきであるかを知性によって確めなければいけないのである。なんでもかんでも反対してすなおに聞こうとする心がないと正しく見ることができない。相手が不幸になることを喜ぶ心があるとあなた自身が幸福になれない。相手の喜びを自分のことのように喜べるようになることである。


第五十一章 都合の悪いことは忘れる

 地獄耳という人がある。地方によっては勝手耳ともいう。外のことは聞えないくせに自分のことをいわれたり自分が損させられるような話になると、「いま、なにいったか」とつめよってくる。「心ここにあらざれば聞けども聞えず」であって、聞こうという意思がなければなにごとも聞えないのである。自己保存の強い利己主義者ほど自分に都合の悪いことは忘れる。愛情が失われてくるとその人のいうことは心にとめなくなってくる。学校へ行く子供で忘れ物が多いのは、学校へ行きたくない心が働いているのであるから、なぜ学校が面白くないのか担任の先生とよく話合ってみる必要がある。人間は、愛する人のいうことは絶対に忘れない。先生が好きであったら、好きな先生のいわれることは絶対に忘れないものである。過去のいやな思い出は早く忘れようとする心がある。心の底にかくそうとしないで明るみに出して修正することである。


第五十二章 病気不幸は自己処罰である

 誰も知らないことであっても、自分で自分は悪いことをしたという罪悪感があると、こういう悪いことした人間が幸福になる筈がない。といって幸福になるチャンスが与えられてもそれを拒否して不幸の道を選ぶようになる。また、自分みたいな者は死んだ方がましなのだと思って自殺するまでの勇気もない者は病気を自分でつくる。悪かったことは二度としないようにすれば罪は赦されるのであるから、懺悔反省して心の中から罪悪感をなくすることである。
 また、心の奥底で病気になった方が都合がよいと思っている者も自分で病気をつくる。病気になりたい心を持っている者などいる筈がないと思う人があるかも知れないが実際にあるのである。病気になって同情されたいとか、病気になれば仕事しないですむとか、病気になればラクができるとか、そのような逃避する心を持っていては幸福になれない。



法 語   1980年1月17号

第五十三章 正法は万物を活(い)かす

 正法は、神が万物を生かす慈悲、愛の表現である。太陽は神の慈悲・愛の表現である。太陽信仰が始まったのは太陽が神の心の表現であり万生万物に平等に光りと熱を与えているからである。それと同じように、正法は万生万物生命を与える神の法である。正法が宗教に生かされる時、その宗教は新たな生命を得て真の生きた宗教となり、正法が政治に生かされた時、万人のための政治となり、正法が経済に生かされる時、足ることを知った貧富の差のない経済となり、正法が教育に生かされる時、それは人間性を開発し真の人間性を満足させるための教育となり、正法が会社で生かされる時、その会社は繁栄し、正法が家庭に生かされる時、家庭は真の調和を得、正法が個人に生かされる時、その人は人として自己を確立して自分の運命の主人公となるであろう。
 正法によって万生万物は復活するのである。


第五十四章 これからは綜合の時代である

 物質科学はものを細かく分析することによって発達してきた。細かく部分に分けて分析した結果、人々を生かすつもりの科学が人を殺す原子爆弾をつくり出した。原子爆弾によって沢山の人が殺されてはじめて心ある人々は分析するだけでは人は生かされないことを悟った。人間を部分に分けた唯物医学は、ますます多くの病人をつくり出した。新しくふえる病人に医学は追いつかない。分析があって綜合がなければすべては死である。自動車も細かく部品に分解すれば自動車としての用を偽さないのと同じである。
 四百年に亙る近代合理主義、科学主義の時代は終った。分析された従来の宗教、哲学、思想だけを信じている者は時代遅れになる。
 二十一世紀は綜合の時代であるが、八〇年代からは二十一世紀に入るための準備の時代であるといえる。新しい年を迎えて発想の転換が必要である。


第五十五章 宗派宗教は本当の宗教ではない

 ある時、ある場所で、その人々の機根に従って説かれた教がすべての人に通用する筈がない。宗派宗教にはそれでよいという人もあるがその反面にそれでは満足できない人が必ずある。新興宗教も同じである。宗派宗教は神仏を礼拝する儀式を持っている。儀式は本当の信仰には必要はない。あなたが今までの信仰に疑問を持たれたとしたらそれはあなたが正しいのである。部分は部分であって全体ではないのと同じように、釈尊やキリストの教の一部分を知ってそれで全体を知ったとするわけにはいかない。
 二十一世紀に向っていちばん反省しなければならないのは各宗教団体の指導者である。自分が知っただけのことを宗教のすべてだとして信者に強制してはならない。宗教指導者は自分の教団の中の反対意見に耳を傾けるべきである。


第五十六章 悟りとは

 悟りとは自分で自分の心を完全にコントロールできることである。人がなにをいっても腹を立てまいと思えば立てずにいることができる。悲しみはそのことだけに囚われると悲しみのままで心を暗くするが、そのことが自分の欠点を気づかせ、ものの考え方の違い、心の狭さ、知識の不足などに気がつくならば悲しみは喜びに変ってくる。悟った人とは心の取直しがすぐできる人であり、禍いを転じて福となすことができる人のことである。心の正しいあり方を説かずに霊能力を誇ってあてごとや病気直しを、こととしている人を悟った人と思ってはならない。現世利益を強調するのは真の宗教ではない。現世利益はその人が悟った結果として副次的に起ってくるのであって、現世利益中心になると魔に支配され易くなる。霊能力に憧れ霊能力を持ちたいという野心も一つの欲望であって釈尊はそういう欲を捨てよといっていられるのである。



法 語   自己確立への道     1980年2月18号

第五十七章 流行病

 流行を追わずにはいられないというのも一つの心の病気である。日本人のほとんどが流行病に罹っている。新聞に癌の死亡率が高いと書かれると、自分も癌になりはしないかと心配し、ノイローゼが流行すると、いかにもそれが新しい文明病みたいに思って、少し心がふさぐとノイローゼではないかと思い、胃が少し痛むと胃潰瘍だと思い、病気であることに優越感を持っている人がある。ファッションやモードの世界は典型的な流行病の世界である。終戦後いち早く流行したのがロングスカートで、つづいてパットを入れたいかり肩、フレヤーコートにショルダーバッグ等、そうしてミニスカートと猫の目のように変ってきた。化粧品も毎年毎年基礎となる色が変る。マージャン熱、ゴルフ熱、ドライブ熱、日本人はなんでもかんでも熱病にしてしまう。
 飛降り自殺したと新聞に出ると必ずつづいて飛降り自殺する人がでる。絶えず流行を追っていないと安心できないという人、つねに廻りの人が気になって仕方がないという人は自己の確立ができていないのである。


第五十八章 流行の最尖端を行く積極型

 ファッションは、会社が人の心を操縦して儲けんがために商業デザイナーにつくらせ、それをマスコミを使って宣伝した産物である。いつも流行の最尖端をゆき、自分を他人よりも目立たせようとする人がある。こういう人は、他人の注目や羨望、賞賛を受けることを期待している自己顕示欲の強い人である。自己顕示欲の強い人ははヒステリー型の性格で、いつも芝居がかった大げさな身ぶりや派手な身なりで他人の目をひこうとして、自分に注意をひきつけないではいられない人で、自己本位で、わがままで、見栄坊で、競争心がはげしく、いつも他人が気にかかって他人と自分とが違っていることを強調しようとする。こういう性格は幼児期に母親によってつくられるのである。また幼児期に抑圧された反抗心が爆発してなる場合もある。


第五十九章 流行のあとを追う消極型

 他人のすることなら自分もしたい。自分一人だけ除け者にされたくないといういわば個性のないタイプの人がある。積極型は自我意識が強すぎることが原因であるが、消極型は意志が弱いのが原因である。心が健康に発達している人は、いたずらに流行を追うことはしないで、服飾や趣味などは自分の個性にマッチしたものを自分で選ぶ、自我が強くて実力が伴わなかったり、自分に自信がもてなかったり、劣等感があったりすると、その弱さをカバーするために、他人と違った身なりをしようとする。人よりもかわった服装をすることによって自己主張をしようとするほどの自我の強さのない人は、人と同じような服装をすることによって自分の存在を埋没させようとする。こういう心はどちらも中道ではない。衣服は身体を保護すればそれで足りるものであることを知って流行を追わないという心になることからでも自己の確立ができる。


第六十章 偽りの自我を捨てる

 自分の身体や心に自信を持てないものが自分を認めさせようとし、マスコミに登場する流行歌手とか人物にまねすることによって、自分もその人と同じようになったように錯覚する。精神分析学者は、流行の最尖端をゆく心理を、欲求不満や情緒障害からくる攻撃性のあらわれとみる人もある。他人を見下し、他人をうらやましがらせることによって満足を得ようとするからである。流行を追わずにいられないのは精神的未熟者である。こういう心がスター心理であり、スターをあこがれる心理であるが、こうした心が信仰の場で現われた時にメシヤ信仰となり狂信盲信となるのである。信仰は心の成熟を目的とするものであるから、自己を確立するには日常生活において流行を追わず流行にふりまわされず、いつも自分の個性に合った自分の心に安らかさを与える服装をするということからでも始めればよいのである。これが同時に省エネルギー時代の生き方でもある。



法 語   自己確立への道         1980年3月19号

第六十一章 自己の確立とは

 正しい信仰は自力信仰であって他力信仰ではない。ヨチヨチ歩きを始めた時、親は幼児が歩いてくると、「ここまでおいで」と後退りして、少しでも一人で歩く距離を長くしようとするのであろう。それと同じように、神はわれわれ人間が独り歩きするのを望んでいられる。いつまでも、なにかにつかまらなければ歩けないというのでは正常ではない。それと同じように、自力信仰とは誰にも頼らず自分一人で歩く道であり、それが自己の確立である。幼稚園から小学校、中学校、高校と勉強をしてやがて社会人となって独り立ちして行く。
 学校では先生があり、社会人になるとまたそれぞれに師を持つ。それと同じようにその段階にふさわしい先生が必要である。その先生には、自分ではわからない時に、わからないことがあった時に聞くので、朝から晩までなんでも頼り切って聞くわけではない。


第六十二章 他力信仰は甘えである

 「この子はわたしがいないと全くだめなんです。自分ひとりではなんにもできないんですから」と、子供が甘えてくるのを喜んでいる母親がいるが、こういう母親が子供をやがてノイローゼにする。育児の秘訣は、子供自身ができることはなるべく早く子供自身にさせて独立心を育てることである。他力信仰をしている人の心には甘えがある。自分の問題を自分で解決せずに、拝んで祈って解決しようとする。自分の心は自分でしかコントロールできないのに、自分の心のあり方まで拝んで祈って決めようとする。腹が立って仕方がないから腹が立ちませんようにと祈っている。甘える子供はまだかわいいところもあるが、身体は大人でも、心は甘えでいっぱいであるのが他力信仰である。その甘えをなくして自分で生きて行く道はきびしい。自力信仰にはきびしさが必要である。しかし、自分ひとりで解決した喜びはたとえようもなく大きい。


第六十三章 魂の成長記録

 学校でも、試験問題を自分で解かずにカンニングしたら落第であると同じように、自分で自分の問題を解決しなかったら魂は成長しない。死んだ時、あの世の入口で提出する魂の通知表には、その人が自分で自分の問題を解決したその成績が記入してあるのであってカンニングした成績は記録されていない。全優だった人は高い次元の霊界へ行くし、その成績によって自分で自分にふさわしい霊界へ行くのである。生きている時に頼るくせのついた他力信仰をした人が死ぬと、あの世へ行っても頼ろうとする心が強いが、あの世では誰も教えてくれない。この世で自分で考えることをしていなかった人は、あの世で永く迷うことになる。憑依してくる霊はこのような迷った霊である。学校の試験で、全くできなかった時のかなしさと、百点をとって帰った時のうれしさを思い出してほしい。あなたにはその問題を解決する力があるからその問題が与えられるのである。


第六十四章 直観を大事に

 直観とは、あなたの守護霊があなたの心の内からあなたの心に囁きかける言葉である。自力信仰とは、心の内から守護霊と相談して行く道である。守護霊はその時あなたがどうすればいいかも全部知っている。成功し幸福であったという人達は正しく守護霊の声を聞いていた人であり、失敗し不幸になったという人達は守護霊の囁きを無視して自我の欲望を主にして判断し、また他力信仰は、一時成功するようなことがあったとしても結局は失敗するのである。自分のことをいつでも他人に考えてもらうとするやり方がいつまでも成功する筈がない。強い人間になるには、自分ひとりで静かに考える時間を持つことである。孤独に耐え孤独を愛する人間であった時に、あなたは独でなくなる。心の内から囁きかけてくる守護霊の囁きを聞き、それを通して神の声を聞くこともできるようになる。



法 語   自己確立への道         1980年4月20号

第六十五章 人生は積極的に

 「神、光あれといいたまいければ光ありき」
旧約聖書創世記のいちばん初めにある言葉と、釈尊の悟りの、「はじめには神という光明があった」という言葉は同じである。神道では「天照大神」とよんできた。
 神の子であるということは「光の子」であるということである。光の子であるということはあなたの霊が光であるということである。だから人間は光を喜び、明るさを喜ぶのである。あなたが魂の光を曇らせた時、それを心の苦しみとして感ずる。苦しみは魂の本質ではないから苦しみで心にかげりが生ずると、そのかげりをなくしようとする信号である。積極的な人だけが幸福になるのはそれは光の道であり、消極的な人が不幸になり病気になるのはそれは影の道だからである。 積極的になった時、心は明るくなり、消極的になると心が暗くなる。キリストは、「光のあるうちに光の道を歩め」といわれた。


第六十六章 どうすれば病気にならないかを知る必要はない

 近代医学や近代心理学が失敗に終わったのは、身体的に、また精神的に病気であり異常者だけを対象にして、こうしたら病気で異常になったということだけを研究してきたからである。
 人間は肉体的にも精神的にも健康であることを望んでいるのであるから、肉体的にも精神的にも健康である人はなぜ健康であるか知り、その通り実践すればよいのである。
 どうすれば病気にならないかという消極的な考え方ではいつでも心が重々しく暗い。こうすれば健康であるという積極的な心はいつも明るい。病気にならないようにと、いつも病気を心に描いているのと、こうすれば健康になると、いつも健康を心に描いているのと、どちらが心が明るく楽しいであろうか。
 健康は、神が創造された道であり、病気は人間がつくり出したものである。どちらを目標にするかはあなたの自由である。


第六十七章 反抗期はない

 終戦後の学校教育、家庭教育を失敗させた原因の一つに「反抗期」という言葉がある。
 近代児童心理学は、非行少年や反抗児だけの心理状態を研究の対象にして、健康な少年少女が、どうして健康であるのかを研究の対象にしなかった。非行少年や反抗児に特有の「反抗期」を、学問的真理であると権威づけて、大学教授達がPTAの講演会で話をするので、子供は成長の過程でみな反抗期というのがあると信じ込んで、少し親の気に入らないことをしたり、また、親のいうことを聞かないと、「あ、反抗期だな、丁度そういう年齢だ」と考えて親は子供の前に子供を反抗させまい、すなおにしようと見構えてしまい、子供は反抗期という言葉を教えられて、どの子もこの年頃には親に反抗するものなのであると思って、反抗することを自然の状態であると思うようになった。「反抗期」という言葉がつくり出した親子の対立の被害は大きい。


第六十八章 更年期障害もない

 私の五人の子供はみな反抗期はなかった。子供が自立心を持つようにいつも心掛けてきたから、子供は自由にのびのびと明るく育った。子供も光の子であるから、常に明るく自由に伸びようとする。それを親が押さえるから反抗するのである。だから反抗するのは、子供が伸びようとする心の現われであるから、それはよいことなのである。
 婦人の人はよく「更年期」だと身体の不調を訴える人が多いが、世の中には更年期はなかった気づかなかったという人も結構多いのである。肉体の生理作用の転換期は確かにある。それは神が肉体を造られた時に与えられた法則即ち生理作用なのであるから、神がつくられたものが苦痛である筈がない。更年期といわれるその年頃に身体が不調になるのは、それまでに潜在意識の中に抑圧されてきた感情があったのであって、抑圧された感情を持たない、心の明るい人には更年期という苦しみはないのである。



法 語   1980年7月23号

第六十九章 無明とは

 お釈迦さまは一切の苦しみの根源は「無明」にあると説かれた無明とは無智のことであり、どんなことに無智であることが無明であるかというと、

苦しみとはどんなものであるかを知らない
苦しみがどうして起こるかを知らない
苦しみはなくすることができるということをしらない
苦しみをなくする方法を知らない

 ということなのであるから、知らないことは知れば無明(迷い)はなくなるのである。知らないことを知ろうともせずに、「迷いをなくして下さい」といくら祈ってみても迷いがなくなる筈がない。
 正しい信仰は正しく知ることから始まるのであって、知らなければならないことを教えようともせずに、ただ「頼れ」とか「祈れ」とかいっている宗教は一時の気休めにしか過ぎないのである。一生祈ってみても知らないことがわかるということは絶対にない。正法会は知るべきことを正しく教えるのである。仏教は「知の宗教」であるのである。


第七十章 最初のお経

 お釈迦さまが亡くなられて九十日目の第一回結集の時には、文字で書かれたお経はなかったのである。
 集まった五百羅漢の仏弟子たちは記憶して覚えていたことを口で唱えたのである。お釈迦さまの存命中は文字で書かれたお経はなかったのであるから、お釈迦さまが「お経を何遍でもあげなさい」と説かれる筈がない。だから法華経中に一回でも余計に読誦すれば功徳があると書かれているのは後世の人が書き加えたものだというのである。後世の人が勝手に付け加えたものを信ずる必要はない。法というものは心に記憶していて日常生活に実践すべきものである。記憶していなければ日常生活の突嗟の間に思い出して実践することはできない。だから神理は、お経として書かれてあるものを記憶して心にとどめて置かなければならないのである。単によむものとして心にとどめないから「お経よみのお経知らず」とか「論語よみの論語知らず」という言葉が生まれてくるのである。よい言葉は小さい時から子供に記憶させることである。


第七十一章 正法を知ることによる変化

 お釈迦さまの教を聞いたバラモンの僧は、自分の心が変ったことをつぎのようにいった。
今まで逆さまに見えていたものが真直ぐに見えるようになりました。
ふしぎも秘密もなく、これが当たり前だということがわかりました。
迷った道と正しい道がはっきりわかるようになりました。
暗闇の部屋の中に燈火をともすと、瞬間にして暗闇がなくなり辺りを明るく照らし出すことができるように、智慧の光りによって迷いの闇はなくなりました。
 心から迷いがなくなったら心は明るくなる筈である。だから悟りの道、正法の道は明るいのが本当なのであって、日本の現代仏教が暗いのは本当ではないのである。人間も暗さがなくなって明るくなってこないといけない。
 以上上げた四つの変化がないというのであればそれは今あなたが信じていられるのが正法でないか、正法であるのであればそうなる努力をしないかである。


第七十二章 比較して見ること

 すべてのものはみな比較してみた時に、よいかわるいか、長いか短いか、厚いか薄いか、丸いか四角か等々わかるのである。お釈迦さは、お釈迦さまが悟られる以前にあった宗教と比較して正法を説かれたのである。だからその宗教が正しいかどうかは、比較宗教学的な話をしているかどうかを見れば凡そわかるということがいえる。あるバラモン信者がお釈迦さまに、「私は今の信仰をつづけようと思いますが」といった時に、「あなたはそれをつづけられるといいでしょう」といわれたことを多くの仏教学者は、「お釈迦さまは寛容な方でどんな信仰でもよいといわれた」と解釈している人がいるがそれはまちがいであって、その人がそのバラモン信仰をつづけているうちに比較する眼が開けてきて正法の正しさがわかってくるであろう、だからその時までそっとして置く方がよいと思っていわれた言葉である。正法会は比較していうべき時ははっきりというし、いわない方がよい、時を待った方がよいと思う時はいわないのである。



法 語   人を救うために       1980年8月24号

第七十三章 愛深くあること

 昭和三十五年頃までは宗教家が「心で病気が治る」という話をすると医者は殆んどが迷信だといいました。ところがアメリカで発達した精神身体医学が日本に輸入されるようになって、現在ではそれを否定する医者はいなくなりました。病気の大部分は心で起るのであるから、心を治せば病気も治ることを知っているのになぜ医者が心の治療をしないのか、 原因は健康保険法にあります。
 アメリカでは精神治療の場合は一時間に○弗という治療費が支払われることになっており、薬や手術で治療する医者よりも、精神治療をする医者の方が社会的地位も上位で尊敬されていますが、日本の場合はその反対で、今の健康保険法では精神治療をしても金にならない。薬や注射をしないと金儲けできないことになっています。
 乱診乱療、一人の診察時間が二、三分でろくに診察もせずに、薬は馬に喰わせるほど持たせるというのは健康保険法が悪いのです。
 現在の日本の健康保険法は今から一〇〇年前、明治維新直後にドイツから入ってきた「病気は病原菌があってなるのである」という唯物医学を基にしてつくられているので、日本の現在の医療体制、健康保険法を変えるには精神身体医学を基にしなければいけないので、その点日本医師会は時代の進歩にそむいたいちばん古臭い思想を持っているわけです。日本の医者には愛がないといえます。


第七十四章 なぜ新興宗教がふえたか
 心で病気が治ると説いたのは新興宗教でした。既成宗教といわれる神道、仏教、キリスト教は、宗教とは魂の救いを説くのであって病気など治すものではない。病気が治るというような現世利益を説くのは邪教であるといっていました。既成宗教が魂を救うのだと高くとまって大衆の病気の悩みを救う力がなく日本の医学会が唯物医学一辺倒になっていて誰も心から起った病気を治す力を持たなかった時に新興宗教が「心で病気を治す」というスローガンを掲げたわけです。実際に心で起った病気なら心が変れば治るのは当然です。
 肺病は「ハイ」とすなおな返事をしないからだ。扁桃腺は「へんとう(返答)せん」からだというようなことがいわれ始めました。
 どこの新興宗教の教団でも「病気が治った」という奇蹟の体験が続出して信者がふえてゆきました。それは当然のことであったので別に奇蹟でもなんでもなかったのです。


第七十五章 病気が治るのは事実である

 創価学会の人達は「マンダラのお蔭だ」「日蓮上人のお蔭だ」といい、立正佼成会の人は「ご本尊のお蔭だ」といい、生長の家は「生長の家大神、住吉大神のお蔭だ」といい、どこかにお詣りしている人達はそこの神さまのお蔭だとそれぞれ一所懸命に信仰しているわけですが、病気が治ったのは神さまのお蔭でもなければマンダラのお蔭でもないのです。
 ただそれらのものは心を変えるきっかけになったにすぎないのです。それらをきっかけにして心が変ったから病気が治ったのです。
 一つの教団に入会してそこで病気が治るとそこの信仰のお蔭だとありがたくなって一心になり、そこの信仰で治ったのが本当の治り方で、他の教団の信仰で治ったのはウソだと多くの人は思っています。しかし、病気が治るのに、ホントの治り方とかウソの治り方というのがあるでしょうか。医者で治ったのがホントの治り方で宗教で治るのはウソの治り方だというのがあるでしょうか。どこでどうして治ろうと、治ったという事実はすなおに認めるべきです。うちの教団で治ったのがホントで、他の教団で治ったのはウソだとかいうような過った差別の心を持ってはならないので、心の病気が治るのは事実だから事実は事実としてすなおに認めることが正しい信仰の一つでもあります。


第七十六章 病気は神が治すのではない自分が治すのである

 神が治すのであったら、その神を拝んだ人はみな治らなければならないということになりますが、創価学会でも立正佼成会でも生長の家でもその他の教団でも一所懸命に拝んだが治らなかったという人が沢山おります。
 どこの教団でも治った人の体験は華々しく宣伝しますが、治らない人が沢山あることは絶対に発表しません。治った時は「ここの神さまのお蔭だ」といって神さまのお蔭にして「あなたの信仰が自分で治したのです」というようなことは絶対にいいません。その代りに治らなかった人に対してそれこそきびしく吐き捨てるように「あなたの心が悪いのだ」「あなたの信仰が悪いのだ」といいます。本当に人を救う愛があったらそんなに吐き捨てるようにいわないで、さらにもっとやさしくどうすればいいかを教えるのが本当の宗教指導者ではないでしょうか。
 治った時だけ神さまのせいにして治らないと本人のせいにするのは矛盾ではないでしょうか。神さまのお蔭だといっていて治ったり治らなかったりするのは、そんな神さまは神さまという資格はありません。神さまが病気をつくったのなら神さまに頼めば治して下さるでしょうか。病気は自分の心でつくったので神さまがつくったのではありません。人間を病気にして苦しめるという神さまなどない筈です。
 病気を治すのに神さまを拝む必要はないのです。


第七十七章 心が変われば病気も治る

 精神身体医学という学問はアメリカで発達したのです。病気は心で起るのであるから心を変えれば治るということが医学的な研究の結果明らかになってきたのです。アメリカで精神治療を受けて治った人達は、創価学会でも立正佼成会でも成長の家でもなんでもないのです。なんの信仰をしなくても治っているのです。お釈迦さまは中道調和の道、いかにして心を安らかにするか、心を安らかにすれば病気にもならないという正法の道を説かれたのであって、正法とは正しい心のあり方を説くので、○○の神さまを拝みなさいというようなことは説かないのであります。
 どこの教団の信仰をしていても治らなかったという人達は心が変らなかったからであって、われわれはどこの教団に所属することもいらないのであります。どこの教団の会員にならなくても、心の正しいあり方を知れば病気になることもないし、またなったとしても自分で自分の心を修正して治すこともできるのであります。


第七十八章 医者や薬が病気を治すのではない

 多くの人は医者や薬が病気を治すと思っています。それは違うのです。人間には病気になった時は自然に病気を治す「自然治癒能力」というものが与えられてあります。医者や薬は自然治癒能力を高める補助的な役割をするだけのことです。このことは医学の教科書の第一頁に書いてあるのです。だからどんな名医でも、病気を治そうとする意欲のない患者、病人になっている方が都合がよいと思っている患者は絶対に治すことはできないのです。生まれつきの持病で治らないとか、若い時からの持病で治らないという人達は自分で治らないと思っているから自分で自然治癒能力を働かさないようにしているからであって、自分の肉体に内圧する自然治癒能力を信じて「必ず治る」という心を奮い起たせれば治ってゆくのであります。

 これからどうすれば病気が治るかを書いてゆきますのでつづけてよんで下さい。尚これは病気のことだけでなくどうして幸福になるのかということにも通ずるのでありますからよくよんで下さい。



法 語   人を救うために      1980年9月25号

第七十九章 医者は治さない

 ほとんどの人は医者が病気を治すと思っています。しかし、医者が病気を治すことはないのです。病気を治すのは神でもなければ医者でもないのです。医者がそういっているのです。
 西日本新聞に福岡大学医学部第一外科、志村秀彦教授の医療雑感が載っていました。「生命の仕組は精巧で、治る力は医師の力をはるかに超える。医者は患者のそばにいて邪魔者を払いのけ、力づけるだけですむことが多い。やたらに手を加えたり、投薬したりする過保護が、逆に治る力を弱まらせる結果になりかねない。患者の身になって、苦痛、障害を感じ、陰に陽に介抱し、力づけ、患者自身の治る力を存分に発揮させるように心を配るのが医者の本分。生きる喜びを患者に味わってもらうことを願うのが医者の生きがい。」
 心が病気をつくるのであれば、健康体の人は病気にならないように心のあり方に気をつければいいし、病気だという人は心を治せば病気は治るということになります。
 講談社とマイヘルス社共同発行の「別冊壮快」という雑誌があります。その中で「心で病気を治す事典」副題「心の持ち方ひとつで現われるすばらしい効果」の中の目次だけ並べてみましょう。

「病気を起こし病気を治す心の不思議」
    自治医大教授  宮本 忠雄
成人病の大半は心が原因で起る。成人病とは、高血圧症、動脈硬化症、心臓病、胃潰瘍、糖尿病、肝臓病、リウマチ、喘息、痛風、神経痛、ノイローゼ、うつ病、ガン等。
 ガンだけは例外だという人がいるが最近ではガンの精神療法という言葉が生まれている。たとえガンになっても最後まで希望を捨てず、心を明るくもたせる言葉がいかに大切かである。


「子供も大人も心が原因の病気が激増中」
   愛知医大教授   久徳 重盛
人間の基礎のできる三才前後に、ひずみのある基礎がつくられることが原因となる。


第八十章 医者も必要である

 確かに病気は心でつくるのであるから、心を治せば病気は治るということになります。
 この精神身体医学を教義に取り入れたある宗教では、「心を治せば病気は治る」といって医者も薬もいらないと教えました。その結果、たしかに心だけで治った人も沢山ありましたがその半面に、早く医者の手当を受ければ治ったのに、最後まで医者にかかることを拒否したために、最後に病院にかつぎこまれた時はもはや手遅れで死んでしまったという人も沢山でました。
 その宗教では医者にかかる人は信仰が足らないのであるといいますから、信者達はどうしても医者にかからなければならない時でも、なにか悪いことをするみたいに外の信者にわからないようにこっそり行くということを言っていました。
 医療公害、薬公害が叫ばれているように医療の行き過ぎ、薬の乱用はいけませんが、正常な医療、薬の使用は必要です。
 心が病気をつくるということは心の傾向が肉体の生理作用の変化、肉体細胞の歪みとなって現われるということです。心を変えることは短い時間でできても、物質である肉体の組織や細胞が変化するには時間がかかります。ここに心は治っていても肉体の方はまだ治っていないというズレが生じます。また心が治ったといっても一ぺんにパッと心が治るということもなかなかむずかしいことです。明るくなったり暗くなったり一進一退しつつ変ってゆくのが普通です。心の変化と肉体の変化とのズレがあるところに、医療によって治療の障害になっているものを除き、手当をし、また薬によって弱まっている自然治癒能力を掘り越し回復させることが必要であるという場合が生じてきます。このことが前章に書いた志村教授の「医師は患者のそばにいて邪魔者を払いのけ、力づける」という言葉になり「患者自身の治る力を存分に発揮させるように心を配るのが医師の本分」であるという言葉になってくるわけです。ある宗教のように医療を否定することも極端であるということになり、やはり中道が必要だということになります。


第八十一章 心の治療で薬はいらない

 「心と身体両面の健康を追求する心身医学」という東邦大学助教授筒井末春氏の文章を紹介しましょう。

「病気というのは、細菌感染などによるものを除くと、その人が精神的、肉体的、社会的に生きてきた人生体験の結晶であるともいえるわけです。人間の心が病気に与える影響がここ十数年の間に研究されてきました。現在では、心理的要因でおこる病気の多くは、薬にたよらず治療できるようになっています。」、と。

 八月号の「法語」につづいてここまで書いたことによって、病気は医者が治すのであるとか、病気は薬で治すのであるというぬき難い医者に対する信仰、薬に対する信仰はみなさんの心から消え去った筈です。これまで多くの人は生命のことをいちばんよく知っているのは医者だと信じてきました。しかし医者は生命のことについてはまだなんにも知ってはいないのです。医者も漸く生命の神秘さに気づいたということです。

名古屋市立大学長高木健太郎氏は、
「これまで多くの人は身体と精神は別個の存在だと考えてきました。身体と精神は互いに影響し合っているのですから健全な身体を得ようとすれば、健全な精神が必要であるのはいうまでもないことです。「心身一如」として健康であってこそ、はじめて本当の健康状態といえましょう。現代の過酷な競争社会ではさまざまのストレスが人々を取りまいており、ストレスが病気を起すことも多いのです。こうした心理的要因で起る現代病に対しては薬を飲むよりも、リラックスしたほうが効果的だといわれています」

心で病気が治るということはもうこれ以上書く必要はないと思います。ではなぜ正法誌でこういうことを取り上げるのかを次に書きましょう。


第八十二章 悟るためには心の自由自在性を知ることが必要である

 人間の存在を傷つけ危なくする人間以外のものが存在するという考えは人間の心を小さくします。人間は神の子だと知っても、人間は病原菌にはかなわないとか、また、病気のことだけでなく、悪霊や自縛霊がいて、人間はひょっとするとそれに負けるという恐怖心を持っいることは、それだけ心を小さく暗くしますから、そういう恐怖心や自分を弱いと思う心があったのでは心の底から明るくなることはきません。
 人間は神の子であるという自己確立の心の中には、人間はなにものにも犯されることもなく傷つけられることもない絶対的存在であるという自覚がなければならないのです。人間は万物の霊長として、この地上に置ける神の代理者として一切を調和させユーピアを建設しなければならない使命を持たされているのでありますから、人間が菌や動物や悪霊などに支配されるという考えを持つこは、人間そのものの尊厳さ、神の子の自覚を否定することになります。
 正法で心と病気の関係を取り上げるのは、唯単に病気を治すこだけを目的として取り上げるのではないのであって、心を大きく豊かにして悟るためには、なにものにも支配され影響されることのな心の自主性、自由自在さを獲得することが必要であるからであります。
 正法会以外の宗教団体では、病気が治るともはやそれだけで信仰がりっぱにできているような扱い方をしますが、病気が治ったばかりの人は、それまでまちがっていた心のあり方を正しく治して健康になったということで、病気もせず健康であったという人より以上にりっぱになったわけではありません。病気が治ってそれで信仰が終りなのではないし、身体が健康になったら、それからさらにますます心をきく豊かにしてやがて宇宙即我の悟りまでに到達してゆかなければならないのでありますから、その人の病気が治って健康になったということは祝福しますが、病気でもなんでもなかったという人より以上にりっぱな信仰心を持っていたというような、従来の宗教団体がやってきたような扱い方はしないのであります。病気が治ってから先の魂の勉強が大事なのであります。


第八十三章 病気の原因

 病気の原因は次のように分けることができます。

霊的原因による、動物霊、憑依霊によるもの。
ストレスなどの心に基因するもの。
ばい菌によるもの。
公害、環境の影響によるもの。
肉体の酷使、無理によるもの。

 右のように分けることができますが、動物霊や憑依霊に憑依されるのも憑依霊と波長の合う心を持っているからであり、ストレスを生ずるのも心の問題であります。ばい菌はあってもばい菌に犯されないように智慧を働かせればよいし、公害や環境の影響も、心のあり方と智慧によってうけないですむし、ムリをして身体をこわすということも智慧のないことでありますし、こうして考えてくると、もとは心が原因だということになります。
 たしかに憑依しているという人は、憑依霊を取り除いても心が変らなければまた憑いてしまいますから、根本的には心を変えなければならないということになります。霊的原因によるものは医者も診断がむずかしいしまた薬を飲ませてもなかなか治りません。
 心によって病気が治るということが医学界でも常識となった現在では、心を治療する医者が出てきました。もっと日本医師会は、病気は心で治ることを宣伝すべきだと思います。医者が精神治療を確実にやれるようになれば、信仰で病気が治るといって集めていた、いろいろな教団の信者達は医者の指導をうければよいということになるわけですが、現世の日本の医療体系では、精神治療を専門にすると生活できないという仕組になっていますから、ということは医師会だけでなく厚生省の官僚群の考え方も変らない限り、日本では精神治療法は全体的には取り上げられないということになり、極めて良心的な医師の個人的な活動に俟つしかないということになります。厚生省が早くこのことに気づいて医療体系を改革すれば、病気治しを目的に信仰に走るという人もなくすることができるから、日本の宗教界を浄化することにもなります。医者が物心両面から病気の治療をするということになれば、宗教は病気治しを口実に信者をまちがった信仰にひき入れるということはなくなります。
 このようなことを逆に考えると、日本の病気治しを主目的とした新興宗教を発展させているのは日本医師会の迷妄さであるということがいえます。病気治しの宗教をめざして、宗教が医者の領分を侵すなどといわないで、医者自身がもっと医学の発展に忠実であればいいのです。
 日本の経済界は悉く外国の真似をして発展してきたといわれますが、文化の世界でも真似してきました。アメリカでは瞑想による治療を始めているのであるから真似するなら徹底して真似して、日本でも瞑想による治療を始めればいいと思います。



法 語   人を救うために   1980年10月26号

第八十四章 一年三六五日をどう生きるか

 かつて「一年三六五日をどう生きるか」というアメリカの医者の書いた本が出版されたことがあります。そのはしがきにこう書いてありました。

 「あなたが一年三六五日を、黄金の花咲く並木路を口笛を吹きながら、大手をふって歩いた一年であったかどうか、そのうち何日がかなしみになきぬれた日であったか。悲しい気持ちで暮らすよりも、明るい心で暮らす方がよほどたやすいのであります」、と。

 日本は仏教と武士道の影響により、さらに日本仏教が「人生は苦なり」と説いた結果、しかつめらしい、むつかしい、自分ほど苦労している者はいないというような、必死に苦しみに耐えているような顔をしていないと、まじめなりっぱな人間ではないような考え方をしてきました。一言にしていえば「明るさ」がありませんでした。ほんとうの明るさというのは、必死になって仕事をしている時でも、また、仕事が終ってほっとした時でも、一貫して失わない心の明るさであり、最近の若者達みたいに(若者だけではないようですが)なにか遊んでいるときはたのしいようであっても、それが終るとふつとさびしい、わびしさが心の底に潜んでいるような心はほんとうの明るい心ではありません。
 起きていても寝ていても、なにをしていても、心から楽しくて仕方がないというような心の明るさ、そういう心の明るさで一年三六五日を暮すならば、それは丁度、黄金の花咲く並木路を、口笛を吹きながら歩くような一年だ、人間はそういう生活ができる。そういう生活をしないから、病気をしたり、家庭に不調和が起ったり、苦労が絶えないのであるというのです。
 そういう明るい心を持つには、○○という宗教団体に入らなければできないということはありません。折角、明るい心になるつもりで入信しても、いろいろな規則に縛られて、「あゝしなさい、こうしなさい」と強制されたのではかえって心を暗くするでしょう。心を支配しているのは自分ですから、自分の心を明るくするのに、なになにという教団に入らなければならないということはないのです。


第八十五章 奇蹟を呼ぶ感謝と調和の心

 「この大宇宙は調和されている」ということを私が直感で知り、天からの声を聞いたのは昭和二十六年秋でした。この天の声を聞いてから私の周囲に奇蹟が起り始めました。
 私が指導したのは「感謝し調和しなさい」ということだけでした。
「ではどうしたら感謝と調和の心を持つことができるのか」という指導方法は、いろいろ指導する人によって個性があるようですが、私はその指導が上手だったということでしょう。また天上界からの協力もあったと思うのですが自分でもびっくりするほど奇蹟が起りました。その頃は奇蹟だと思っていましたが、高橋信次先生に正法を教えられてみると、それは至極当然のことであって奇蹟でもなんでもないことがわかりました。
 生長の家は「天地一切のものと和解せよ」「天地一切のものに感謝せよ」と説いていますがこれは正しいのです。私は成長の家の地方講師になり本部講師になり、多くの人に感謝と調和の道を説きました。そのことは正しいのです。生長の家だけでなくどこの教団でも感謝と調和ということは説いています。まさか喧嘩しなさい不足をいいなさいという宗教もないでしょう。だから感謝と調和を説いていることは正しいのです。ある宗教に入ってよくなったという人は、そこで説かれている感謝と調和の道を聞いて、その通りの心になったからよくなったので、たまたま、その宗教の話を聞いたことがきっかけになったということだけのことで、その宗教でなくてもよかったわけです。
 そういう話を聞いても、どうしても感謝の心も起らなければ調和もできないという人がどこの宗教団体にもおります。そういう人はよくならないのです。私が指導した人でもそういう人はよくなっていません。人の心を強制して聞かせることはできません。心というものは、心の内側からその人が開かなければ絶対に開くことはできないでしょう。自分の心を支配できるのは自分自身でしかありません。


第八十六章 感謝と調和は法として存在する

 どこの宗教団体でも感謝と調和が大事であることを説いています。あの教団で説いている感謝と調和はホントだが、この教団のはウソだといえようなことはない筈です。感謝と調和の心を持った人達はみなよくなっています。
 ところが多くの人達は、自分の教団でよくなったのはホントだが、ほかの教団でよくなったのはウソだという考え方をします。こういう差別する心、疎外する心を持つことはまちがいであります。また、よくなった人が、自分は信仰ができたからよくなったのだと思って、なにもない人を信仰ができていないように、他を低くみる心になったら、またその人は病気になったりするでしょう。信仰する人にはどうしても心のくせのある人が多いようです。しかしそれは宗教指導者の罪である部分も多いのです。
 病気になってから病気が治って健康になるよりも、はじめから病気にならない方がよいのですし、不幸になって苦しんだ揚句に幸福になるよりも、はじめから幸福である方がよいのです。病気を治したり、不幸な人を幸福にするのが宗教の目的ではありません。健康な人が、ますます魂を磨き心を大きく豊かにして悟ってゆくように導くのが宗教本来の使命です。だから本来の宗教は、健康で幸福であるという人を目標にして説かなければなりません。
 宗教が病人や不幸な人を救うのは病気であったり不幸であったりすると、そのことで心は一ぱいになって、とても心を大きく豊かにして悟るというどころではありません。宗教はすべての人を救わなければなりませんから、病気や不幸であるという人は、まず病気を治し不幸をなくして、いよいよそれから悟りの道に入るスタートラインにつかせようとする慈悲なのであって、病気が治り、不幸がなくなってからの先の方が大事なのです。ところが現在の日本の宗教は、病気を治し不幸をなくすれば、それが宗教の使命であり役割だというような考え方をしていますが、それは宗教本来の使命がわかっていないからです。


第八十七章 特定の教団に入る必要はない

 ○○という教団に入らないと感謝と調和の心は持てないということはないでしょう。実践倫理宏正会とか道徳科学という団体があります。この団体は宗教団体ではありませんが、人の生きる道として感謝と調和を説いております。だからそういう心になった人はそこでも病気が治ったというようなことが起っています。だから感謝や調和は、なにも宗教団体だけの専売特許ではありません。
 ここで考えてほしいのです。宗教団体や道徳を説く団体に入らなければ感謝や調和の心は持つことはできないのでしょうか。みなさんの周囲には、どこの団体にも所属してはいないが健康で幸福であるという人が必ずある筈です。そうして見た場合、信仰していていつも病気だ不幸だという人もある筈です。それはどうしてでしょうか。信仰がないと幸福にならないというのであったら、信仰していない人はみな不幸だということになり、信仰している人はみな幸福だということにならなければならない筈なのですが逆な現象が起っています。
 「○○の宗教でないとよくならない」と、熱心な信者達は宣伝しますが、それなら外国の人達はどうなるのでしょうか。外国にはそういう宗教はなくても外国の人達はどうなるのでしょうか。外国にはそういう宗教はなくても外国の人達は結構たのしく生きているではありませんか。
 正しい信仰をするには小さな範囲のことだけを考えたのではいけないのです。少なくとも地球全体のことは考えなければいけません。日本人ばかりが人間ではないし、外国人も人間としては変りはない筈です。なんの信仰をもたなくても健康で幸福であるという人は、自然に感謝と調和の生活をしている人達です。どこかの宗教団体に入ったために、その教団のいろいろな規則に縛られて、かえって辛い思いをしているという人は、むしろそういう信仰はやめて、自由自在な心になって天地一切に感謝しすべてと調和することです。
 人間は神の子として神が持たれる慈悲と愛の心を持って生まれてきているのでありますから、天地創造の神に感謝し調和の生活をすればそれで人間は健康にも幸福にもなれるのです。そういう点に於て、正法会は、いろいろな宗教団体に入って、かえって心に苦しみをつくって悩んでいる人を、心の底から明るくなるように解放させてあげるという役目をもっているわけです。


第八十八章 医者も宗教団体もいらない世界、エデンの園の再現

 感謝と調和の心を持ったら健康になり幸福になるというのは、神がつくられた宇宙の法則なのです。神が一旦人間を苦しめて、そうしてからでないと救わないのであると考えていることは、神を冒讀するものであります。苦しみは人間が勝手につくり出したので神の責任ではありません。ただ神は、法として善因善果、悪因悪果の因縁の法をつくられました。
 その法則をどのように使うかは人間の自由に委せられたのです。そのことを釈迦もキリストも説かれたのであり、私の師である高橋信次先生が説かれたのもそれだったのであります。明るい心を持てば明るい結果が出てくるし、暗い心を持てば暗い結果がでる。日本人はそれをつぎのように教えてきました。

 笑う門には福来る
 泣き面に蜂

 ○○という宗教に入らないと明るい心になれないというようなことはないのです。神の存在とありがたさ、自然の存在とありがたさ、そうして人間はなんのために生きるのかという人生の目的がわかれば、人間はどんな状態の中からでも明るい心になれるのです。
 世界中の人が一人残らずこのことを知って心を明るくし感謝と調和の生活をすれば、病気になる人はいなくなるから医者はいらなくなります。いらなくなるといってもいろいろなことで怪我したりすると応急の手当が必要になりますから、手術できる外科医だけがいればよいということになります。まじめな医者の間では、ほんとうの医者というのは外科医だけだといっている人があります。
 いろいろな宗教団体もいらないということになります。やがて国境をなくして世界を一つにしようという地球政府設立の運動も起っているのでありますから、土地の国境だけでなく、心の国境も、隣りの人との境界もなくして、一つの心の世界にしなければいけないと思います。政治家も派閥をなくしようといっているのですから、教祖とか各宗教の指導者達も、宗教の垣根をなくしようといい出してももういい頃ではないでしょうか。
 神の世界は一つであり、神の世界に垣根はないのであります。



法 語   人を救うために   1980年11月27号

第八十九章 医療公害

 昭和五十五年一年間の製薬会社の薬の生産量は十兆円を越えた。病院へ行くと馬に喰わせるほど沢山薬をくれる。呑みきれない薬はどんどん捨てられている。それはすべて税金を捨てているのである。薬は薬という形になっている金である。薬代はすべて健康保険料で賄われることになっているが、国民の納める健康保険料では足りないから政府が赤字補填をしている。政府は金を持っていない。政府の持っている金はすべて国民の税金である。昔の名医といわれた医者は、ほんの少し薬を使って病気を治した。今はそんな治療をしていたら医者の生活が成り立たないし、第一少ししか薬をくれないところには人が行かないのであるから、今は昔のような名医はいなくなってしまった。今は土手医者が繁昌するのである。
 昔は下手な医者のことをヤブ医者といった。ヤブの中に入ると皆目先がわからない。だから病気の見立ての出来ない下手な医者をヤブ医者といった。そのヤブ医者よりも悪い下手な医者を土手医者というのだそうである。
 ヤブ医者は、ヤブはまだ二・三米でも四・五米でも少しは先が見えるからまだいい。土手医者というのは、土手にぶつかると先は全く見えない。だから土手医者はヤブ医者より悪いというのである。そのわるい土手医者は診断も下手だから診察してもこの病気だとはっきり診断を下すことができない。あの病気かもしれないこの病気かもしれないと考えて、この病気だったらこの薬が、この病気だったらこの薬がと何種類も薬をくれる。今の健康保険法では沢山薬を患者にやらないと金にならないのであるから、名医はいつも貧乏して、下手な土手医者の方が金持ちになるという仕組みになっている。
 政府は一県に一つの医科大学をつくった。やがて医者が氾濫して医者の失業時代がくる。薬代に使われる十兆円を、国民が自覚することによって五兆円に減らして、その五兆円を未来の日本、未来の世界をどうするかという研究費に使ってもいいし、また難民救済や後進国救済に使えばどんなにいいかと思う。医療に対する考え方を転換しなければいけない時にきているのである。


第九十章 病院は宗教家との交流を深めよ

 東京の永谷さんから新聞の切抜きが送ってきた。「正法」誌創刊号に書いて置いたように、医者で宗教に関心を持つ人が出てきた。

    医師  乾  元 66才
 末期ガン患者、死を待つだけになった寝たきり老人専用の病院、わが国初のホスピスが浜松市で、この春着工される。ホスピスは病気を「治す」という従来の病院とは違って、人間を「救う」「助ける」所といわれ、そのスタッフには、医師、パラメデイカルのほか宗教家を配置しているのが特徴。つまり、宗教家は、医者がもはや手の届かぬ病者の魂を救い、旦、その家族をも慰めようというのである。
 さて、ホスピスならずとも、大病院なら、以上のような死を待つばかりの患者の幾人かが必ずいるはずで、死を目前にして心の安らぎを切実に求めていると思う。それなのに、宗教家との交流が余りにも少ないように考える。欧米の多くの病院では専属の牧師がいて、自由に病室に出入りできる。わが国の刑務所にだって、死刑囚のために教誨師がいるではないか。 わが国の病院は患者の身体にばかり目を奪われ、患者の心、家族の気持ちを考えていないように思われてならない。ちなみに、米国の伝統ある病院には立派な礼拝堂があると聞くが、わが国の大学病院では死体安置室さえいかにも殺風景である。
 さいごに、わが国の病院に、ホスピスのように、宗教家を常置することは時期尚早かも知れないが、宗教家との交流を、もっと深めるべきであると考えている。宗教家との出会いによって、死を待つ多くの人たちに、心の安らぎをと私は願う。死よりも重大なことはないのである。  (宮城県柴田郡)

 私が昭和27年、宗教家として立つことを決心した時思ったことの中の一つに、全国の大病院には必ず、心を指導する宗教家を配置することを法律で決めるようにしたい。ということがあった。外国の病院は宗教家が自由に出入りできるというのであるが、日本の病院は宗教家の出入りを歓迎していない。乾医師のような医師がふえてゆくことを私は望んでいる。


第九十一章 仏教こそが生死の解決法

 同じ切抜きの中にこの一文があった。投書というものはその人一人の意見ではなく同じような考え方をしている人が外にも沢山あることを示すものである。世の多くの人々が、まさしく正法を求めているのであるということがこの一文からうかがえる。われわれはそういう人達の前にもっと正法の存在を知らしめなければならない。

  主婦  佐野喜久子 67才

 医師として医学の限界を感ずるのは、患者の死にあう時でしょう。死を止めることができない時、また一人死に向う人間をみる時、現代の医者は余りにも無力だと訴えられております。臨終の床に宗教家の力を借りることはできないか?と問題提起している医師がいられる。科学万能の時代から、人間の内面への思考に思い至った今日、必然的に宗教家の必要性に目を向け始めたようです。
 確かに仏教は死後のために説かれたものではありません。人間の生き方を教え、それによって人生の終結がきまることを教えています。坊さんのお説教や人から与えられたものではなく、自分が宗教を持ち、生活実践の中から感得した生命によって生死の解決をはかる以外にないと思います。
 どんな人でも、生老病死の四苦は免れません。四苦八苦の解決法を教えたのが仏教なのです。故に、正しいもの、力あるもの、そしてより高い教義を求めることが大事です。
〝従容として死につく〟とは、自分自身の生き方の結論ではないでしょうか。医学を否定せず、その限界に挑戦できる生命力を得るものそれが宗教であることを訴えたく思います。   (横浜市神奈川区)

  解説

 この法語の中で二つの投書を紹介した。このような内容の投書は、もし十年前であったら完全に没になって新聞に載ることは絶対になかった。新聞記者というものは無神論者、無霊魂論者で唯物論者が多い。新聞が宗教や心の問題を取り上げることは全くなかったといってよい。その新聞がこのような投書をのせるようになったということは、私は唯物論的な考え方による新聞の編集方針が変ったのではなく、新聞も読者が買ってくれないと困るのであるから、一般大衆のものの考え方が変ってきたので商業政策上、こうした投書も取り上げないと新聞が売れなくなるという考え方からのせたものだと思っている。
 そうであればあるだけに、新聞社といえども一般大衆の宗教指向、心指向の傾向は無視できなくなりつつあるということであり、そこに私は世の中が音を立てて変りつつあることを感ずるのである。
 さて、浜松にできるホスピスは、カトリック教会が建てるのであるから、患者はカトリック信者が主体で、患者が安らかに臨終するように心の指導をする宗教はカトリック教ということになるであろう。人間が死んで行くのに、カトリックの人はこういう臨終をしなさいとか、創価学会、立正佼成会、生長の家等各宗各派によって、その信仰によってそれぞれ死に方が違うというようなことがあるのであろうか。
 人間は宗教宗派を担いで生まれてくるのではない。生まれてくる時に、その家々の宗教宗派によって、そこに生まれてくる子供達はそれぞれの宗教宗派にふさわしい生まれ方をするというのであれば死ぬ時も、それぞれ違った死に方をするのだということになるのかも知れないが、生まれてくるのに、私が生まれる家は神道だから神道的な生まれ方をしましょうとか、私の生まれる家は立正佼成会だから立正佼成会式生まれ方をしましょうといって生まれてくるわけではないのであるから、死ぬ時も宗教宗派によって死に方が違うということはないのである。だから臨終に際して心が安らかであるようにという指導も一つであっていいので、それぞれの宗教宗派の指導者達が、それぞれ自分の所属の信者に対して、それぞれの宗教宗派によって臨終の時の心得は違うのですというような指導をもしすることがあったとしたらそれはまちがっているといわなければならないのである。
 宗教とは、なんのために、どのような生き方をするかを教えるものであるから、もっと生と死ということを忠実に見つめて法を説かなければならないのに今の宗教家は生と死をじっと見つめさせる。魂を見つめさせるということはせずに、単に道徳的なこの世の限りの生き方だけを強調している。
 浜松のホスピスの病院はカトリック系であるから問題は起らないのであろうが各大学病院がホスピスのあり方を採用するとした場合、入院している患者は、種々雑多の信仰をしている人があり無神論者もあるのである。そういう人達に臨終の心得を教えるということになった場合、神道の人には神主さんを、浄土真宗の人には浄土真宗の坊さんを、生長の家の人には生長の家の講師をとか、そんな繁雑なことはできないであろう。人間が死んでゆくのはみな一つの方法でしかないのであるから、その最後の臨終の心得を教えることができる一人の人があればそれでよいということになる。
 ついでに書いて置くが、アメリカの人間科学研究所では、薬を使わずに瞑想をさせることによってガンや糖尿病を治療するということが既に始められている。この研究所で指導している瞑想はキリスト教的瞑想である。それはキリスト教的というよりもキリスト教的雰囲気の中における瞑想で、瞑想はなにもキリスト教的雰囲気の中だけでしかできないというものではない。
 瞑想にしたってキリスト教的瞑想とか仏教的瞑想とか、今はわかれているように見えるが、もともと心を神にふり向けて瞑想するという方法は一つしかない。日本にもこれからホスピスがふえ、瞑想を治療に応用する病院がふえてくると、今までのように新興宗教が病気治しを教義にするということはできなくなる。
 丁度この原稿を書いている時、秋田市の女医さんが、心で病気を治すということをしているとNHKがテレビ放送していた。私は日本中の医者が早くこの女医さんのように、堂々と「心で治します」と宣言してくれるようになることを望んでいる。
 今の新興宗教がやっているような病気治しの面を全部医者がやることになり、夫婦の調和とか親孝行とか、いわゆる感謝という面は道徳的立場で取り上げればいいのであるし、そうなれば宗教で扱う分野は、「心と魂」という面だけになってくる。そうなった場合、今の新興宗教は心と魂の面を充分に指導することはできない。だから私が今の日本の新興宗教の役割りは終ったし既成宗教もまたそれを指導することはできないというのである。

 心と魂の面をよりよく指導できるのは正法しかない。

 医者がそのような指導をしても、全く医者の手に負えない病気がある。霊的現象即ち憑依によって起る病気はどんな薬をのませてもどんな治療をしても今の医学では治せない。瞑想をさせようとしても自分で自分の心がどうにもならないのであるから瞑想することもできない。憑依してくるのはそこに憑依霊を呼び寄せる雰囲気があるのであるから、患者以外の他の家族が協力してまず憑依霊に同通するような暗い争いの雰囲気をその家族からなくするということをしなければならない。

 新興宗教は病気治しを教義としているから、病気していた人がその信仰をして治ったということになると、指導者達は「あなたの信仰はすばらしい」とほめる。病気が治ったということは喜ぶべきことではあるが、必要以上にほめたゝえることはやめるべきである。病気になっていて治ったということよりも病気しない方がいいのである。健康で病気しないという人は病気にならないだけの心の強さがあるのであり、病気になった人は病気になるだけの心の弱さがあったということであり、病気が治ったという人は、やっと健康である人と同じ線になってきたというだけであった健康であったという人より以上に立派になったわけではない。
 新興宗教団体では、病気が治ってやっと一人前になった人を、健康体の人よりもりっぱな信仰ができているみたいにほめそやしている。から新興宗教団体では病気が治ってやっと一人前になった人のほうが威張って、健康体で病気しないという人の方がなにも人に眼を見晴らせるような体験がないので小さくなっているという現象が起きている。病気が治ったということよりも、病気もせず何ごともなく毎日々々無事で暮らせることがどんなにありがたいことであるかということに気づかないと、なにか変ったことがないと喜べないという心の状態では正しい信仰をすることはできないのである。
 病気をしている人よりも健康である人の方が多いのであるし、その健康である人がどのようにして心を大きく広くゆたかにして魂を向上してゆくかを宗教は本来説かなければならないのである。
 しかし病気をしている人も救わなければならないから心と病気、心と身体の関係も書かなければならないのである。



法 語    人を救うために         1980年12月28号

第九十二章 相手に感謝すること

 指導者、また人を指導しようとする人は、自分は正法を知っているが、あの人は知らないのである。だから自分が教えてやるのであるという思い上った気持ちを持ってはならない。そういう心を持ってすると、その指導は必ず失敗するか、または相手の反発を招くことになります。なぜかというと、そういう人の心の中には、自分を善と見て、相手を悪だと見る心があるからです。「お前は悪いからこの話を聞け」といわれると、人間というものは、たとえ自分が悪いということは知っていても「悪い」ときめつけられると遂々反発してしまいます。
 ではなぜ反発するのか。それはその悪いことをした自分(偽我の自分)は本当の自分ではなくて、そういうことをしてはいけないと知っている本当の自分(真我の自分)が本当の自分であるということを知っており、そのことをよく知っている自分、悪いことをしない自分、いつもよいことをしようと思っている自分、その自分が本当の自分だということをよく知っている(これを真の自分という)から「お前は悪い」といわれると「いや、その点は悪かったが、しかし、本当の自分はすばらしいのだ。本当の自分はそんな悪い自分ではない」といって反発するのです。
 本当の自分は悪いことはしない正しい自分だということを知っている心、その心を「自尊心」といいます。人間はみなこの「自尊心」をもっています。どこからこの「自尊心は出てくるかというと、それは「人間は神の子である」という自覚からです。
 だから、相手を悪いと見てすると失敗するし反発を招くので、たとえその人が悪いことをした人であっても、ただ一時の出来心であっただけであって、本当はこの人も神の子であると、相手の神の子の実相に感謝しながら指導をしなければいけないのです。


第九十三章 感銘を与える講演と、そうでない講演

 講演が終ると思われる頃からそわそわする人が多く、終ったとたんにサッと立ち上って帰る人の多い講演は、中味のない感銘を与えることができなかった講演です。「私はよく勉強しているが、あなた達は勉強していない。だから、私が教えてやるのである」というような態度で話をする大学教授達の話は、聞いていて「もっともだ」「いい話だ」と思っても、さて講演が終るとなにも頭の中に残るものがありません。講師の思い上った、人を軽蔑している雰囲気だけが妙に心にひっかかってしまいます。なにも大学教授だけに限らず、宗教の講師でもそういう人があります。
 「この講演によって愛を行じさせていただくのである」「みなさんの幸せを心から祈っているのです」「わたしはみなさんの幸せのために奉仕させていただきたいのです」「このような機会を与えて下さいましたことを感謝いたします」というような敬虔な謙虚な心を持っている人の話は人に感銘を与えるから、終ったからといってサッと立って帰るという人はなく、感銘を受けたその心の余韻をひしひしと味わって立ち去り難い思いを与えます。
 押しつけがましい話はいい話だと思っても反発を招きますが「あなたは神の子なのです。その神の子の生命をそのまま表現することがあなたの幸せなのです」という話は喜ばれ感銘を与えます。人に感銘を与える話は、その話を聞きながら、一人一人がみな「あ、この話はわたくし一人のために話をして下さるのである」という感じを持って聞き、聞きながらそれぞれにこれまでの自分の心のあり方を反省してゆくので、講演が終ったとたんに、これまでの人生苦、悩みが一ぺんで解決し、軽い病気ならその場で治るという奇蹟も起ってきます。
 愛のない説教は、人の心を固くするだけで一人一人の魂も救うことはできません。


第九十四章 愛とは、指導者の心のあり方

 「愛するからこそ叱るのである」、「愛するからこそ欠点をいうのである」といういい方が、道理に叶っているように思えるのに、なぜその努力の割に成果が上らないのでしょうか。愛するからこそよくなってもらいたいのであるといって欠点を指摘したがために、かえって、夫婦仲が、人間関係が、特に親しい間の親戚関係などがまずくなってしまったという例は、みなさんの周囲にいくらでもあると思います。どうしてでしょうか。
 愛とは欠点を見てそれを矯正しようとすることではなく、その人の痛い心の傷にふれることなく、その傷を真綿でやわらかくくるんで、その人の欠点の奥にある人間神の子の本当の相を、じっと愛の心で眺めやり、その人の神の子の実相が、自然に芽生え発想して、その人が自発的にいいことができるように、いたわり育ててやることなのです。
 愛するからという言葉で、その人がふれてもらいたくない、そっとして置いてもらいたい欠点に錐を刺し込んで、グリグリえぐるような言葉を使い、態度をとっている人がありますが、それは愛という言葉で美化した憎悪の心であります。愛とは人と人の心を一つに結びつける心でありますが、憎悪とは人と人の心をバラバラにして引き裂く心です。
 愛するという言葉で美化された憎悪によって、いかに悲惨な人生がつくられているか。
 天地宇宙を創造された神は「神はない」という無神論者をも憎悪せず、あたたかく抱擁して生かしていられます。太陽のような愛、時が来るまでじっと待つ愛、真綿のようなやわらかな愛…。
 真の愛は、すべての人を癒します。


第九十五章 人を救うためには
 
 正法を一人でも多くの人に知ってもらいたい、と思ったのに失敗した。なんの反応もなかったという人があります。なんの反応はなくても、あなたが人のためにしたというその心と行為は、ちゃんと心のテープレコーダーに記録されて天上界へ行く時の心の基準になるのですから失敗ではありません。また、聞いた人も、いつかは心の中に撤かれた正法の種子が発芽する時が来るでしょう。
 しかしまた、お釈迦さまが「縁なき衆生は度し難し」キリストが「豚に真珠を与えるな」といわれたように、どんなに人を救おうと思っても、その人の縁が熱さず、心の準備ができていなければ、折角の好意も徒労と見えることがあるものも事実です。なんでもそうですが、人を救うのにもあせってはならないのです。
 人生はいろいろな体験を積むことによって魂を向上させる過程です。どんな人でもやがては正法を知ることなしには、魂を向上できない階段に達するのですが、まだ、正法を知って魂を向上させるという段階にまで到達していない人もいっぱいいるわけです。どんないいことでも強制されると、余程心の大きい智慧である人でない限りは反対することが多いようです。
 正法は伝えてゆかなければなりませんが、人を救おうと力まなくてもよいのです。




第九十六章 積極的肯定的想念と消極的否定的想念
 
 何事によらず消極的否定的想念をもって暗い方からだけものを考える人は、それによって新しい不調和を生み出し、さらに輪をかけてますます不調和に悪くなってゆきます。自分自身だけでなく他人をも救ってゆけるような積極的肯定的想念は、雰囲気の影響を受けることはありません。
 「積極的肯定的想念」とは、秩序ある調和した波動の力。
 「消極的否定的想念」とは、分裂した混乱した無秩序な破壊的波動の力。
 「作用・反作用」、「動・反動」、「類は類で集まる」という法則によって、積極的、肯定的な明るい心を持つ人は、ますます幸せになり、消極的、否定的な暗い心の持ち主は、ますます不幸になってゆくのです。
 悟りは積極的、肯定的な明るい心の上にあるのであって、消極的、否定的な暗い心を持っていたのでは悟れません。


第九十七章 「物質本来なし」「肉体本来なし」という教義は間違い

 物質や肉体は、やがて消えゆく存在であるから、生長の家では「物質本来なし」、「肉体本来なし」といいます。たしかに非実在、非存在ではありますが、物質は物質として、肉体は肉体として存在意義があるのです。
 では誰が物質、肉体をこのようにして存在せしめているのでしょうか。つきつめてゆくならば、やはり「神がつくられた」ということになってきます。本来、人間は霊ですが、霊の修行のために神が地球をつくり肉体をつくれれたのです。 物質、肉体を否定することは、神を否定することになります。神を否定しては宗教は存在しえません。 物質も肉体も、やがて灰になって消えてゆく存在ではありますが、存在している間は大事にしなければいけません。

 肉体は心の状態を現わすバロメーターです。

 明るい心を持てば健康であり、暗い心を持つと病気になります。肉体の神秘さを見ると神の存在がわかるしかけになっています。目に見えるものだけがあるのではないので、目に見えないものも存在しているのです。
 
海の波は1分間に18回寄せては返します。世界中どこの海岸でも同じです。

18×2=36 36度が人間の基礎体温です。
36×2=72 72は1分間の脈拍数。
72×2=144 144は人間の平均血圧です。

 人間は満ち潮の時に生まれてきて、引き潮の時に死んでゆきます。女の人は月の周期に合わせて月経があります。

 人間の肉体は自然と連動してつくられています。誰がこのように自然と連動するようにつくられたのでしょうか。肉体が存在する必要がないのであったら、なぜ神は肉体をつくられたのでしょうか。
 生長の家の会員達も正法を知らないと、心は満足できないのです。


第九十八章 目に見えないものが存在する

 二十世紀の唯物科学を信じてきた人達は、「目に見えるものだけが存在する。目に見えないものは存在しない」といってきました。しかし、ここのきて、「目に見えないものが存在する」ということを、宇宙エネルギー科学者が証明しました。
 1991年8月、ボストンで開かれた「エネルギー変換工学会議」で「宇宙エネルギーとその装置」に関する部門がはじめて設けられ、空気中から電気を取り出す技術が発表されたからです。
 近い将来、宇宙エネルギー発電器ができて、それをのせると、自動車も飛行機も船も、各家庭の電気設備も、燃料はタダで、しかも無公害で走るし動かすことができます。電力会社も原子力発電もいらなくなってきます。
 福岡には既に宇宙エネルギー発電によってシェーバー(髭剃り器)をつくっている人がいます。

 21世紀は、宇宙エネルギー利用の世紀になってゆくでしょう。


第九十九章 人間は霊と肉体との二重構造になっている

 私が、宗教家として、これはすばらしいものが発見されたと喜んでいるのは、科学者が霊魂の存在を証明してくれたことです。今までは霊魂は存在するといっても証明のしようがありませんでしたが、これからは誰しもが霊魂の存在を信じてくれることになります。

 人間は、

   肉 体のエネルギー 
               > 一体 (色心不二)
   霊、心のエネルギー

 となったものであるといいます。

 今まで宗教家がいってきたようなことを、科学者がいい出してきました。霊魂は、意識と記憶を持った一つの生命体であり、霊魂が人間の本体であると。
 人間は死んでも、肉体を抜け出した霊魂はあの世に存在します。そして、その霊魂は輪廻転生するというのです。
 霊魂の話は、今まで宗教的なものと思ってきましたが、これからは日常の常識となってくるのであり、霊魂はないという唯物論者は、これから常識のない人ということになって、社会の落伍者になってゆくでしょう。
 仏教も、今まで残された経典をつぶさに調べて、釈迦の本意を知ろうと、釈迦滅後二千五百年間いろいろな努力精進を重ねてきましたが、もはやそのような努力は必要なくなってきました。


第百章 地球意識、宇宙意識(宇宙即我)、そして神

大地に草木が叢生して植物、動物、そして人間を生かしているのは、地球もエネルギーを持っている生命体であるからです。即ち地球精神(意識)があるからです。だから人間は地球精神に調和する心を持たなければなりません。地球精神に調和しない心を持った人は、天災地変によって生を中断されることになるのです。自分のことしか考えない、目先のことしか考えない視野のせまい心の持ち主は、地球精神にそぐわないことになります。
 この宇宙は、全体がコンピューターに制御されたように厳格な法則、規則によって動いています。これは宇宙には宇宙をこのように動かしている宇宙精神(意識)があるからです。
 その宇宙の創造者、造物主を、宗教的には「神」というのです。
 宇宙の仕組みを科学的に考えると、必然的に神の存在を認めなければならないようになってきます。
 人間が宇宙意識と一体だということを自覚した境地を「宇宙即我」というのです。
 この「宇宙即我」の悟りを得られた方が釈迦でありキリストであったのです。


終章 地上天国の実現、二十一世紀の人間像

 今まで過去の宗教家が何千年とかかって説明してもわからなかった真理を、いとも簡単に宇宙エナルギー科学者達が説いてくれるようになってありがたく思います。
 霊魂はエネルギーであるということがわかってきました。人生の目的は、個々の霊魂のエネルギーを宇宙大生命エネルギーに合一させることで、それが人格の向上であるといい、その人格の向上は他力信仰では得られないというのです。
 それはそうです。拝んでばかりいて坐ってお経ばかりあげていたのでは、心は少しも向上しません。心を向上させるのは自力でしかないのです。だから、宇宙エネルギー科学者達は、他力信仰の宗教団体は潰れて、あとの残るのは、釈迦、キリストの教えの原点を知った自力信仰団体のみだというのです。こうなると、釈迦、キリストの教えの原点を知って自力信仰を説いているのは、国際正法協会だけということになります。
 まわりを見ると、苦しみ悩んでいる人達がいっぱいいます。そういう人々に救いの手をさし伸べようとする愛と奉仕の心を持つと、その心が神の波動と調和して、人も救われるが、何よりも自分が救われてゆくのです。
 自分だけ救われればよいと考えている人は、神に波長が合わないのです。
 宇宙は調和しているのですから、われわれもすべてについて調和すべきです。
 地球精神、宇宙精神を持ち、愛と調和と奉仕の心を持った人が、二十一世紀を建設してゆかなければなりません。
 今のような日本の宗教界の現状が、そのまま二十一世紀へ引き継がれてゆくことは、誰も望んでいないでしょう。
 正法を知った「愛と調和と奉仕」の心を持った人々の力を結集して、二十世紀の迷妄を突き破り、輝かしい二十一世紀を創造してゆきたい。
 同志よ、結集せよ。



あとがき

 「正法」誌の法語は、1978年9月に始まって1980年12月、2年3ケ月で第九十五章で終わっている。どうして中途半端な第九十五章で終わらせてしまったのかわからないが、第九十六章から終章までを書き進めてゆく間に、最後の六章は宇宙エネルギーが開発されたこの日のために残されていたような気がしてならなくなってきた。
 第九十七章に生長の家のことを書いたのは、私自身生長の家の本部講師をいていて、「物質本来なし」、「肉体本来なし」の教義に悩まされてきたので、私と同じような悩みを持っている人を救いたいという心で書いたのである。
 「法語集」を「信仰の指針」としてまとめるにあたって感じたことは、十何年も前に書いたものであるとして捨ててはならない、今も信仰する人々にとっては大事なことが書いてあるということであった。
 神理は永遠に古く、また永遠に新しいものであるから、それは当然のことといえるが、これによって人々が「正しい信仰とはなにか」と言う事を知れば、そこから必然的に日本の宗教改革ができると思っている。この本をよんで正しい信仰をしようと思われる方は私とともに力を結集して下さい。
 とにかく正しい真理を知って、楽しい二十一世紀へ生きてゆきたいものです


  平成四年八月
                 園頭広周


2011.07.31 UP