高橋信次先生・園頭広周先生が説かれました正法・神理を正しくお伝えいたします






特集 正法と現代宗教



正法と神道-1




 高橋信次先生が悟りを開かれたのは昭和43年11月23日であった。

 日本に仏教が伝来して以来約1500年、その間「ジャブドーバー」という言葉を口にし、書いた人があったことは私はまだ聞かない。ともかく仏教に関係した人で「ジャブドーバー」ということを口にし、書かれた実在の人物は日本では高橋信次先生をもって初めとする。日本の仏教書の中にも出てこない。

 正法誌の昨年12月号(第16号)「釈尊と高橋信次先生」の中で「ジャブドーバー」のことを書いたのは、岩波新書、前嶋信次著「玄奘三蔵」の122ページに書かれているのを引用したのである。
贍部州(ジャブドーバー)と書かれている。

 玄奘三蔵はインドに経典を取りに行かれた時に、「ジャブドーバー」に釈尊が生まれ変わって行かれるということを聞かれたからこそ、このことを大唐西域記の中に書かれたのである。聞かれもしないことを書かれることはない筈である。玄奘三蔵は今から約1500年前の人である。それ以来、中国でも日本でも、「ジャブドーバー」ということを口にした人は絶えて久しくなったのを、
高橋信次先生が「ジャブドーバー」とは、この日本のことだったのであると書かれたのである。
日本は「正法」が説かれるにふさわしい条件が整っているといわれるのである。

 昭和48年5月、私が初めて東京の理事会に出席したその時、神道にも仏教にもくわしく、新道系の機関紙を出していられる方が私に面会を求めて来られた。

 「正法と神道の関係について、東京の講師に質問しましたが、誰も満足に答えてくれませんでした。あなたに聞いて私に納得が行かなければ私は正法をやめようと思っていますが」と。

 それで私は、「古神道(神社神道ではない)と正法は同じです。」と答えたのであった。私が神道を学んだのは、昭和18年10月ソロモン群島のニュージョジアから鹿児島の連隊付になって帰って来た時に、軍隊の休暇を取って一ヵ月間、霧島神宮で勉強した時であった。

 古神道と釈尊が説かれた正法は一つであると信じていても、やはり、高橋信次先生に聞いて確かめて置く必要があると思って或る日聞いたのである。以下、高橋信次先生が話されたままを画く。(私の使命は、高橋信次先生が説かれたことを正しく後世に伝えることにあるからである。)

 
「釈尊は涅槃に入るその前から、後2500年したら東の国日本(ジャブドーバーのケントマティ)に生まれて行くことを予言されたのです。その頃、日本はまだ国としての体制はできていなかった。そこで、後2500年経って、この日本という国を正法を伝えるにふさわしい国にして置くための計画が実在界でなされることになった。

 蒙昧な日本を一つの国としてまとめて建国するためには、やはり、力のある徳のある方を日本に生まれさせなければならないということで、インドでババリーといわれた方、この方は日本では阿閦(あしゅく)如来といわれているがこの方を日本に生まれさせるということになったのである。この方が即ち神武天皇である。日本という国はいろいろ実在界から守られてきた。第二次大戦が避けられないことになってきた。日本が敗戦になった時、その敗戦になった日本を一つにまとめて行くには、やはり偉大な徳を持たれた方を生まれさせて置かなければならないということで、実在界の計画によって生まれられたのが今の日本の天皇陛下(昭和天皇)である。天皇陛下の前世は、釈尊が入滅せられて200年後、マガダの国王としてインドを統治されたアショカ大王である。


((*アショカ大王は戦えば必ず勝つという勇気ある大王で、インドで初めて統一国家を建設した。しかし、戦争というものは常に多くの人々を犠牲にし、悲惨にするものであることを悟り、世界の歴史上はじめて軍隊を解散し、釈尊が説かれた不殺生を誓い仏法に帰依した方です。アショカ大王の功績の第一は、釈尊の教えを政治、社会の現実の政策の上に生かし、仏教は単に個人の救いの宗教ではなく、社会全体、世界全体を救うものであることを実践し、インド国内だけの仏教であったものを、シリヤ、エジプト、マケドニアにも使節を派遣し、仏教思想と地中海文明との交流を図り、仏教を世界仏教にまで高めた人である。
 釈尊の偉大さを後世の人々に伝えなければならないということで各地に精舎、仏塔を建立された。釈尊が実在の方であったことを現在の人々が知ることができたのは、アショカ大王がルンビニーに建てられた石柱によってである。アショカ大王はセイロンへ王子を派遣された。それが現在のスリランカの仏教となっているのである。
 アショカ大王はさらに、それから500年後、カニシカ大王として生まれ、分裂状態であった領土を統一し、晩年仏教を保護し、第三回の仏典の結集を行わせられた。(ゴダイゴが歌ったガンダーラは、カニシカ大王の首都の近在地方一帯の古名である)
 アショカ大王として、つぎにカニシカ大王として生まれられた方が、今の日本の昭和天皇である。
昭和天皇は菩薩界の方でいられるから慈悲の心が深いのである。*))



 文化が伝えられてゆくのに二通りある。
  一、永い時間をかけて人から人へと伝えられてゆく方法
  二、ある文化を経験した霊が、別な所に転生して、前世で経験して潜在意識の中に
    智慧となっていたものを思い出して表現してゆく方法

 二の方法があることは、学者達は認めないであろう。しかし、
私は私自身の体験からそう思うのである。終戦後私は鹿児島にいて心身不二、梵我一如の三昧に入るために禅定をしていた。自分の意識が自分の肉体を完全に客観化出来るようになる直前、私の手は自動的に動いて、天空に向かって双手を挙げて宇宙のプラナを受け、また、腕を両横に挙げて太陽を両腕に抱き太陽と自分と一体となるという観法を自然にさせられていた。させられていたというのは自分で意識することなしに自然にそうなってしまったからである。一昨年三月インドに行った時、ベナレスのガードに宇宙のプラナを受ける禅定をしているヒンズーの坊さん達の姿勢が、私が自然にやっていた方法と同じであることに驚いた。
 仏法を把握していられる阿閦如来が神武天皇として日本に再生されたのであったら、神武天皇が行われたことが神道といわれても仏法であったことは当然のこととなる。



【 正法と古神道 】

 神社神道は中国から日本に仏教が伝来した時、中国で寺を造っていたそのことにならって神殿を造るようになったもので、それ以前の古神道は、自然そのものが神体であって神殿は造られていないのである。その威風が今でも残っているのは奈良の大神(おおみわ)神社である。山の自然をそのまま神体として拝するので拝殿はあっても神殿はないし勿論神像もない。釈尊は神を祭る神殿を造られなかったし、もちろん神像仏像等の偶像を拝してはならぬといわれた。古神道の原点は古事記、日本書紀、祝詞である。昨年1月23日、古事記を書いた太安万侶(おおのやすまろ)の墓誌がみつかり、太安万侶が実在の人物であることがわかると、それまで、太安万侶は実在の人物ではない。古事記は日本の歴史を権威づけようとした創作であったと、日本の歴史をけなしていた左翼の学者達は一言もなく影を潜めてしまった。
* 太安万侶(おおのやすまろ):生年不詳-奈良時代の文官 *

 小林秀雄氏が、古事記伝を書いた「本居宣長(もとおりのりなが)」を出版されて以来、古事記を見直す空気が起こって来ている。
* 本居宣長(もとおりのりなが):江戸時代の国学者・文献学者・医師 *

宣長は古事記伝に
 「すべて神代の伝えごとは、みなまことのことにて、そのように実在する真理(ことわり)は、人のこざかしい知識でそうなるかどうか理解できないといっても、それをウソだと推論してはならない」といっている。


 
釈尊の偉大なる悟りと、古事記を比較対照してみよう。

 
釈尊は、
 「この大宇宙は神によってつくられた。大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけが、そこにあった。」といっていられる。

 
このことは古事記の
 「天地(あめつち)の初発(はじめてひらくる)の時 高天原(たかまがはら)に成りませぬ神の名(みな)は 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」に相応する。
 高天原、即ち大宇宙が発生する以前の宇宙の中心には、天地を創造する大精神、大エネルギーがあった。それを「天之御中主神」というのである。


 
釈尊が
 「大宇宙の創造は、神の意志によってはじまった。意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した」といっていられる
が、これに相当するのは
 
古事記では
 「次の成りませる神の名(みな)は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、この三柱(みはしら)の神は独(ひと)り神成(な)りまして、御身(みけ)を隠したまいき」に当たる。
 高皇産霊神とは陽の原理で能動的な働きであり、神皇産霊神とは員の原理で受動的な働きであり、この世界はすべて陽と陰の産霊(むすび)によって生成するのである。大宇宙の中心エネルギーが陽と陰とに剖判(ぼうはん)して一切のものが生成するそのエネルギーはみな一つのエネルギーであるということを、「独り神成りましてみ身を隠し給ひき」というのである。
 *剖判-天地が二つに分かれること。

 その大精神、大エネルギーによって地球が誕生した。


 
釈尊が
 「地球に生物が住むようになったのは、今から数億年も前である。最初の生物は、太陽の熱と光と、大地と海水と、空気と、それに意識界と表裏一体の宇宙空間の相互作用によって、地上に現われた。微生物の誕生である。」といわれた
ところは
 
古事記では、
 「次に国稚(くにわか)く浮脂(うきあぶら)の如くして、くらげなすただよえる時に、葦牙(あしかび)の如(ごと)萌(も)え騰(あが)る物に因(よ)りて、成りませる神の名(みな)は、宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)、此の二柱(ふたはしら)の神も独神(ひとりがみ)と成(な)り坐(ま)して身(みみ)を隠したまひき。
次に成りませる神の名は、国之常立神(くにのとこたちのかみ)、次に豊雲野神(とよくもぬのかみ)、此の二柱(ふたはしら)の神も独神(ひとりかみ)と成(な)り坐(ま)して、身(みみ)を隠したまひき」にあたる


神の意志によって天地の創造が行われることになり、葦牙(あしかび)の如(ごと)というのは、物質を構成する最初の原子がつくられその原子の運動が次々に回転運動を起こして行った。そうして天之常立神、即ち天がつくられ、次に国之常立神即ち地がつくられ、豊雲野神(とよくもぬのかみ)というのは、次から次に原子がつくられ、地球上のすべての生物の原型をなす微生物が雲がむくむくと湧き起こると同じような状態で豊かに無限に発生しつくられて行ったというのである。

 私はこのような宇宙創造の最始源の状態を瞑想する時、全身の細胞がむくむくと胎動して自分の意識が宇宙大に拡大してゆくのを感ずる。このようなことは天啓と直観によってしか把握出来ないものである。
 このような荘厳な天地創造神話を持っているのは日本民族だけである。

 
釈尊が
 「創造(つく)られたものはすべて陽と陰とに分(わか)たれた。結婚(むすび)は陽と陰との調和である。」といわれた。

 
古事記では、陽と陰の調和によって新しい生命が誕生することを「産霊(むすび)」と表現する。創造(つく)られたものはすべて陽と陰とに分(わか)たれることは、
 「次の成りませる神の名(みな)は、宇比地邇上神(ういぢにのかみ)(陽)、次に妹須比智邇神(いもすひじにのかみ)(陰)、次に角杙神(つぬぐいのかみ)(陽)、次に妹活杙神(いもいくぐいのかみ)(陰)、次に意富斗能地神(おおとのぢのかみ)(陽)、次に妹大斗乃辨神(いもおおとのべのかみ)(陰)、
次に游母陀流神(おもだるのかみ)(陽)、次に妹阿夜訶志古泥神(いもあやかしこねのかみ)(陰)、次に伊邪那岐神(いざなぎのかみ)(陽)、次に妹伊邪那美神(いもいざなみのかみ)(陰)。」

 「宇比地邇(ういぢに)というのは、上へ上へと昇って天となる陽の働きであり、「妹(いも)」とは妻のこと陰のことで「須比智邇(すひじに)」とは下へ下へと沈み澄んで地となる働きであり、「角杙(つぬぐい)」とは角(つの)がむくむくと外へ伸びるように、外に現象として現われる働きであり、「活杙(いくぐい)」とは、外に現象として現われる以前に内部にある精気、エネルギーの潜在力をいい、「意富斗能地(おおとのぢ)とは、広やかに大らかに豊かに広々と天に広がる働きであり、大斗乃辨(おおとのべ)とは、地に広がる働きであり、「游母陀流(おもだる)」とは、表現され顕現されて完成され、「阿夜訶志古泥(あやかしこね)」とは、何と表現していいかわからないが、ただかしこみ認める以外にない不可思議な働きであるということである。「阿夜訶志古泥」の心は「諸法無我」即ち神が創造(つく)られた一切の法は人間の我の心の介入を許さない所のただただ従う以外にないものであるという心と同じである。

 用の原理は遠心力であり、陰の原理は求心力であり、また、陽即ち男性は外交的天分を持ち、陰即ち女性は内向的天分を持っていることを現わすのである。

 高皇産霊神という天の原理、陽の原理の人格的顕現を「伊邪那岐命」といい、神皇産霊神の地の原理、陰の原理の人格的顕現を「伊邪那美命」という。


 
「微生物の発生誕生に続いて、植物が発生し動物が姿を見せはじめ、やがて爬虫類時代を迎え、恐竜時代が下火になった頃、人類は特殊な乗り物に乗って他の天体から飛来した。かくして人類は、神の意志にもとづいて、調和という仏国土をつくりはじめた。」と釈尊はいわれる。

 
古事記には、「自擬嶋(おのころじま)」として自転公転をはじめ、神の創造によって山が、野が、木が、水が創造(つく)られ、植物が、動物が創造(つく)られ、天孫降臨となったと書かれているのである。

 神道は自然霊崇拝である。天地万物一切は神によって創造(つく)られ霊である。宇宙そのもの、地球そのものが神の神体であるから神道では本来神殿をつくらず神像を持たないのである。

 釈尊が説かれた正法と神道とは本来一つのものである。

 釈尊も宇宙そのもの地球そのものが神体であり、自然は全て神の生命の顕現であると説かれて偶像を拝してはならないと説かれた。自然霊崇拝の精神は現在インドのヒンズー教の中に現わされているが、神道がのちに神殿を造り神像を造って拝することになったと同じように、ヒンズー教も礼拝の対象を造って偶像崇拝に堕してしまった。

 
釈尊が、「人間は、神の意志である調和をめざす神の子として物質界に降り立ったのである。」と説かれたことを古事記では「天孫降臨」といっている。日本人は人間を神の子であると信じてきた。



【 罪穢れと祓い清め 】

 
釈尊は、人間の本質は神の子たる霊であるから、罪穢れは「反省」によって浄化することができる。いけないとわかったら二度と同じ誤りを犯さなければよいのであると説かれた。罪穢れは反省即ち心の転換によって祓い浄めることが出来るのであるということが神道において端的に表現されているのが「大祓詞(おおはらいののりと)」である。

 罪穢れというものは、先天的、先験的に人間の本質としてあるものではなくて、人間神の子の本質の霊を、蔽(おお)い隠している一時の心の間違いであって、それは恰も、太陽の光を雲がさえぎっているようなもので、雲が晴れれば太陽が燦々と輝くのと同じように、一時の心の迷いであり、罪穢れは、祓えばよいのであるというのである。祓うことによって一切は浄くなるという原理を「祓戸大神(はらいどのおおかみ)」というのである。神道では、自然の創造の生命原理を「神」という言葉で表現してあるのである。


 
釈尊が、反省と禅定によって梵我一如。宇宙即我の悟りに入ることができると説かれたことは、神道では大祓(おおはらい)によって罪穢れを祓って「鎮魂」すれば「帰神(きしん)」すると説かれている。どちらも同じことである。

 
神道に「天之御柱伝(あめのみはしらでん)」という「帰神」の観法がある。これは釈尊が説かれた「宇宙即我」の観法と同じである。私が指導する「反省禅定研修会」ではこの「天之御柱伝」も教えているが、現在の日本の神主さん達の中には、古神道が伝えてきたこの観法は、もはや誰も知っている人はないのではないかと思う。勿論、実修している人もないであろう。大祓の本当の精神も失われてしまって、単に形式的に「幣(ぬさ)」で祓(はら)うことだけで事足りるとしている神主さんが多いようで、この点、日本の神道も、古神道の原点に帰らなければいけないのである。

 これまで神道と仏教は相容れないものであると、永い間説かれてきた。それは神道が、神社神道という歪められた点に立ち、仏教が、原始仏典、大乗仏典によって歪められた点に立って、双方を比較するから相容れないものとなっているのである。この文章でまだ完全に説き尽くした訳ではないが、
神道が古事記を基とした古神道の原点に帰り、仏教が、釈尊の正法の原点に帰れば、どちらも同じ神理が説かれているのである。

私が高橋信次先生の教えを受け、先に書いたように、釈尊が2500年経って日本に誕生されて正法を説かれるために、阿閦(あしゅく)如来といわれた方が神武天皇として日本を建国されたのであることを教えられた時に、神道と正法が一つであることがはっきりとわかったのであった。

 
高橋信次先生が著書の中に神道のことを書かれなかったのは、神道も正法なのであるといわれると、神社神道、特に明治維新後の神仏分離令によって造り上げられた国家神道も正法であると誤解されて、戦争中に日本人が持ち、そういう考えを日本人が持つことを外国が危険視してきた八紘一宇の精神、日本天皇が世界統治の中心者であるという極端な愛国思想を復活させる危険があったからである。

 昭和天皇はアショカ大王の生まれ変わりで、素晴らしい慈愛に満たされた菩薩界の方であるというのであり、天皇の御仁慈(ごじんじ)さは数知れない。このような偉大なる方を天皇として仰ぐことが出来ることは日本人にとって幸せなことではあるが、現在の天皇が世界統治の中心者になられるかどうかはまた別問題である。最近、日本が右翼化してゆくことに対して、既に東南アジア諸国は警戒の念を持ち始めている。日本人が天皇を国の象徴として尊敬しなければならないことは当然であるが、日本人が日本の国を愛するという愛国心が、外国から見た場合に危険視されるような愛国心であってはならないのであって、日本人が国を愛するという愛国心は、世界各国から見ても当然だと思われる諸外国から危険視されない普遍的な愛国心でなければならないのである。

 
釈尊の正法も、神道の古事記も、人間は皆神の子であり、宇宙中心生命によって生かされていることを説いている。されば、人を愛することも、国を愛することも世界を愛することも一つでなければならない。国を愛するということが、人種に差別をつけたり、統治民族と被統治民族という政治的な上での支配関係を意味するものであったりしてはならないのである。

 高橋信次先生の生存中、講師をしていた者の中で、仏教と神道の原点が一つであり、釈尊が2500年後に東方の国、日本に生まれられるために日本の建国が実在界で計画されたのでるという秘儀を知らされたのは私一人であった。であるが故に、「正法と神道の関係」については、私が高橋信次先生に代わって伝えなければならないと思ってこのことを書くことにしたのである。

 正法と神道との関係についてはまだまだ書くことが多い。この文章だけでは意を尽くせなかったが、この文を一読された人達は、神道も正法であるということだけはわかって頂けたと思う。
 神道関係の方々は、神社神道以前の古神道の原点に帰ってほしい。

 奈良朝時代、「本地垂迹説」が起こった。本地垂迹説というのは、仏教でいう仏が、日本の神になられたのであるというので、「神仏同体説」ともいう。インドの仏が日本では神として現われたというのでその神を「権現(ごんげん)」といった。日本人の思想の中にはこのような神仏一体、神仏同体説があったのである。

 神武天皇のご意識の中には、インドで阿閦如来として正法を悟っていられた意識が内在していた。神武天皇の弓の先に金の鵄(とび)がとまって、その光に賊は眼が眩んだという伝説は、神武天皇ご自身の心の光、徳によって敵する者も自覚が改まってその徳に伏したということであり、人間を罪悪深重の凡夫だと規定したのは鎌倉時代であり、奈良朝時代というのは、日本が建国されてまだそう遠く年月を経っていない時であり、太安万侶によって、それまで口誦(こうしょう)されてきた神話が初めて古事記として文字化されて、人間は神の子であるという純粋な心の強かった時代なのであるから、阿閦如来が神武天皇であったという自覚も伝えられて、本地垂迹説、神仏同体説が生まれてきたと考えられるのである。

 奈良朝時代に唱えられた神仏同体説、本地垂迹説はその後久しく絶えて説かれることはなかった。その間約1400年、高橋信次先生が釈尊の自覚を持って出生されて再び、本地垂迹、仏同体説が説かれることになったのである。神仏が同体ならば、その説く法も一つであるべきである。
 相容れないものとして対立してきた神道と仏教は本来は一つの神理を説くものであったのである。古代人の直感的叡智は宇宙存在の原点、本質を知っていた。日本民族が外国の文化を吸収して、日本独特の文化をつくりあげてしまったのは、日本人の思想が全一包容的であったからである。






【 補足 】


今上天皇(昭和天皇)の御徳


終戦時、今上天皇とマッカーサー元帥の会見のことをある集まりで話をしたら、そういう話は初めて聞きましたという人ばかりであったので驚いた。事実は事実としてお知らせして置くべきであると思うので書くことにした。

1.昭和6年、熊本地方で陸軍特別大演習があり、終わって陛下は鹿児島にお立寄りになり、そこから軍艦榛名(はるな)で海路横須賀に向かわれた。11月19日、日没と同時に、煙をふく桜島を後に静かに鹿児島湾を出港された。榛名の檣頭(しょうとう: 帆柱の先、マストの頂 )には天皇旗がひるがえっている。鹿児島湾港を出る時は既に真っ暗くなっていた。食事時であるのに陛下が居られない。侍従が探してみると陛下は一人で甲板に立っていられる。見ると、指宿の辺りに見える海岸に、延々2、30キロメートルにわたって赤い紐のような明かりが小さく見える。点々とかがり火が燃えているのが見える。海岸から陛下の御召艦(おめしかん)が見えるわけではない。それでも、鹿児島の各町村の人々は、丁度御召艦が沖合を通過する頃だと、手に手に提灯を持ってお見送りしているのであった。それらの人々のことを思われると、陛下はご自分の部屋でお食事を取っていられることはできられなかったのである。暗い甲板の上で、冷たい潮風に吹かれながら、陛下は沿岸一帯の人々に対して永い間挙手の答礼をしていられたのである。勿論、沿岸の人々は陛下がそのような挙手の礼をしていられる姿が見える訳はない。
 これと同じようなことがあった。
 昭和26年だったと思う。(手許にはっきりした資料がないので或いは年は私の記憶違いかもわからないが)陛下が南九州に行幸されたことがある。御召列車は日豊本線に沿って大分から宮崎へ入る。大分県と宮崎県の県境の宗太郎峠は、鹿児島本線の三太郎峠、肥薩線の吉松、人吉間の峠と共に三大峠の一つで、トンネルの多い所である。宗太郎峠に列車がさしかかる頃が丁度昼食の時間であった。侍従が弁当を出された。トンネルとトンネルの間にも民家がある。そこの人達が御召列車が通るというので日の丸の旗を持って立っていた。列車が佐伯駅を通過して山へさしかかると、それらの沿線の人々にこたえられる為に、陛下は食事もなさらずに、直立の姿勢でずっと会釈をされていたというのである。



2.マッカーサー元帥との会見

 昭和30年9月14日の読売新聞に、当時の重光外務大臣の「天皇陛下を讃えるマッカーサー元帥」という記事があった。
 
マッカーサー元帥曰く、「戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言してはばからない。それにもかかわらず、陛下のなされたことは今だかつて充分には世に知らされていない。歴史が正当に書かれる場合には、天皇陛下こそ新日本の生みの親であるといって崇められることになると信じます。私が初めて天皇陛下にお会いしたのは東京の米国大使館内であった。どんな態度で陛下が私に会われるかと好奇心を持ってお会いした。私は実に驚きました。『私は日本の戦争遂行に伴う如何なることにも、また事件にも全責任をとります。また私は、日本の名においてなされた総ての軍事指揮官、軍人及び政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断如何様のものであろうともそれは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めて頂きたい。私は全責任を負います。』これが陛下のお言葉でした。もし国の罪をあがなうことが出来れば、進んで絞首台に上ることを申し出られた日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の陛下に対する尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。陛下はご自身のことについては、未だかつて私に要請されたことはありませんでした。どうか日本にお帰りの上は自分の温かいご挨拶と親しみの情を陛下にお伝えください。」

これは重光外相がマッカーサー元帥に会われた時の記事である

 陛下は、マッカーサー元帥に前後3回お逢いになっていられる。第1回は、敗戦直後の昭和20年9月27日である。陛下はマッカーサー元帥に逢いたいといわれた。その事を伝えられたマッカーサー元帥は、第一次大戦が終わった時ドイツのカイザー皇帝は、連合軍の司令官に跪いて、『絞首刑にだけはしないでほしい』と哀願したので、日本の天皇も命乞いに来ると思っていたというのである。
しかるに、天皇陛下は、『一切は私の責任です。日本の国の幸せのために私は喜んで絞首刑になります。』といわれて、『今、日本の国民は食糧難で苦しんでいます。この日本の食糧難を解決するのはあなたの力しかありません。ここに皇室財産の目録があります。これをすべてお金にかえて日本人が飢え死にすることのないようにして下さい。』といわれたのである。

 
このことは当時の内閣書記官長、迫水久常氏、後に参議院になられたが迫水氏は鹿児島県出身であったので、私は直接迫水氏からこのことを聞いたのであった。

 それによってアメリカは終戦後の日本に食糧援助をして、当時、日本の人口の五分の一は餓死するかも知れないと言われていたのが餓死せずにすんだのである。これはみな天皇陛下の御徳の賜である。その陛下の御徳に支えられて現在の日本の繁栄があるのであるから
マッカーサー元帥が、「戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なり。」と断言していられるのである。

 
日本人は誰一人として天皇陛下に虐待されたと考えている者はいなかった。外国の歴史の中には、人民を虐待した皇帝が、人民によって殺された例はいくらでもある。終戦後でも中近東の皇帝が人民によって殺され追放された。もし日本人が、天皇に虐待されたという怨みを持っていたとしたら、戦後、天皇陛下が地方の各県を行幸された時に、天皇陛下を殺そうとした人間があってもいい筈である。しかし、そういう日本人は一人もいなかった。天皇陛下は例のソフトの帽子を片手に高々と差し上げられて国民にもみくちゃにされながら歩かれた。今度の戦争で、夫を失い、親を失い、子を失った戦争未亡人や戦争遺児達また戦死者達の親も、誰一人として、「天皇のために殺された。」とは思わなかった。そこに天皇陛下の御徳がある。私はこの事実を素直に認めるものであり、まだこの事実を知らない人のために知らせたいと思うのみである。

 天皇陛下は一切は自分の責任であるといわれた。しかるに、現在、問題を起こしている政界、官界、実業界の指導者達は、「知りません」「記憶にありません」と責任を回避している。少しは天皇陛下に学んだらどうであろうか。今、日本に欲しい人物は、一切のことにおいて私の責任だと言い切れる人間である。




3.大平首相の話

 昭和42年、大平首相が外務大臣をしていられる時に、神戸市で合同講演会をする為に東京から新幹線で一緒に神戸に行ったことがある。その車中、大平外務大臣が次のような話をされたことがあった。
 「天皇陛下の御徳は、我々内閣の者が束になっても陛下お一人の力に及びません。外交問題などでも、総理大臣はじめ我々当事者がいくら説明をしても理解してもらえないことが、天皇陛下に御陪食されることになって一緒に食事をされると、その問題についておっしゃるわけではないのですが問題が解決するんですね。ふしぎな力を持たれた方です。
 また、外国の大使、公使が任期が終わっていよいよ本国に帰られるという時に御陪食ということになります。食事中はあまりお話をなさらないのですが、いよいよ食事が終わって帰られるという時に、陛下が、「お国にお帰りになりましたら、お国の皆さんによろしくお伝えください。」とそれだけおっしゃるのですが、それだけで大使、公使の方々が感激なさるのですね。日本に大使、公使として来られた外交官の方々で、「天皇陛下の御徳を讃える会」がつくられているんです。

 天皇陛下に接せられた諸外国の方たちが、天皇陛下ほどの人格的感化力をお持ちの方はないといっていられることはそのまま素直に信ずればよいと私は思うのである。終戦後、天皇のことをはじめとして、日本のことはなんでも悪く思い、悪く言わないと気がすまないという風潮がつくられてしまったことは遺憾である。いいものはいいと素直に認めるべきであって、いいものを悪いと思う必要はさらさらない。正見とは素直な見方、考え方をすることでもある。


正法と神道-1 ・・・ 完





 正法誌 第18号   ( 1980年2月号 )より




2017.08.03(木曜日) UP